| MT51:結城秀康 | 徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平直堅 | MT53:松平直堅 | ● |

| リンク | {SY07}{H504}{MT52} |
| 松平直堅 | 松平直之 |
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松平光通(越前福井藩主)の長男で唯一の息子であったが、光通正室の国姫の子ではなく、妾腹の子であったため、当初は家督継承者から除外され、家老の永見氏に預けられて養育された。男子が他にいなかったため、光通をはじめとして彼を跡継ぎに推す声もあったが、国姫の実家である一族の高田藩主・松平光長や光長の母親の高田殿(第2代将軍・徳川秀忠の娘で松平忠直の妻)らの圧力を受けた直堅(権蔵)は、延宝元年(1673年)6月20日に江戸に出奔し、一族の越前大野藩主・松平直良を頼った。 直堅の母親は片桐氏の出である。直良の母親の父であり、大野藩家老・織田家の祖である津田信益(織田信長の従甥)は片桐氏の片桐且元に仕えていたことがある。その津田家との縁により片桐氏出身の権蔵の母はまず直良の母に仕え、また織田家の推薦もあって光通の側に仕えることとなった。この縁を頼ったものと思われる。松平直良は直堅を江戸藩邸に匿った。 幕府に対しては光通名義で、「公子(公式の子供)ではない」と届けが出された。その後、越前福井藩では同じく圧力を受けた光通と国姫両名の自殺などで混乱が続き、後継者問題が長く尾を引くこととなる。 |
天和2年(1682年)4月26日、出雲国広瀬藩主・松平近時の3男として誕生した。宝永元年(1704年)に福井松平家分家の松平直知が嗣子無くして早世したため、その妹(養女)である亀姫の婿養子となって家督を継いだ。 |