| K007:大彦命 | 大彦命 ― 難波吉士日香蚊/赤目子/日鷹 | NC01:難波吉士日香蚊/赤目子/日鷹 | ● |

| リンク | {F932}{A106} |
| 難波吉士日香蚊 | 難波吉士赤目子 |
|---|---|
|
『新撰姓氏録』「河内国皇別」によると、難波吉士(難波連・難波忌寸)氏は「大彦命之後也」とされており、阿倍氏と同族であるとされている。「吉士」という称号は元々は、古代朝鮮において「王」・「首長」を意味するもので、日本では渡来人の称号として用いられ、「姓」や「氏」ともなったものである。『古事記』中巻には、難波吉師部の祖だとする伊佐比宿禰が忍熊王の将軍に任命されたとあり、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条には麛坂皇子・忍熊王の武将に、吉師の祖先と称する五十狭茅宿禰が東国の兵を興したとある。 |
古墳時代の5世紀後半の豪族。『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇8年(464年)、高句麗が新羅を侵略したため、新羅王は任那(加羅)の王のもとに使いを遣わし、大和政権に救援を求めた。任那王が援軍として推薦した将軍(日本府行軍元帥)は、膳臣斑鳩,吉備臣小梨,難波吉士赤目子であった。 |
| 難波吉士日鷹 | 難波吉士木蓮子 |
|
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇7年(推定463年)、天皇の命で吉備上道氏が集めてきた百済の今来の才伎(技術者)たちを迎えに、日鷹吉士堅磐固安銭が「大嶋」へ派遣された、とあるが、これが難波吉士日鷹を指すかは不明である。 |
古墳時代・飛鳥時代の豪族。吉士木蓮子とも言う。任那滅亡後の「任那の調」実現のための外交交渉を担当している。 |
| 吉士金子 | 難波吉士磐金 |
|
朝鮮半島の主として新羅との外交交渉を担当している。推古天皇5年(598年)11月に新羅に派遣された吉士磐金と同一人物とする説もあるが、ここでは別人として扱う。 |
吉士磐金の名前が初めて歴史に登場するのは、『日本書紀』によれば、推古天皇5年(598年)11月の新羅への派遣である。この派遣は、591年に任那復興のために筑紫に派遣された軍を呼び戻したことに関連していると考えられている。翌年の599年4月には、新羅から帰国し、鵲を献上した。この鵲は難波社で飼育され、繁殖したと伝えられている。 |
| 吉士倉下 | 難波吉士雄成 |
|
『日本書紀』巻第二十二の、推古天皇31年(623年)7月に、一族の吉士磐金と共に問責使として新羅・任那両国へ派遣されたとあるのが倉下の名前の初出である。 |
推古天皇16年(608年)4月、朝廷の命により、筑紫に派遣され、遣隋使として派遣された小野妹子の帰国に同行してきた隋の使者裴世清らを出迎えている。この時、朝廷は隋使のために、新しい館を難波の高麗の館の上に建造している。 |
| 呉 長丹 | 吉士 駒 |
|
白雉4年(653年)、遣唐第1船の大使として計121人を率いて唐へと出発する。このときの位は小山上で、副使は吉士駒であった。同行の学問僧には、道観(のちの粟田真人),道昭,定恵(中臣鎌足の長男)らがいた。 |
白雉4年(653年)、遣唐第1船の大使・吉士長丹の副使として、計121人を率いて唐に派遣された。このときの位は小乙上であった。この時、南島路をとって唐に至ったものと考えられる。 |
| 岸 信介 | 岸 信夫 |
|
1957年から1960年まで第56・57代内閣総理大臣を務めた。出生名は佐藤信介で岸家へ養子として入る。衆議院議員10期を務め、自由民主党初代幹事長,自由民主党第3代総裁,第86・87代外務大臣、また、皇學館大学総長を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのちCIAの協力者として活動し、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の兄である。 詳しくは、Wikipedia(岸信介)を参照 |
安倍晋太郎・洋子夫婦の3男として東京都に生まれた。長兄は安倍寛信、次兄は晋三。生後間もなく母・洋子の兄の岸信和・仲子夫婦に養子として迎えられた。夫妻が子宝に恵まれず、信和自身が小児麻痺を抱えて政治活動が困難だったことに伴う縁組で、両家の間で「3番目が男なら岸家の養子とする」との約束が事前に交わされていた。晋太郎夫妻の3男・信夫が養子に迎え入れられたのは産まれて間もない1959年で、信夫自身は自分が養子だとも、実の両親が晋太郎・洋子で兄が寛信,晋三であることも知らずに育った。自身が養子であることや晋三が兄であることを知ったのは大学進学に際し戸籍謄本を取り寄せたときであった。 |