<神皇系氏族>天神系

OD02:織田敏定  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 OD03:織田信秀


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織田信秀 織田信広

 尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として永正8年(1511年)に生まれる。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」に仕える庶流であるが、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、勢力拡大のきっかけをつくった。
 信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田寛故と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月には京都から蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した。天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。
 天文7年(1538年)頃、今川氏豊の居城の那古野城を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡に勢力を拡大した。その後も勢力の拡大に伴って、天文8年(1539年)には古渡城を築き、居城として、2つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。天文15年(1546年)、元服前の信長に那古野城を譲っている。さらに後年の天文17年(1548年)には末森城を築き、また居城を移しているが、当時の戦国大名は生涯、あるいは代々本拠地を動かさないことが多く、特異な戦略とされる。
 経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。伊勢神宮遷宮や内裏の建物修理にも尽力した。
 対外においては東の松平氏との攻防を繰り返し、天文9年(1540年)には安祥城を攻略して支配下に置き、長男(庶子)の織田信広を置いた。天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の土岐頼次が、斎藤道三によって尾張へ追放される。信秀は頼芸を支援し、また同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置く越前の朝倉孝景と連携し、美濃に出兵して斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った。こうして信秀は主家である大和守家への臣従関係は保ちつつ、実質的な地位や権威は大和守家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門、家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。しかし、信秀は終末まで守護代奉行にとどまり、一族や周辺国の併呑や排除は信長の代を待つことになる。
 天文16年(1547年)9月、岡崎城を攻め落とし、城主の松平広忠を降伏させる。広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの頃の出来事と考えられている。美濃の斎藤道三とは対立を続けていたが、天文17年(1548年)、信秀は道三と和睦。条件として嫡子・信長と、道三の娘・帰蝶(濃姫)との婚姻が決まる。その後は今川氏との戦いが続くが、この頃から信秀は病に冒され臥せるようになり、周囲や関係者にも病中と知られるようになる。11月には信長が代行として「執達」し、「藤原信長」名で熱田に制札を出しており、これが信長の初見文書となっている。天文21年3月3日(1552年3月27日)、信秀は末森城で死去した。享年42。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった。しかし、信秀の死は3年間伏せられていたという説もある。

 信秀の長男であるが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母親の出自も不明である。一般にも「信長の兄」とは認識されておらず、織田弾正忠家の一族扱いであった。生年は不詳だが、信長が10代前半の頃には既にそれなりに軍事的にも重要な役割を任されており、ある程度は年が離れていたと推測される。
 天文17年(1548年)3月に起こった第二次小豆坂の戦いでは先鋒を務める。しかし小豆坂を登る時に今川先鋒の松平勢と鉢合わせしてしまい、応戦するも劣勢に立たされたために信秀本隊が陣を張る盗木の付近までひとまず退き、本隊と合流して松平勢を退ける。その勢いに乗り信秀らは攻勢に出るも今度は今川の伏兵の岡部長教らが本隊を突いたことで総崩れとなり大敗を喫する。この敗北により織田軍は安祥城へと敗走を余儀なくされ、信秀は安祥城の守備を信広に任せて尾張へと帰還した。
 天文18年(1549年)3月に安祥城の守備を任されていた信広は、太原雪斎率いる今川・松平連合軍2万の侵攻を受け追い詰められるが深入りした先鋒の本多忠高を討ち取り、浮き足だった今川軍に対して城より打って出て撃退に成功する(第三次安城合戦)。しかし同年11月、再度、雪斎に城を攻められた際には平手政秀などが援軍に遣わされるも耐え切れず安祥城は陥落。今度は生け捕りにされてしまう(第四次安城合戦)。後に、織田家の人質となっていた松平竹千代(徳川家康)との人質交換という形で織田家へ送還される。三河支配の橋頭堡たる安祥城の陥落に加えて、この人質交換の交渉により、織田家の三河における求心力は大きく後退する結果となった。
 弘治2年(1556年)、信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで謀反を画策する。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清洲より出陣し、後詰めに信広が清洲城に入り居留守役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。信広はこれを利用して清洲城の北に義龍が布陣して撃退するべく信長が出陣した時にいつも通り後詰めとして清洲入りし、応対に出てくるであろう佐脇を殺害して清洲城を乗っ取り、成功すれば狼煙を上げて清洲城の信広と義龍とで信長を挟撃するという作戦を立てる。しかしながら、この計画は事前に信長に漏れ、清洲城から義龍を迎え撃つために出撃した際に佐脇に決して城を出ないことと、町人に惣構えで城戸をさし堅め信長帰陣までいかなる人間も入れぬようにと厳命していた。この時に限って佐脇に入城を頑なに拒まれた上に警戒体制の城下の様子を見て信広は謀叛の失敗を悟り慌てて兵を返し、いつまでも狼煙が上がらぬことで、義龍も信広が清洲城の乗っ取りに失敗したことを察し、戦わず美濃へと引き上げた。それから信広は叛意を露にして信長と敵対し、小規模な戦闘をたびたび起こしたがいずれも退けられ、程なくして降伏した。この時、信長は信広を赦免している。
 以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼かったこともあり、信秀直系で一番の年長者ということもあって織田家連枝衆の中ではまとめ役的な存在であったという。織田家が上洛を果たした永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)頃まで京都に常駐して信長の庶兄という立場から室町幕府、公家との折衝役を任され、山科言継,吉田兼見,一条内基らと交友を持った。元亀元年(1570年)の比叡山焼き討ち、元亀3年(1572年)の岩村城救援などにも参戦した。天正元年4月7日(1573年5月18日)には、織田家と不和になっていた足利義昭と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている。
 天正2年(1574年)、最後の伊勢長島一向一揆攻めに参加する。9月29日、長島願証寺が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた願証寺顕忍や三位法橋は弾丸に倒れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に大木兼能(佐々宗淳の外祖父)と一騎討ちとなり、信広は討ち死にしたという。 

