<皇孫系氏族>景行天皇後裔

MI01:宮道速麿  宮道速麿 ― 蜷川親直 MI03:蜷川親直


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蜷川親直 蜷川親当
 蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。宮道式俊・親直父子は、治承4年(1180年)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。以後、代々、新川郡蜷川郷に住したというが、鎌倉時代の蜷川氏の動向については不詳である。 

 応安(1370年代前半)の頃まで越中国太田庄にあった。足利義教の政所公役を務めたが、義教の死後に出家し智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の『正徹物語』下巻「清巌茶話」は彼の聞書きとされている。
 連歌では、永享5年(1433年)の「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に『親当句集』があるほか、『竹林抄』『新撰菟玖波集』に入集している。宗祇が選んだ連歌七賢の一人。
 子の親元が記した『親元日記』には、智蘊と一休宗純の親交が記録されている。なお智蘊は、アニメ『一休さん』に登場する蜷川新右ェ門のモデルとなったが、実際の一休と交流があったのは出家後の晩年である。墓所は宮道氏の京都真如堂に、墓碑は蜷川氏の菩提寺である最勝寺にある。 

蜷川親元 蜷川親世

 室町時代の幕府官僚・歌人。足利義政・足利義尚将軍期の政所代。蜷川氏当主は代々「新右衛門尉」を名乗っている。
 政所執事の伊勢貞親・貞宗に仕える。寛正元年(1460年)に伊勢貞親が政所執事に就任すると同時に政所執事代に就任、将軍家の家産を司る。山名宗全・細川勝元らによって貞親が政所執事を解任されて追放された文正の政変以降、浮沈の激しかった貞親と行動を共にしたらしく、文明4年(1472年)4月には貞親の亡命先である近江国坂本に滞在していることが知られている。
 文明5年(1473年)正月に伊勢貞親は若狭国にて死去、3月に山名宗全、5月に細川勝元も死去したことで、身の安全が確保されたらしく、6月に京都に帰還すると、8月に政所執事代に再任された。能書家として知られ、武家故実にも通じていた。日記に『親元日記』がある。 

 はじめ室町幕府12代将軍・足利義晴に仕え 、13代将軍・足利義輝の下では政所代を務める。丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に拠ったが、永禄5年(1562年)、上司でもある政所執事の伊勢貞孝・貞良父子が討たれると逼迫し、出羽国庄内藤島城主・土佐林禅棟と庄内下向について計画を始める。ただし、伊勢貞孝・貞良父子が討たれた原因の1つとして、貞親が職権を利用して不法に徳政免除を認定していた事実を親世が告発したからであるとする指摘もある。やがて、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に弑殺されると、ついに親世は所領を捨て逐電した。
 その後、出羽国寒河江荘の高松楯主・高松左門を頼って落ち延びるが、出羽国村山郡金谷原で永禄12年(1569年)11月14日に死去、金谷原の土佐林に葬られた。親世の墓は土佐壇と呼ばれている。
 天文7年(1538年)から天文11年(1542年)までの直筆日記と、天文18年(1549年)から天文21年(1552年)まで残簡を含む『蜷川親俊日記』を遺した。

蜷川親長 蜷川 新

 室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に父の親世と共に拠ったが、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に殺害されると親長は所領を失い没落。後に土佐国に下向して婚姻のよしみで、同朋衆として長宗我部元親に仕えた(親長と元親の妻は異父姉妹)。有職故実に通じており、京の礼法に詳しく、連歌の達人でもあり厚遇を得た。元親百ヶ条を製作した人物と言われる。京都等持寺の僧・策彦周良に元親夫妻の雅号(雪渓、水心理因)を求める使者となっている。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後の長宗我部家改易の際に残った財務処理に手腕を発揮し、さらに一揆の鎮圧にも功績があったため、慶長7年(1602年)に徳川家康に山城国綴喜郡に500石を給されて旗本として取り立てられ、家康の御伽衆となった。
 慶長8年(1603年)、伏見城において徳川家康が征夷大将軍に任命される際には、足利将軍家の儀礼をよく知る者として山岡景友と共に伏見城にて儀式に関する諮問をされた。慶長15年(1610年)5月8日京都にて没す。享年78。 

