<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K007:大彦命  大彦命 ― 難波吉士日香蚊/赤目子/日鷹 NC01:難波吉士日香蚊/赤目子/日鷹

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難波吉士日香蚊 難波吉士赤目子

 『新撰姓氏録』「河内国皇別」によると、難波吉士(難波連・難波忌寸)氏は「大彦命之後也」とされており、阿倍氏と同族であるとされている。「吉士」という称号は元々は、古代朝鮮において「王」・「首長」を意味するもので、日本では渡来人の称号として用いられ、「姓」や「氏」ともなったものである。『古事記』中巻には、難波吉師部の祖だとする伊佐比宿禰が忍熊王の将軍に任命されたとあり、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条には麛坂皇子・忍熊王の武将に、吉師の祖先と称する五十狭茅宿禰が東国の兵を興したとある。
 『日本書紀』巻十三によると、推定454年、大草香皇子は根使主の讒言を信じた安康天皇により殺されてしまった。この時に、皇子に仕えていた日香蚊とその2人の子供たちは、皇子が無実の罪で殺されたことを悲しんで、日香蚊は皇子の首を抱き、2人の子供たちは皇子の足をとらえて、自刎して皇子の屍のかたわらで死んでいった。軍兵たちはみなこれを見て悲しみの涙を流した、という。
 『書紀』巻第十四によると、推定470年、前の月に呉織・漢織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて来日した呉の使節を接待していた雄略天皇は、根使主を呉人らの共食者に選んでいた。しかし、このことがきっかけで根使主の十数年前の「嘘」が露顕され、根使主は攻め滅ぼされた。そして天皇は日香蚊の子孫を捜し回り、姓を与えて、大草香皇子の名にちなみ、「大草香部吉士」と名乗らせた、という。
 『書紀』巻第二十九によると、子孫の草香部吉士大形は681年(天武天皇10年正月)に「難波連」の氏姓を授けられ、683年には草香部吉士氏全体も、「連」の姓を与えられた。「八色の姓」制定により、685年、難波連氏は、「忌寸」の姓を授与されている。 

 古墳時代の5世紀後半の豪族。『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇8年(464年)、高句麗が新羅を侵略したため、新羅王は任那(加羅)の王のもとに使いを遣わし、大和政権に救援を求めた。任那王が援軍として推薦した将軍(日本府行軍元帥)は、膳臣斑鳩,吉備臣小梨,難波吉士赤目子であった。
 任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子を送って新羅を救援した。膳臣らはまだ途中で留まっていたが、高麗の諸将は膳臣らと戦ってもいないのに皆が怖れた。膳臣らは兵を労い、急襲する備えをさせて進軍した。
 高麗と対峙して10日あまり、夜に地下道を作り、輜重を送って奇兵を備えた。明け方、高麗は膳臣らが逃げたと思って軍勢を出して追った。そこへ奇兵を放って歩兵・騎兵で挟み撃ちにして大いに高麗軍を破った。
 高麗と新羅の二国の怨みは、このときに始まった。膳臣らが新羅に言うには「お前の国は至って弱いのに、至って強い国と当たった。日本軍が救わなければ必ず乗っ取られていた。人の地になるということは、このようなことが殆どである。今後は天朝に背いてはならない」と。 

難波吉士日鷹 難波吉士木蓮子

 『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇7年(推定463年)、天皇の命で吉備上道氏が集めてきた百済の今来の才伎(技術者)たちを迎えに、日鷹吉士堅磐固安銭が「大嶋」へ派遣された、とあるが、これが難波吉士日鷹を指すかは不明である。
 また、雄略天皇9年(推定465年)、天皇は新羅遠征のための神託を伺うべく、凡河内国造の一人・凡河内香賜と采女を派遣して、胸方神(宗像三女神)を祀らせたが、香賜は既に壇所(神域)に至って、まさに神事を行おうとする際に、采女と関係を持った。これを不敬とした天皇は、難波吉士日鷹を派遣して香賜を殺そうとしたが、香賜は逃げ失せて、その場には居なかった。天皇は諦めず、弓削連豊穗を派遣して、国・郡・県にあまねく手配し、ついに凡河内氏の本拠地に近い三島郡藍原、のちの摂津国嶋下郡安威郷(現在の大阪府茨木市大田)で香賜を捕らえ、斬り殺したという。これが文献で確認できる中では最初期の斬首刑とされる。 