於市 於犬

 前半生についてはほとんど記録がなく不明である。婚姻時期については諸説あるが、通説では、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々の1月から3月頃、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。
 その後、長政との間に3人の娘を儲ける。この時期、長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に儲けられた子供ではないと考えられている。
 元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったようである。
 長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。於市は3人の娘の茶々,初,江(江与)と共に藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られる。その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたという。この時の信長の於市親子に対する待遇はたいへん厚く、於市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も於市や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。また、別の説では於市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれている。
 信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した。婚儀は本能寺の変の4ヶ月後の8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われた。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。
 天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、夫と共に越前北ノ庄城内で自害した。享年37。墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市),幡岳寺(滋賀県高島市)。

 初め、尾張国知多郡西部を支配する大野城主・佐治信方(為興)に嫁ぎ、一成(与九郎)と中川秀休(久右衛門)の2人を産んだ。
 天正2年(1574年)9月、信方は長島一向一揆との戦いで戦死したため、実家に戻った。兄の居城である岐阜城に戻ると、姪の淀殿(茶々)の後見としてその世話をして面倒をみた。再婚する直前の天正3年11月10日に兄・信長より下京地子銭124貫が支給されている。
 天正5年(1577年)、信長家臣・羽柴秀吉の仲介により、管領・細川晴元の嫡男で京兆家当主の山城槙島城主の細川昭元と再婚した。昭元との間には、細川元勝,長女,次女の3人をもうけた。
 天正10年(1582年)9月8日に死去。京都龍安寺には廟所として霊光院が建てられ、乳母の浄智院によって菩提が弔われた。同寺には肖像画が残っており、小袖と腰巻姿で、数珠を持って両手で合掌して、片膝を立てて腰高に座した姿態で描かれている。妙心寺第44世・月航宗津の賛文には、婦人がいかに美しかったか言葉を尽くして述べられている。

織田信治 織田信包

 兄・織田信長に従って野府城を与えられていた。
 元亀元年(1570年)9月19日未明、浅井・朝倉連合軍が近江宇佐山城に迫ってきた際、信治は京都から2000の援兵を率いて救援に駆け付けた。9月20日、森可成,青地茂綱と共に宇佐山城から出て浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江坂本で戦ったが、衆寡敵せず可成、茂綱と共に戦死した(宇佐山城の戦い)。享年27。
 子の柘植正俊は江戸幕府の旗本となった。野夫城主の座は津田元嘉が継いだとされる。

 母は不明であるが、信長の生母である土田御前や、土田御前の娘と伝わる於市の方や彼女の娘3人を引き取っていることから、信長やお市の方と同じく土田御前の子ではないかと言われている。信長の生前時の織田一門内における地位の高さ(実質的に一門のナンバー3の地位)も、信包が信長の同母弟である可能性を示している。永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤家(長野家)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された。
 その後は信長に従って各地を転戦する。北近江小谷城で義弟の浅井長政を滅亡させたとき、その正室であった妹の於市とその娘たちである茶々・初・江を保護している。天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻めにも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信長の長男・信忠の補佐を任されている。長男・信重の正室に元尾張守護・斯波義銀の娘を定め、織田家と斯波家の橋渡し役も果たした。
 天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長と信忠が殺害された後は、豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領して「津侍従」と称された。天正11年(1583年)には甥・織田信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益を攻略している。
 天正18年(1590年)、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄3年(1594年)9月に至って改易された。改易の理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。改易後は剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に隠棲したという。その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)6月には丹波国氷上郡柏原3万6,000石を与えられる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹後田辺城攻撃などに参戦したものの、戦後に徳川家康は信包の罪を問わず、所領を安堵された。その後、信包は大坂城にあって姪孫である豊臣秀頼を補佐したが、慶長19年(1614年)7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72。片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。家督は3男の信則が継承した。 

