<神皇系氏族>天神系

OD03:織田信秀  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 OD04:織田信長



リンク OD05OD08
織田信長 徳姫

 戦国の三英傑の一人。尾張国に生まれ、織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。


詳細は、Wikipedia(織田信長)を参照


 永禄2年(1559年)10月12日、織田信長の長女として誕生。生母は生駒吉乃といわれているが、『織田家雑録』には織田信忠の姉となっているなど、生母が生駒吉乃であることに矛盾を示唆する史料もある。
 永禄6年(1563年)3月、信長は家康におごとくを嫁入りさせる約束をする。永禄10年(1567年)5月27日、三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぐ。天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生んだ。しかし、いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている(ただし、築山殿と徳姫は居城が別であり、また側室がいることが当たり前の時代において、そのようなことで嫁姑の仲がこじれたということは考えにくいとみられる)。また、信康とも不仲になったともいわれているが、一時的なものか根深いものかは不明である。
 天正7年(1579年)に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。これにより築山殿は8月29日に小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で切腹した。しかし、この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説も出されている。
 その後、徳姫は天正8年(1580年)2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰され、2人の娘達は家康の元に残していった。近江八幡市あたりに居住し、化粧料田が近江長命寺に設定された。天正10年(1582年)に起きた本能寺の変において父,長兄ともに死去すると、次兄の織田信雄に保護されたが、小牧・長久手の戦い後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた。ところが、天正18年(1590年)に信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。これは「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、五徳の処遇は秀吉の支配下にあったことが推測できる。
 関ヶ原の戦い後は、尾張国の清洲城主となった家康の4男の松平忠吉から1761石の所領を与えられた。その後は京都に隠棲した。寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室・繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されている。寛永13年(1636年)正月10日に死去。 

冬姫 織田信忠

 永禄元年(1558年)もしくは同4年(1561年)、織田信長の次女として誕生。信長の4男である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる。
 永禄11年(1568年)、近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が織田氏に臣従したとき、信長は賢秀の子・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として取ったが、その器量を早くから見抜いて、永禄12年(1569年)の大河内城の戦い後に自らの娘を与えて娘婿として迎えた。織田家からは加藤次兵衛が付添った。2人の間には息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている。
 その後、夫・氏郷は豊臣秀吉に臣従し、陸奥会津92万石の大名になるが、文禄4年(1595年)に40歳で死去。後継の秀行は家臣団の統制がままならず会津から宇都宮12万石に減封・移封された。姫も共に宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから会津60万石に戻される。しかし慶長17年(1612年)に秀行が30歳で死去し、その跡を継いだ孫の蒲生忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で死去した。忠郷には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが、姫が信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから特別に、姫の孫にあたる忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩20万石へ減移封の上で家督を継ぐことを許された。その忠知も、寛永11年(1634年)に嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった。
 晩年は京都嵯峨で過ごし、寛永18年(1641年)5月9日、81歳で死去した。墓所は京都左京区の知恩寺。

 弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』によれば、永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄6女・松姫と婚約が成立したという。
 しかし、元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦で、武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。元服時期は若干遅めの17歳~19歳頃と推察される。以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく。
 天正4年(1576年)11月28日、織田信長正室・濃姫の養子となり、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、岐阜城主となった。同年に正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。
 天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将を率いるようになる。12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。
 天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春,小早川隆景,宇喜多忠家,村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援のため、信忠を総大将に明智光秀,丹羽長秀,滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放されたため、美濃・尾張の2ヶ国における支配領域が広がる。
 天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康,北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠の進撃の早さに、武田勝頼は体勢を立て直すことができず新府城を焼き捨てて逃亡する。信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。
 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲したことを知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎,側近・斎藤利治,京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃した。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたという。 享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい。 また、信忠の小姓に下方弥三郎という若者が奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出した姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという。信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したという。
 この時、信忠は八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれる。しかし再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行った。一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもある。 