 古墳時代・飛鳥時代の豪族。吉士木蓮子とも言う。任那滅亡後の「任那の調」実現のための外交交渉を担当している。
 『日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇4年(575年)、百済が使節を派遣して、例年よりもたくさん調を貢進した際に、天皇は押坂彦人大兄皇子と大臣蘇我馬子に、「任那のことを怠らないように」と口にしたため、4月に吉士金子が新羅に、木蓮子が任那に、吉士訳語彦が百済に派遣された。これにより、6月、新羅も使いを遣わし、調を貢進し、同時に元任那であった4つの邑の調を貢進した、という。
 同13年(584年)には、天皇の命により今度は新羅への使いとして派遣されたが、新羅へは到着できなかったようである。
 『書紀』巻第二十一によると、崇峻天皇4年(591年)、吉士金子とともに、それぞれ先に訪れている任那・新羅に派遣されている。この時、紀男麻呂,巨勢猿,大伴囓,葛城烏奈良を大将軍とする2万あまりの部隊が筑紫国に駐屯していた。
 『書紀』巻第二十二によると、推古天皇8年(600年)2月に新羅と任那が交戦することがあり、天皇は任那を救うため、境部摩理勢を大将軍、穂積祖足を副将軍とする1万あまりの軍隊を派遣して新羅を討った、とあり、この時に5つの城を攻略し、さらに新羅は旧任那内の6つの城を割譲して降服した。その後、天皇は新羅に難波吉士神を、任那に木蓮子を派遣し、事情を調査させ、結果として新羅と任那は使節を送り調を貢進し、天上と天皇の意向に従うこと、相互不可侵・毎年の朝貢を約束した、という。しかし、将軍等が撤退した後、新羅は再度任那に侵攻した。その結果、再度、ヤマト政権は朝鮮半島に軍を進めることになり、大伴噛を高句麗に、坂本糠手を百済に派遣することになった。
 その後の木蓮子の行動については、記録されておらず不明である。 

吉士金子 難波吉士磐金

 朝鮮半島の主として新羅との外交交渉を担当している。推古天皇5年(598年)11月に新羅に派遣された吉士磐金と同一人物とする説もあるが、ここでは別人として扱う。
 『日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇4年(575年)4月に新羅に派遣されている。この時、同時に難波吉士木蓮子が任那に、吉士訳語彦が百済に派遣されている。これにより、6月、新羅も使いを遣わし、調を貢進し、同時にもと任那の領域にあった4つの邑の調を貢進した、という。
 『書紀』巻第二十一によると、崇峻天皇4年(591年)8月、天皇は任那を復興すべきかと群臣に詔を出したため、みなは合意し、紀男麻呂,巨勢猿,大伴囓,葛城烏奈良が大将軍として任じられ、各氏族の臣や連を副将・隊長とし、2万あまりの軍が筑紫国に出兵した。この時に金子は新羅に派遣され、木蓮子は任那へ赴き、任那のことを新羅に尋ねさせた、という。
 その後、『書紀』巻第二十二によると、推古天皇8年(600年)2月に新羅と任那が交戦し、ヤマト政権は任那に援軍を送り、新羅を討っている。この時に、金子とともに派遣された木蓮子が再び任那へ行き、事情を調査している。
 その後の彼の行動については、記録されていないため不明である。 

 吉士磐金の名前が初めて歴史に登場するのは、『日本書紀』によれば、推古天皇5年(598年)11月の新羅への派遣である。この派遣は、591年に任那復興のために筑紫に派遣された軍を呼び戻したことに関連していると考えられている。翌年の599年4月には、新羅から帰国し、鵲を献上した。この鵲は難波社で飼育され、繁殖したと伝えられている。
 約20年後の推古天皇31年(623年)7月、新羅が任那を攻撃し服属させたことを受け、大和政権は半島への派兵を検討した。しかし、慎重論が優勢となり、吉士磐金は一族の吉士倉下と共に、問責使として新羅・任那両国へ派遣されることになった。磐金は新羅担当、倉下は任那担当。
 新羅王は8人の大夫を派遣し、新羅国内の事情を磐金に伝えた。そして、新羅は奈末智洗遅を、任那は達奈良末遅を磐金と倉下に同行させた。しかし、磐金らが帰国する前に、大和政権は境部雄摩侶と中臣国子を大将軍とする征新羅軍を派遣したため、この動きに両国の使者は衝撃を受け、任那の調の使者を立てて逃げ帰ってしまう。磐金は、軍を起こすことは先の約束に反すると考え、倉下と今後の対応を協議した。
 同年11月、磐金らは帰国し、この状況を蘇我馬子に詳しく報告したが、馬子は、「任那のことは、もはやどうにもならない」と述べたと伝えられており、大和政権内部の対立が露わにされた軍事行動でもあったともいえる。 

吉士倉下 難波吉士雄成

 『日本書紀』巻第二十二の、推古天皇31年(623年)7月に、一族の吉士磐金と共に問責使として新羅・任那両国へ派遣されたとあるのが倉下の名前の初出である。
 倉下が任那担当、磐金が新羅担当であった。同年、新羅が任那に侵攻したため、推古天皇が征討軍を派遣することを大臣・蘇我馬子に謀り、郡卿を召集した結果、新羅征討は新羅に叛逆の意志があるかどうかを調べてから、ということになり、2名を派遣することになった。
 時の新羅王・真平王は8人の大夫を派遣して、任那のことに関して倉下に申し伝えた。その内容は、自分たちには任那侵略の意志はなく、従来からの大和政権の内官家としての立場を尊重すると約束するというものであった。そして、前年の新羅使の際に新羅人・奈末智洗爾と共に日本に派遣し、仏像や舎利などを献上した任那人・達奈良末遅を倉下につけてよこした。そして、磐金と倉下は合流し、新羅・任那両国の調を受け取った。しかし、2名が出向する前に大和政権は、境部雄摩侶・中臣国子の両名を大将軍とする征討軍を新羅に派遣してきた。
 2人は、軍を興すことは前の約束と違うことになり、任那のことはうまく行くまいと語り合った。その間に新羅侵攻戦は進行し、新羅王は大和政権の軍に降服した。
 2人は、その年の11月に帰国し、この時の有様を蘇我馬子に報告したが、馬子は、早く軍勢を送ったことは惜しいことをしたと答え、大和政権内部の意見の不統一を露わにした。この軍事行動により、しばらく続いた新羅との友好関係も破綻した。

