| OD03:織田信秀 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 | OD04:織田信長 |



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| 織田信長 | 徳姫 |
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戦国の三英傑の一人。尾張国に生まれ、織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。 詳細は、Wikipedia(織田信長)を参照 |
永禄2年(1559年)10月12日、織田信長の長女として誕生。生母は生駒吉乃といわれているが、『織田家雑録』には織田信忠の姉となっているなど、生母が生駒吉乃であることに矛盾を示唆する史料もある。 |
| 冬姫 | 織田信忠 |
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永禄元年(1558年)もしくは同4年(1561年)、織田信長の次女として誕生。信長の4男である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる。 |
弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と改める。 |
| 織田秀信 | 織田秀則 |
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幼名は三法師。母・徳寿院は塩川長満の娘,森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。 |
慶長元年(1596年)頃、大坂城下で暮らしており、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。なお、兄・秀信も同時にキリスト教に入信する。ルイス・フロイスは秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評している。慶長3年(1598年)、京都妙心寺に見性院を創建する。見性院はのち美濃の石河氏により桂春院として整えられ、現在も存続している。 |
| 津田勝長 | 織田信秀 |
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生年、生母も不明である。元亀3年(1572年)8月14日に美濃国岩村城の城主・遠山景任が亡くなった後、養子として岩村城へ入府したという。遠山氏は武田氏と織田氏の両方に服属しており、景任の妻おつやの方は信長の叔母であって、景任が嗣子なくして死去したために織田方を支持する家臣の申し入れにより、遠山氏を嗣がせるために信長の子をもらい受けた。 |
母は所領・姻戚関係などから稲葉氏息女ではないかと見られているが、不明である。信長より美濃揖斐地方に所領を与えられた。天正10年(1582年)には良通が仏照寺に禁制を出しており、所領は信長ではなく、当時同地を所領として与えられていた稲葉良通から信秀の母に分与されたという説もある。同年6月の本能寺の変の際は美濃の仏照寺に落ちて難を避けた。変後の6月20日には仏照寺に大洞の名で文書を発給している。同月羽柴秀吉より揖斐の所領を安堵される。 |
| 織田信高 | 織田信吉 |
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1576年(天正4年)、信長の7男として生まれる。1582年(天正10年)の本能寺の変における信長死後は、氏家行広に預けられて養育を受けた。その後、1585年(天正13年)、兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた時、その仲介で豊臣秀吉に仕え、1591年(天正19年)には近江国神崎郡山上内に1060石を領する。羽柴姓を許されて羽柴藤十郎と称した。1595年(文禄4年)、愛知郡にて粟野秀用の旧領1000石を加増されて2060石を領した。 |
母は興雲院(お鍋の方)、織田信高は同母兄(ただし生年は1576年で、実際には信高の方が弟であるが、織田家中の席次は信高が上位であるため便宜上、兄とされている)という説が一般的であるが、当時の一次史料からは確認できず、異説もある。幼名は酌といい、母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたという。 |
| 織田長次 | 織田信正(村井重勝) |
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生年は天正2年(1574年)から10年(1582年)の間であると思われる。生母は不詳。 |
『系図纂要』によれば、織田信長の庶長子であるというが、一般的には信長の子として存在を認められていない。他方で、見性寺の寺伝によれば、同寺の開基で、信長の庶子から村井春長軒の養子となった村井重勝は同一人物であるという。 |
| 玉泉院 | 報恩院 |
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1574年(天正2年)、信長の4女として出生する。母は不明。1581年(天正9年)12月、7歳の時に前田利家の嫡男・利長の正室となった。1582年(天正10年)、父・信長に呼ばれ、利長と共に本能寺を目指していたが、途中で本能寺の変の急報を聞き、前田家の旧領尾張荒子に逃げる。関ヶ原の戦いでは姑のまつとともに江戸に人質として送り込まれかけるが、後に利長の元に返された。 |
天正8年(1580年)、信長の命令で丹羽長重との縁組が決められた。長重は織田家の重臣・丹羽長秀の嫡子であり、長秀の正室は信長の庶兄・信広の娘であるため、織田と丹羽は二重の婚姻関係で結ばれたことになる。天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため、7月に羽柴秀吉の介添えを受けて近江安土城から坂本城に移り輿入れした。 |
| 於振 | 三の丸殿 |
| 三河水野藩主・水野忠胤に嫁ぎ、1男2女(勝信,南條宣政室,丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。寛永20年(1643年)に死去。墓所は大徳寺総見院。 |
母は、信長の嫡男・織田信忠の乳母であった慈徳院であると言われている。豊臣秀吉の側室となったが、その経緯や時期は不明。伏見城三の丸に住居を与えられて三の丸殿と称されたということから、嫁いだのも築城時期と同じ文禄年間であろうという説がある。本能寺の変の後、異母姉である相応院の夫・蒲生氏郷が引き取り、その養女としたともいうが、氏郷の妹・三条殿も同じく秀吉の側室であり、恐らく共に人質として秀吉のもとに来て側室とされたと考えられる。 |
| 足利夫人 | 龍勝寺殿 |
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室町幕府の第15代将軍・足利義昭の側室か妾。彼女は織田信長秘蔵の「虎福女」と伝わっているが、経歴や信長との関係は判然としていない。信長の娘とも、元側室ともされる。信長の死後、信長の家族は豊臣秀吉に庇護されていたため、彼女も庇護されていたものと推測される。義昭は信長に京都を追放され、信長没後に秀吉に庇護されていた。彼女は秀吉の命令で天正19年(1591年)4月26日、剃髪して昌山と号していた義昭に嫁いでいる。 |
龍勝院の嫁いだ諏訪勝頼(武田勝頼)は信玄庶子で、信濃旧族の高遠諏訪氏を継承していた分郡領主であったが、武田家中において今川義元の娘を室としていた嫡男・義信が廃嫡される事件が起こり、勝頼は武田家世子の立場となっていた。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄8年(1565年)9月9日に信長側が一族の織田掃部助一安を使者として武田家に遣わし、同年11月13日に勝頼の元に嫁いだとされるが、文書上からは確認されない。 |