織田秀信 織田秀則

 幼名は三法師。母・徳寿院は塩川長満の娘,森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。
 天正10年(1582年)の本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以,長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に保護されて清洲城へと避難した。この折、二条城におり信忠から末期に行光の短刀を与えられたという言い伝えがある。同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続し、直轄領として近江国坂田郡3万石を得る。代官は堀秀政が務めた。この際の決定で安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれ、これを発端として秀吉と信孝は干戈を交えることとなる。信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けた。
 天正12年(1584年)には丹羽長秀の坂本城に移った。天正16年(1588年)、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官した。天正20年(1592年)9月9日、豊臣秀勝が没すると、秀吉の計らいで美濃国岐阜13万石を領有する。家臣団には津田元綱など信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見される。文禄2年(1593年)頃には従三位・中納言に昇叙・任官していた。その後も新公家衆として豊臣秀吉に従う。
 関ヶ原の戦いに際しては、前年から戦支度を進めていた節が見られる。慶長4年(1599年)閏3月、岐阜の家臣・瀧川主膳に対し、石田三成の奉行職引退、佐和山城蟄居を受けて、稲葉山,町口の防備を固めるよう書面で指示している。慶長5年(1600年)に入ると、当初、徳川家康の会津征伐に従軍して7月1日に出陣する予定であったが、軍装を整えるのに手間取り出発が遅延した。この間に石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ国を宛行う」との条件で勧誘されて西軍に加勢した。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」には美濃口の将の一人として名が記されている。秀信が西軍についたことによって美濃の諸勢の大半はこれに従った。柏木彦右衛門,河瀬左馬之助率いる三成からの援軍を得て慶長5年(1600年)8月22日、木曽川沿いの米野で老臣・百々綱家,大番頭・飯沼長資らの2,500騎を先鋒とし木造長政らの兵1,000を中野村に配置、遊軍として佐藤方政の兵1,000を新加納村に配置し、木曽川を防衛線として池田輝政,福島正則らの東軍を迎え撃った(米野の戦い)。総兵力は6,530騎という。秀信自身も1,700騎を率いて上川手村閻魔堂まで出陣し総指揮を執った。「岐阜四天王」の一人・飯沼長資(小勘平)が奮戦、一柳家家老・大塚権太夫を討ち取り首級を閻魔堂の秀信のもとに届けるなど善戦したものの兵力差もあり、戦い利あらず敗退した。この戦いでは長資のほか、冨永勝吉らが討死した。同日夕刻、杉浦重勝の守る竹ヶ鼻城も落城し、重勝は討死にを遂げている(竹ヶ鼻城の戦い)。
 追い詰められた秀信は、22日夜に大垣城・犬山城に援軍を要請する一方で、岐阜城に籠城し、籠城戦は23日一日続いたが、前日の戦いで兵力が激減していた上、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政が城の構造を熟知していたこともあって敗勢は覆いがたく、秀信は秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で23日降伏開城した。攻城戦は激戦であったらしく、侍大将級の討死も多く、『武徳安民記』では福島正則勢が430、池田輝政勢が490、浅野幸長勢が308の首級をあげたことが記されている。また、落城時に最後まで生き残った家臣は切腹したといい、崇福寺には秀信家臣38人が切腹した場所の床板を天井に張った「血天井」が存在し、この戦いの激しさが窺える。
 城を出た秀信は、上加納の浄泉坊で剃髪して、尾張知多へと送られた。 岐阜城陥落後の逸話として、家臣・小林新六郎が関ヶ原より撤退する島津義弘の軍勢の道案内をしたことが伝わっている。降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されて高野山へと送られた。道中の警護は浅野家が務めた。岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家,池田家や浅野家などに招聘された。
 改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。
 慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26。

 慶長元年(1596年)頃、大坂城下で暮らしており、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。なお、兄・秀信も同時にキリスト教に入信する。ルイス・フロイスは秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評している。慶長3年(1598年)、京都妙心寺に見性院を創建する。見性院はのち美濃の石河氏により桂春院として整えられ、現在も存続している。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際しては、兄と共に西軍に属し、美濃岐阜城に篭城する。合戦では、一族とみられる織田兵部,津田藤右衛門らとともに大いに奮戦したことが『江源武鑑』巻十八に伝わる。戦後、兄・秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り、大坂城下に移り住む。その後、豊臣家の滅亡にともなって、京都に移り住む。晩年は剃髪し、宗爾と称した。津田信益と改名したとも伝わるが、同名の別人の可能性もあり詳細は不明である。
 寛永2年(1625年)10月27日、京都で死去、45歳。 

