| OD02:織田敏定 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 | OD03:織田信秀 |


| リンク | OD04・OD09・OD10・OD12・{OD02}{H103}{MT34}{F723}{G126}{G375} |
| 織田信秀 | 織田信広 |
|---|---|
|
尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として永正8年(1511年)に生まれる。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」に仕える庶流であるが、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、勢力拡大のきっかけをつくった。 |
信秀の長男であるが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母親の出自も不明である。一般にも「信長の兄」とは認識されておらず、織田弾正忠家の一族扱いであった。生年は不詳だが、信長が10代前半の頃には既にそれなりに軍事的にも重要な役割を任されており、ある程度は年が離れていたと推測される。 |
| 於市 | 於犬 |
|
前半生についてはほとんど記録がなく不明である。婚姻時期については諸説あるが、通説では、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々の1月から3月頃、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。 |
初め、尾張国知多郡西部を支配する大野城主・佐治信方(為興)に嫁ぎ、一成(与九郎)と中川秀休(久右衛門)の2人を産んだ。 |
| 織田信治 | 織田信包 |
|
兄・織田信長に従って野府城を与えられていた。 |
母は不明であるが、信長の生母である土田御前や、土田御前の娘と伝わる於市の方や彼女の娘3人を引き取っていることから、信長やお市の方と同じく土田御前の子ではないかと言われている。信長の生前時の織田一門内における地位の高さ(実質的に一門のナンバー3の地位)も、信包が信長の同母弟である可能性を示している。永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤家(長野家)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された。 |
| 織田信勝 | 織田信裕 |
|
寛永7年(1630年)、父・信則の死去により家督を相続した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城石普請を命じられた。寛永16年12月晦日(1640年)、従五位下上総介に叙任する。寛永17年(1640年)9月24日、高槻城の守備を命じられる。藩政では佐治川の治水工事や新田開発を行い、丹波柏原藩の基礎を固めた。 |
旗本・織田信与の子。弘化3年(1846年)7月29日、養父・信周の隠居により家督を相続する。寄合に所属する。安政5年(1858年)11月29日、寄合肝煎に就任する。講武所頭取などを兼務する。文久2年(1862年)10月10日、小姓組番頭に就任する。同年12月16日従五位下伊賀守に叙任される。元治元年(1864年)4月10日に書院番頭に就任する。同年7月8日、天狗党の乱に際し堀直虎らとともに鎮圧のために出陣を命じられる。慶応2年(1866年)12月21日免職、寄合に所属する。 |
| 織田秀孝 | 織田信興 |
|
8男であるとされるが、織田信包より年長とされる説もあり、この場合は5男とされる。織田信長の実弟にあたることから、生母は信秀正室の土田御前とみられ同腹の兄弟には信長,信行がいることになる。また、於市,織田信包ともまた同腹だったともされるが確かではない。 |
兄・織田信長に早くから従う。永禄8年(1565年)、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利する。鯏浦城,小木江城(古木江城)を築き、以後は小木江城に在城し、服部党と西に控える長島を牽制する役目を担った。 |
| 織田長利 | |
|
兄・織田信長の命で信忠の軍団に配属し、天正2年(1574年)7月の伊勢長島一向一揆討伐に参加し、長島の海上攻撃の一員を務めた。天正9年(1581年)2月、京都御馬揃えでは信長の御連枝衆として騎馬10騎を従えて行進した。 |