 旗本・小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。
 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後、東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。外交官を志していたが読売新聞の臨時記者となる。
 日露戦争勃発にあたり、召集され第一軍の国際法顧問,名古屋俘虜収容所付,樺太軍顧問として従軍する。戦後は旅順外国人財産整理委員を経て、韓国の宮内府に6年間勤めた。1912年博士号を得て、フランスに留学し、このときに田中義一と親交を結んだ。帰国後、同志社大学教授に就任し、国際法や外交史を教えたが、同大の内紛に巻き込まれ3年後に辞任する。後に駒澤大学教授を務めた。
 その後、日本赤十字社の慰問使などとしてしばしば渡欧し、ジュネーヴの国際赤十字赤新月社連盟の創設にも関わり、日本赤十字社顧問,国際赤十字赤新月社連盟理事を務めた。田中の援助を受け、陸軍顧問としてワシントン会議にも同行。国内では文部省の思想善導事業の一環として国民主義の重要性を説く講演、著作活動を続けた。一方で、小栗忠順の顕彰にも力を注ぎ、正続『維新前後の政争と小栗上野介の死』などを執筆している。
 第二次世界大戦後は超国家主義者として公職追放となったが、1952年(昭和27年)に『天皇 - だれが日本民族の主人公であるか』を著し、論壇に返り咲く。 1959年(昭和34年)、脳血栓のため86歳で死去。
 蜷川は雑誌『経済往来』1952年8月号に掲載した「俘虜送還国民運動に対する提言」等でソ連や中共による俘虜の長期抑留を合法であるとして擁護し、抑留者の日本への早期帰還を求める各種運動を批判する論説を展開した。

蜷川親敬 蜷川秋秀

 禄高1200石の旗本・滝川具近の四男として生まれた。公称の生年は天保12年(1841年)であるが、享年から逆算すると天保13年(1842年)生まれである。幕末に大目付を務めて鳥羽・伏見の戦いの開戦にかかわった滝川具挙は実兄に当たる。
 安政7年(1860年)2月、旗本・蜷川家を継承していた兄の親従が嗣子なく病死したため、末期養子となって跡を継いだ。この蜷川家は、戦国時代まで越中国新川郡蜷川に留まり、17世紀後半になって書札礼を伝承した蜷川親熈が徳川綱吉の右筆に取り立てられたことで旗本になった家系である。
 文久元年(1861年)8月、小姓組に入番。翌9月には勘定奉行兼外国奉行・竹内保徳の娘との縁組を許可された。元治元年(1864年)、徒頭に任命され、慶応2年(1866年)8月、将軍・徳川家茂死後の幕府軍制改革で禄高100俵以下の御家人(徒組等)により幕府陸軍の銃隊が編成されると、銃隊頭並に任命された。
 慶応3年(1867年)11月、歩兵頭並に転任した。この頃、実家である駿河台の滝川具挙邸で兄一家と同居しており、滝川家の隣人であった勘定奉行小栗忠順の慶応3年の日記には、蜷川邦之助が甥(具挙の長男)で伝習隊将校の滝川充太郎とともに小栗家をしばしば訪問していたことが記録されている。慶応4年(1868年)3月、江戸開城が決まると歩兵頭並を罷免され、静岡藩を与えられた徳川亀之助に従って静岡に移住した。
 廃藩置県後は東京に戻り、明治5年(1872年)に工部省に出仕。逓信省の前身となる電信寮で、お雇い外国人の技術者とともに各地に出張して電信架設に従事した。この頃、氏名を「蜷川敬」に改めている。
 明治19年(1886年)、函館逓信管理局の5等技手となるが、明治20年(1887年)に病死した。享年46。東京都渋谷区恵比寿南の松泉寺に葬られた。
蜷川家は娘婿が養子となって継承しており、子孫は家伝の文書を国文学研究資料館に寄贈している。 