 推古天皇16年(608年)4月、朝廷の命により、筑紫に派遣され、遣隋使として派遣された小野妹子の帰国に同行してきた隋の使者裴世清らを出迎えている。この時、朝廷は隋使のために、新しい館を難波の高麗の館の上に建造している。
 同年9月、隋使を送るため再度遣隋使として渡海する大使・小野妹子や通事(通訳)・鞍作福利とともに、雄成も小使として渡海した。その際に隋の煬帝にあてた国書には妹子とともに、雄成(乎那利)の名も記されていたという。同年中に小野妹子とともに帰国したものとみられる。
 その後の事績は不明である。『聖徳太子伝暦』にも名前が現れている。 

呉 長丹 吉士 駒

 白雉4年(653年)、遣唐第1船の大使として計121人を率いて唐へと出発する。このときの位は小山上で、副使は吉士駒であった。同行の学問僧には、道観(のちの粟田真人),道昭,定恵(中臣鎌足の長男)らがいた。
 翌年7月、百済・新羅の送使と共に筑紫国に到着する。このときは「西海使」と『日本書紀』巻第二十五には記されている。その後、小花下の位に昇叙され、封戸200戸を与えられた。また、氏を賜って、呉氏となった。恐らく、「呉」を経由して長安に辿り着いたからであろうと考えられている。このことから、南島路をとったものと推定される。近江国蒲生郡の呉神社はゆかりの神社である。 

 白雉4年(653年)、遣唐第1船の大使・吉士長丹の副使として、計121人を率いて唐に派遣された。このときの位は小乙上であった。この時、南島路をとって唐に至ったものと考えられる。
 翌年7月、百済・新羅の送使と共に「西海使」として筑紫国に到着する。その後、唐で吉士長丹と共に天子に拝謁し、多くの文書と宝物を与えられたことを評価され、小山上を授けられた。 

岸 信介 岸 信夫

 1957年から1960年まで第56・57代内閣総理大臣を務めた。出生名は佐藤信介で岸家へ養子として入る。衆議院議員10期を務め、自由民主党初代幹事長,自由民主党第3代総裁,第86・87代外務大臣、また、皇學館大学総長を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのちCIAの協力者として活動し、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の兄である。


詳しくは、Wikipedia(岸信介)を参照


 安倍晋太郎・洋子夫婦の3男として東京都に生まれた。長兄は安倍寛信、次兄は晋三。生後間もなく母・洋子の兄の岸信和・仲子夫婦に養子として迎えられた。夫妻が子宝に恵まれず、信和自身が小児麻痺を抱えて政治活動が困難だったことに伴う縁組で、両家の間で「3番目が男なら岸家の養子とする」との約束が事前に交わされていた。晋太郎夫妻の3男・信夫が養子に迎え入れられたのは産まれて間もない1959年で、信夫自身は自分が養子だとも、実の両親が晋太郎・洋子で兄が寛信,晋三であることも知らずに育った。自身が養子であることや晋三が兄であることを知ったのは大学進学に際し戸籍謄本を取り寄せたときであった。
 1981年(昭和56年)3月、慶應義塾大学を卒業後、住友商事に入社し、2002年(平成14年)8月まで勤めた。
2004年(平成16年)7月の第20回参議院議員通常選挙に山口県選挙区から自民党公認で立候補し初当選、2012年(平成24年)11月30日、第46回衆議院議員総選挙で衆議院へ鞍替えした。衆議院議員4期、第21・22・23代防衛大臣などを歴任した。初入閣は防衛大臣となったが、「国防族というよりは外交族」と言われ、主として外交関係のポストで地歩を築いてきた。
 2021年(令和3年)夏頃から杖を使い始め、同年9月には体調不良のため閣議を欠席。検査の結果、尿路感染症との診断を受けた。その後、2022年(令和4年)からは車椅子を使い始めた。
 2023年(令和5年)2月2日に安倍派の会合にて近く議員辞職することを正式に表明し、翌3日に衆議院議長公邸に赴き議員辞職願を提出。内閣総理大臣補佐官も同日辞職した。2月7日には長男の岸信千世は岩国市内で記者会見し、4月23日に投開票される衆院山口2区補選に後継として立候補する意向を表明し、自民党県連の候補者公募に応募すると述べた。信千世はこの補選に自由民主党公認で立候補し当選を果たした。