津田勝長 織田信秀

 生年、生母も不明である。元亀3年(1572年)8月14日に美濃国岩村城の城主・遠山景任が亡くなった後、養子として岩村城へ入府したという。遠山氏は武田氏と織田氏の両方に服属しており、景任の妻おつやの方は信長の叔母であって、景任が嗣子なくして死去したために織田方を支持する家臣の申し入れにより、遠山氏を嗣がせるために信長の子をもらい受けた。
 同年11月、甲斐国の武田信玄の西上作戦の途中、その家臣・秋山虎繁(信友)が美濃を侵攻して、岩村城を包囲。武田方を支持する家臣により岩村城は降伏し、おつやの方が岩村城代となった秋山虎繁を夫として迎え入れ、幼主を養育することで、武田方との和議が結ばれた。11月14日に武田軍が岩村城へ入城した。 元亀4年(1573年)2月下旬、おつやの方は織田掃部の肝いりで秋山虎繁と祝言を挙げ、御坊丸は甲府に送られたという。御坊丸はその後、甲府で人質となった。 天正2年(1574年)、武田勝頼は伊奈・岩村を足がかりに東美濃を侵攻し、さらに遠江国に転じて高天神城を攻略した。翌天正3年(1575年)にも同じような経路から長篠城を攻めたが、これが長篠の戦いとなって大敗。岩村城も織田信忠によって奪還された。天正8年(1580年)3月、勝頼は常陸国の佐竹義重を介して信長との和睦を試みた。この勝頼と信長との和睦交渉は「甲江和与」と呼ばれ、『甲陽軍鑑』によれば、信房の返還には勝頼側近の僧・大竜寺麟岳らが協議したという。天正9年に信房(勝長)は織田家に返還されたが、時すでに遅く、信長はすでに武田氏を滅ぼす決意を持って苗木の遠山友忠に調略をさせていて、勝頼の和睦交渉の要請は黙殺された。
 勝長は武田家のもとで元服し「源三郎信房」を名乗り、「信」は武田勝頼から偏諱として与えられた武田家の通字であると考えられている。『甲陽軍鑑』では傅として五十君久助という人物が付いたとされる。他方で、『寛政重修諸家譜』では、織田家返還後の天正9年11月24日に「勝長」として元服し、源三郎と称したとしている。『信長公記』によれば、この時、信房は安土城で信長と対面して、尾張国犬山城の城主とし、小袖・刀・鷹・馬・槍などその他いろいろ取り揃えて贈った。信長は信房の側近にまでそれぞれ相応のものを贈ったという。
 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻では、総大将の兄・信忠に従って参陣し、『信長公記』によれば、3月3日には上野国衆・安中景繁が大島城から退去した後に再び立て篭もった諏訪高島城の明け渡しを指揮する。同じく『信長公記』によれば3月7日には足軽隊を率いて森長可・団忠直と共に上野国へ進撃し、小幡信貞から人質を取って鎮撫した。景繁の仲介で大戸浦野氏を服属させた。3月21日までには安中城へ入城し、上野国衆の服従に携わっている。
 同年6月、本能寺の変において信忠と共にあり、明智光秀の軍勢に攻められて二条御新造で奮戦ののちに討ち死にした。長男の勝良は織田信雄に仕え、のち加賀前田家に600石で仕えた。その子孫もそのまま金沢藩に仕えたとされる。 