 毛利輝元が幼年の頃からの毛利氏家臣である蜷川親貞(養拙斎)の長男として生まれる。毛利元就の5男である毛利元秋付きの家臣となり、元秋が城将を務める出雲国月山富田城で、元秋が死去するまで家臣として尽くした。諱の「秋」の字は元秋からの偏諱とされる。
 天正13年(1585年)5月5日に元秋が死去すると、元秋には庶子である千満丸がいることを輝元に言上し、赤川就武と共に千満丸に仕えたが、千満丸は間もなく疱瘡によって3歳で死去した。千満丸の死去により元秋の同母弟である末次元康が元秋の跡を継いで月山富田城に入ったが、秋秀は元康には仕えず、輝元に仕えた。
 天正14年(1586年)の九州征伐で豊臣秀吉が赤間関を渡る際に、輝元の命によって蔵田就貞と共に赤間関を警固した。秀吉の大軍は問題なく赤間関を渡り、警固の褒美として秀吉から波平の刀を与えられた。なお、蔵田就貞には高田の脇差が与えられている。没年は不明だが、91歳で死去した。弟の元親が秋秀の養子となって跡を継いだ。 

蜷川元親 蜷川元勝

 天正7年(1579年)5月23日、父・蜷川親貞(養拙斎)が有していた周防国山口の広沢寺を譲られる。天正10年(1582年)12月29日に輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を受けて「元親」と名乗った。
 文禄元年(1592年)から始まる文禄の役では輝元に従って朝鮮へ渡海した。出陣に際して元親は、輝元から紋付きの鞍置き馬を与えられた。文禄2年(1593年)3月には安国寺恵瓊に対して人数書立を提出しているが、同年に朝鮮で戦死した。元親に与えられていた336石余の地と家督は、子の元勝が幼少ながら相続した。 

 文禄2年(1593年)、文禄の役で輝元に従って朝鮮へ渡海した父・元親が戦死したため、元親に与えられていた336石余の地と家督は、文禄3年(1594年)4月1日に5歳の元勝が相続した。なお、元勝が幼少であったことから、文禄2年(1593年)9月11日に輝元は元勝の母方の祖父である佐世元嘉に書状を出し、元親の跡目は元勝に継がせるので、後家となった元嘉の娘に言い聞かすよう伝えている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が防長2ヶ国に減封されると、元勝の知行も336石余から200石に減らされた。慶長9年(1604年)3月3日、輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を受けて「蜷川新三郎元勝」と名乗る。また、慶長14年(1609年)12月30日には「右衛門」、元和4年(1618年)には「四郎左衛門尉」の官途名を毛利秀就から与えられた。
 寛永4年(1627年)8月7日に38歳で死去すると、家督と200石の知行地は、寛永6年(1629年)に子の就之が8歳で相続した。 

蜷川式胤

 東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都に生まれた。祖先は丹波船井郡高屋村の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。
 1869年(明治2年)7月、35歳のとき東京丸の内道三丁に家を与えられ、太政官制度取調御用掛,編輯課御用書類下調掛,文部省博物局御用兼務,内務省博物館掛の職歴を経た。1877年(明治10年)1月、病を理由に退職した。
 在任中には、民法編纂の会議に列して、フランス民法典の翻訳に協同し、また、海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。1871年(明治4年)3月には写真師・横山松三郎,洋画家・高橋由一と『旧江戸城写真帖』を作った。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成らと建議した。5月の九段坂上で物産会、10月の京都博覧会の開催に尽力し、岩倉使節団のための書類準備にも携わっている。
 1872年(明治5年)3~4月、町田久成,当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めのハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物局主催としては初の博覧会(湯島聖堂博覧会)を開き、これが東京国立博物館の始まりとされている。5月から10月には、町田久成に従い、高橋由一,横山松三郎らと、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の宝物を調査し、さらに正倉院の調査を行った。『壬申検査』と呼ばれる。この調査のうちの正倉院開封の状況を、日記『奈良の筋道』に残した。
 道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年(明治9年)1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章,高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を第7冊にわたり刊行し、仏文あるいは英文の解説も付けられ輸出されたことで、海外コレクターの指標になった。
 『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースも訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を贈り、或いは共に町に出て集めた。今日、ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物を贈り、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている。
 1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47。谷中の葬儀に参列したモースは、死因をコレラと記している。1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部』,『観古図説瓦之部』を刊行した。