| MI01:宮道速麿 | 宮道速麿 ― 蜷川親直 | MI03:蜷川親直 | ● |


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| 蜷川親直 | 蜷川親当 |
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| 蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。宮道式俊・親直父子は、治承4年(1180年)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。以後、代々、新川郡蜷川郷に住したというが、鎌倉時代の蜷川氏の動向については不詳である。 |
応安(1370年代前半)の頃まで越中国太田庄にあった。足利義教の政所公役を務めたが、義教の死後に出家し智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の『正徹物語』下巻「清巌茶話」は彼の聞書きとされている。 |
| 蜷川親元 | 蜷川親世 |
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室町時代の幕府官僚・歌人。足利義政・足利義尚将軍期の政所代。蜷川氏当主は代々「新右衛門尉」を名乗っている。 |
はじめ室町幕府12代将軍・足利義晴に仕え 、13代将軍・足利義輝の下では政所代を務める。丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に拠ったが、永禄5年(1562年)、上司でもある政所執事の伊勢貞孝・貞良父子が討たれると逼迫し、出羽国庄内藤島城主・土佐林禅棟と庄内下向について計画を始める。ただし、伊勢貞孝・貞良父子が討たれた原因の1つとして、貞親が職権を利用して不法に徳政免除を認定していた事実を親世が告発したからであるとする指摘もある。やがて、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に弑殺されると、ついに親世は所領を捨て逐電した。 |
| 蜷川親長 | 蜷川 新 |
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室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に父の親世と共に拠ったが、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に殺害されると親長は所領を失い没落。後に土佐国に下向して婚姻のよしみで、同朋衆として長宗我部元親に仕えた(親長と元親の妻は異父姉妹)。有職故実に通じており、京の礼法に詳しく、連歌の達人でもあり厚遇を得た。元親百ヶ条を製作した人物と言われる。京都等持寺の僧・策彦周良に元親夫妻の雅号(雪渓、水心理因)を求める使者となっている。 |
旗本・小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 |
| 蜷川親敬 | 蜷川秋秀 |
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禄高1200石の旗本・滝川具近の四男として生まれた。公称の生年は天保12年(1841年)であるが、享年から逆算すると天保13年(1842年)生まれである。幕末に大目付を務めて鳥羽・伏見の戦いの開戦にかかわった滝川具挙は実兄に当たる。 |
毛利輝元が幼年の頃からの毛利氏家臣である蜷川親貞(養拙斎)の長男として生まれる。毛利元就の5男である毛利元秋付きの家臣となり、元秋が城将を務める出雲国月山富田城で、元秋が死去するまで家臣として尽くした。諱の「秋」の字は元秋からの偏諱とされる。 |
| 蜷川元親 | 蜷川元勝 |
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天正7年(1579年)5月23日、父・蜷川親貞(養拙斎)が有していた周防国山口の広沢寺を譲られる。天正10年(1582年)12月29日に輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を受けて「元親」と名乗った。 |
文禄2年(1593年)、文禄の役で輝元に従って朝鮮へ渡海した父・元親が戦死したため、元親に与えられていた336石余の地と家督は、文禄3年(1594年)4月1日に5歳の元勝が相続した。なお、元勝が幼少であったことから、文禄2年(1593年)9月11日に輝元は元勝の母方の祖父である佐世元嘉に書状を出し、元親の跡目は元勝に継がせるので、後家となった元嘉の娘に言い聞かすよう伝えている。 |
| 蜷川式胤 | |
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東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都に生まれた。祖先は丹波船井郡高屋村の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。 |