 母は所領・姻戚関係などから稲葉氏息女ではないかと見られているが、不明である。信長より美濃揖斐地方に所領を与えられた。天正10年(1582年)には良通が仏照寺に禁制を出しており、所領は信長ではなく、当時同地を所領として与えられていた稲葉良通から信秀の母に分与されたという説もある。同年6月の本能寺の変の際は美濃の仏照寺に落ちて難を避けた。変後の6月20日には仏照寺に大洞の名で文書を発給している。同月羽柴秀吉より揖斐の所領を安堵される。
 清州会議後、所領を近江国栗太郡に移され、山田庄他の村を給地として与えられている。所領石高は不明ながら、文禄の役での軍役動員数から2万から5万石級の所領を得ていた可能性が指摘されている。同年12月28日、山田庄内の寺内屋敷を本願寺に寄進した。天正11年(1583年)頃に元服し、仮名を三吉郎、諱を信秀と名乗る。
 秀吉が権力を掌握すると、稲葉良通の口添えによって秀吉の家臣となる。臣従後は甥で織田宗家当主の織田秀信や、外戚である六角義郷,稲葉貞通らとともに取り立てられた。
 天正14年(1586年)4月の後陽成天皇の聚楽第行幸に際しては、秀吉の行列の後駆として他の豊臣一族,織田一族と共に秀吉の牛車の後ろに従い、国持大名22人とともに秀吉に忠誠を約する起請文を提出した。この時の序列は、侍従の官位を持つ大名の中で13番目であり、蒲生氏郷,細川忠興に次ぎ、叔父・織田長益の上位にあった。同年、信長の姉妹の子で従兄弟にあたるクマノスケ(織田熊之丞か)なる者と共に大坂の修道院で受洗、キリスト教に入信した。入信は天正15年(1587年)ともいう。洗礼名はペトロ。生母は受洗を怒ったものの、これを諭し、逆にインドやヨーロッパの文物を見聞するよう勧め、さらには司祭たちに母に教えを説くよう依頼し、キリスト教の理解者にしている。
 天正15年(1587年)、九州征伐に兵を率いて従軍した。このときは禁教令以前であったため、象牙のロザリオをつけて出陣している。
 文禄年間、京都で癩病のために病死したとされるが、慶長2年(1597年)2月4日付で山田庄宛の9カ条の掟書きが出されており、同年までは所領の支配が確認される。信秀の晩年については『織田家雑録』によれば、晩年は剃髪し、浦坊と号したとする。死後は京都の大徳寺塔頭総見院に葬られた。 

織田信高 織田信吉

 1576年(天正4年)、信長の7男として生まれる。1582年(天正10年)の本能寺の変における信長死後は、氏家行広に預けられて養育を受けた。その後、1585年(天正13年)、兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた時、その仲介で豊臣秀吉に仕え、1591年(天正19年)には近江国神崎郡山上内に1060石を領する。羽柴姓を許されて羽柴藤十郎と称した。1595年(文禄4年)、愛知郡にて粟野秀用の旧領1000石を加増されて2060石を領した。
 一般的には信長とお鍋の方の長子とされるが、裏付ける証拠としては、小倉氏の旧領山上に所領を与えられたことなど少ない。お鍋の方が近江の実家に隠棲した際に伴ったのは同母弟の織田信吉で、お鍋の方の夫・小倉実房の愛知郡の所領も信吉に与えられており、お鍋の方と信高の繋がりは史料からは確認できない。また、信吉よりも出生が後でありながら織田家中においては席次が上にきており、お鍋の方とは別の上位の側室が生母の可能性も示唆される。この側室については存在を含め一切不明であるが、後に信高が西美濃三人衆の氏家直元の次子である氏家行広に預けられていること、直元長男の氏家直昌が織田信孝と秀吉の戦いに際して信孝についた折、行広と共に信高も宇都宮で蟄居していることから、氏家氏か氏家氏ゆかりの西美濃の有力国人の娘である可能性が高い。信高自身の正室の生家である佐々氏も尾張北西部の春日井郡であり、西美濃とはそれほど離れていない。
当時は佐々成政の没落前でもあることから、信高生母の一族と本領が近い佐々氏が秀吉との対抗上地縁があり、生母の身分も高い信高と縁組して織田家の外戚となろうとしたと考えると自然であろう。
 『関原軍記大成』などでは、関ヶ原の戦いでは弟の信吉・信貞らとともに西軍に属して戦後赦免されたとする。弟・信吉と同様に西軍に属したために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。1603年(慶長7年)12月12日、死去。享年28。墓地は、京都の大徳寺総見院にある。 