織田信勝 織田信裕

 寛永7年(1630年)、父・信則の死去により家督を相続した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城石普請を命じられた。寛永16年12月晦日(1640年)、従五位下上総介に叙任する。寛永17年(1640年)9月24日、高槻城の守備を命じられる。藩政では佐治川の治水工事や新田開発を行い、丹波柏原藩の基礎を固めた。
 慶安3年(1650年)5月17日、28歳で死去した。墓所は兵庫県丹波市柏原の恵照山成徳寺。成徳寺には「織田信勝像」が伝わる。また、母親により織田神社に祭神「織田権現」として祀られ、命日の5月17日には毎年例祭が行なわれている。
 子は3女のみで男子がなかったため、丹波柏原藩は改易されて公儀御料となった。一説に、死去時に側室が懐妊しており、名門織田家の廃絶を惜しんで男子出生の場合は家督相続が認められるはずだったが、生まれたのは女子だったので改易になったという。そのため叔父の信当が3000石で旗本に取り立てられ家名存続は認められた。 

 旗本・織田信与の子。弘化3年(1846年)7月29日、養父・信周の隠居により家督を相続する。寄合に所属する。安政5年(1858年)11月29日、寄合肝煎に就任する。講武所頭取などを兼務する。文久2年(1862年)10月10日、小姓組番頭に就任する。同年12月16日従五位下伊賀守に叙任される。元治元年(1864年)4月10日に書院番頭に就任する。同年7月8日、天狗党の乱に際し堀直虎らとともに鎮圧のために出陣を命じられる。慶応2年(1866年)12月21日免職、寄合に所属する。
 明治4年(1871年)6月14日、東京府第一区の仮区長に就任する。同年9月14日、第二区の区長との兼任を命じられる。同年11月22日、第一大区の戸長に就任する。同年11月24日、戸長筆頭を命じられる。同年12月、名前を「三十郎」から「信裕」に改める。明治5年4月8日、第一大区小ノ一区の二等戸長に就任する。明治6年7月15日、第一大区小ノ六区の戸長との兼任を命じられる。明治7年4月13日、病死。公職を2年以上勤務したことで、府は遺族に25円を支給する。 

織田秀孝 織田信興

 8男であるとされるが、織田信包より年長とされる説もあり、この場合は5男とされる。織田信長の実弟にあたることから、生母は信秀正室の土田御前とみられ同腹の兄弟には信長,信行がいることになる。また、於市,織田信包ともまた同腹だったともされるが確かではない。
 『信長公記』によると、弘治元年6月26日(1555年7月24日)に、庄内川付近の松川の渡しという場所で叔父にあたる守山城主・織田信次によって無礼討ちに遭い死去した。これは信次が家臣らを連れて川狩りに興じていたところ、秀孝が供回りもつけずに単騎で乗馬通行をしたため、信次の家臣・洲賀才蔵によって、領主の前で下馬せずに通り過ぎようとする不届き者と誤解され射殺された。
 信次は射殺された人物を見て、はじめて秀孝の身元に気づき、主家である信長の報復を恐れて逐電した。信長は単騎で信次の領内を通行していた秀孝自身にも咎はあるとし、その罪を許している。一方で、同じく秀孝の次兄・信行はただちに末森城から兵を起こし、信次旧臣の籠もる守山城下を焼き払う報復を行っているが、このため信長も兵を出し、信行が出した柴田勝家らの軍勢を追い払った。
 享年は不明だが、『信長公記』には死亡時の年齢(数え年)を15歳から16歳ほどであったとしているから、満年齢で14歳から15歳だったということになる。秀孝は色白で気品に満ちた顔と体つきであったと伝わる。『信長公記』では秀孝の美男子ぶりを伝えており、秀孝は織田家の美形の血筋をよく受け継いでいたようである。

 兄・織田信長に早くから従う。永禄8年(1565年)、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利する。鯏浦城,小木江城(古木江城)を築き、以後は小木江城に在城し、服部党と西に控える長島を牽制する役目を担った。
 元亀元年(1570年)11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により篭城していたため、援軍を送ることができなかった。信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興は天守で自害した(別伝には城外に撃って出たとも)と伝わる。なお、この時80人余りの家臣も信興に殉じている。
信頼の厚い弟・信興を殺された信長の一揆衆に対する憎悪は高まり、これが天正2年(1574年)の長島一向一揆衆の大虐殺にまでつながった。織田一族に彦七郎信定がおり、信興と同じ彦七郎を仮名としていることから信興の子と推定されている。 

織田長利

 兄・織田信長の命で信忠の軍団に配属し、天正2年(1574年)7月の伊勢長島一向一揆討伐に参加し、長島の海上攻撃の一員を務めた。天正9年(1581年)2月、京都御馬揃えでは信長の御連枝衆として騎馬10騎を従えて行進した。
 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こして兄・信長を殺した時、長利は信忠と共に二条城で明智軍に攻められ戦死している。
 長利は子に利昌(宗助)と甥の信雄の側室になった娘がいる。利昌は信雄の下にあり、出家して随安と名乗った。娘が信雄の側室になったため、未亡人となった長利の正室は信雄より庇護を受けて82貫文を与えられた。