 母は興雲院(お鍋の方)、織田信高は同母兄(ただし生年は1576年で、実際には信高の方が弟であるが、織田家中の席次は信高が上位であるため便宜上、兄とされている)という説が一般的であるが、当時の一次史料からは確認できず、異説もある。幼名は酌といい、母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたという。
 本能寺の変後は母興雲院とともに小倉にて蟄居していたが、1583年に羽柴秀吉から召し出されて羽柴姓と武蔵守の官、近江国神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を賜り、羽柴武蔵守と名乗って高野に館を構えた。豊臣家における役職は不明。
 関ヶ原の戦いでは西軍につき、弟の織田長次とともに平塚為広勢に加わり、兵500で大谷吉継隊の前備えをなした。9月15日の本戦では主将吉継以下の為広,長次ら同陣した諸将は討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱に成功した。戦後に改易となり、豊臣家を頼り大坂城下で暮らす。また、晩年は京都で暮らした。この間に剃髪して道卜と号した。1615年4月18日京都にて死去、43歳。
 子孫は水戸に移住し津田姓を名乗った。大徳寺塔頭総見院にある信吉の墓石には「水戸津田家先祖」と刻字されている。 

織田長次 織田信正(村井重勝)

 生年は天正2年(1574年)から10年(1582年)の間であると思われる。生母は不詳。
 天正10年の本能寺の変で父・信長が死去したため、羽柴秀吉の馬廻となった。豊臣政権期の動向は不明。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、兄・信吉とともに大谷吉継の隊に所属して平塚為広と同陣して戦ったが、9月15日の本戦で大谷軍壊滅の際、為広らとともに戦死した。 

 『系図纂要』によれば、織田信長の庶長子であるというが、一般的には信長の子として存在を認められていない。他方で、見性寺の寺伝によれば、同寺の開基で、信長の庶子から村井春長軒の養子となった村井重勝は同一人物であるという。
 『系図纂要』では、天文23年(1554年)5月5日、尾張那古野城で誕生した。これが正しければ、信忠よりも3年早く生まれたことになり、信長最初の子供ということで庶長子と記されている。幼名を於勝丸。母は信長家臣の塙直政(後に原田姓に改める)の妹、明鏡院智勝尼。
 永禄9年(1566年)、13歳で元服し、通称を帯刀と称して古渡城城主となった。天正2年(1574年)、20歳の時、従五位下大隅守に叙任された。翌年、21歳の時には従五位上主膳正に昇任し、天正6年(1578年)には従四位下侍従に昇進。天正13年(1585年)に隠居して、京都見性に庵を開き、翌年、32歳の時、剃髪して見性軒と号した。正保4年(1647年)11月25日、没したとされる。享年94。
 一方、『京都坊目誌』によると、信長と村井貞勝の菩提を弔うために見性寺を創建した開基の村井重勝は、信長の庶子で貞勝に養育された者であるという。諸系図でこれに該当する者はおらず、前述の信正のことを指したものであろうと考えられる。天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、前田玄以と共に二条新御所にあったとされる。天正16年(1588年)6月、信長および信忠ほかの本能寺の変で討ち死にした家臣らの七回忌の法要を見性寺で営んだ。関白・豊臣秀吉もこの法要に参詣し、見性寺には寺領が与えられ、年貢も免除されることになった。後年、この処置は徳川家康の時代にも引き継がれ、寺領も安堵された。

玉泉院 報恩院

 1574年(天正2年)、信長の4女として出生する。母は不明。1581年(天正9年)12月、7歳の時に前田利家の嫡男・利長の正室となった。1582年(天正10年)、父・信長に呼ばれ、利長と共に本能寺を目指していたが、途中で本能寺の変の急報を聞き、前田家の旧領尾張荒子に逃げる。関ヶ原の戦いでは姑のまつとともに江戸に人質として送り込まれかけるが、後に利長の元に返された。
 二人の仲は良好だったが、嗣子を産むことはなかった。「どんな女でも良いから夫の子を産んで欲しい」という悲痛な言葉も残している。兄・織田信雄の娘を2人、宇喜多秀家と豪姫の娘など7人を養女としている。
 利長は弟の利常を順養子として迎え、家督を譲って隠居している。1614年(慶長19年)、利長が越中高岡で死去すると、永姫は金沢に戻って剃髪し、玉泉院と号した。1623年(元和9年)2月24日、50歳で死去。金沢の野田山に葬られた。


 天正8年(1580年)、信長の命令で丹羽長重との縁組が決められた。長重は織田家の重臣・丹羽長秀の嫡子であり、長秀の正室は信長の庶兄・信広の娘であるため、織田と丹羽は二重の婚姻関係で結ばれたことになる。天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため、7月に羽柴秀吉の介添えを受けて近江安土城から坂本城に移り輿入れした。
 報恩院のその後の経歴は詳しく知られておらず、長重が徳川家康の家臣になると江戸に入り、長重が陸奥白河藩主になっても白河には移らず江戸で過ごした。長重との間に3男1女が生まれ、亀千代と鍋麻呂は早世したが、嫡子の光重は成長して長重が寛永14年(1637年)に死去した後に家督を継いでいる。娘は酒井忠正に嫁いだ。報恩院は長重没後16年生き、80歳で江戸で没した。墓所は東京都港区の泉岳寺。 

於振 三の丸殿
 三河水野藩主・水野忠胤に嫁ぎ、1男2女(勝信,南條宣政室,丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。寛永20年(1643年)に死去。墓所は大徳寺総見院。 

 母は、信長の嫡男・織田信忠の乳母であった慈徳院であると言われている。豊臣秀吉の側室となったが、その経緯や時期は不明。伏見城三の丸に住居を与えられて三の丸殿と称されたということから、嫁いだのも築城時期と同じ文禄年間であろうという説がある。本能寺の変の後、異母姉である相応院の夫・蒲生氏郷が引き取り、その養女としたともいうが、氏郷の妹・三条殿も同じく秀吉の側室であり、恐らく共に人質として秀吉のもとに来て側室とされたと考えられる。
 確かな史料に初めて名前が出てくるのは、慶長3年(1598年)3月の醍醐寺の花見の記述であり、三の丸殿は4番目の輿にて花見に参加した。御供として随従したのは平塚為広と片桐且元で、側室の序列としては3位だった。同年8月に秀吉が没すると、その供養のために妙心寺に韶陽院という塔頭を建立した。正確な時期は不明ながら、慶長4年(1599年)の喪が明けた時期か翌年頃、正室を亡くしていた摂関家の二条昭実と再婚した。慶長7年(1602年)に三宝院義演(昭実の実弟)に樽や紙,布などを送ったという記録がある。慶長8年(1603年)に死去した。墓所は京都の妙心寺。 

足利夫人 龍勝寺殿

 室町幕府の第15代将軍・足利義昭の側室か妾。彼女は織田信長秘蔵の「虎福女」と伝わっているが、経歴や信長との関係は判然としていない。信長の娘とも、元側室ともされる。信長の死後、信長の家族は豊臣秀吉に庇護されていたため、彼女も庇護されていたものと推測される。義昭は信長に京都を追放され、信長没後に秀吉に庇護されていた。彼女は秀吉の命令で天正19年(1591年)4月26日、剃髪して昌山と号していた義昭に嫁いでいる。


 龍勝院の嫁いだ諏訪勝頼(武田勝頼)は信玄庶子で、信濃旧族の高遠諏訪氏を継承していた分郡領主であったが、武田家中において今川義元の娘を室としていた嫡男・義信が廃嫡される事件が起こり、勝頼は武田家世子の立場となっていた。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄8年(1565年)9月9日に信長側が一族の織田掃部助一安を使者として武田家に遣わし、同年11月13日に勝頼の元に嫁いだとされるが、文書上からは確認されない。
 元亀2年(1571年)9月16日に死去。『信州日牌帳』によれば、勝頼は稲村清右衛門尉,富沢平三の両名を高野山成慶院に派遣し、元亀2年11月26日に竜勝院殿の供養を行っている。