<神皇系氏族>天神系

OD04:織田信長  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信雄 OD05:織田信雄


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織田信雄 織田秀雄

 大和宇陀松山藩初代藩主。伊勢北畠家の養嗣子となって北畠氏を称し、元服して具豊を名乗ったのが初名で、第10代当主として信意、次いで信勝とも名乗り、信雄は最後の改名による。のちに織田氏に復し、晩年は入道して、法名は常真といった。
永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれる。茶筅丸時代、伊勢北畠氏の養嗣子として]、大河内城へ入る。 天正2年(1574年)7月の長島攻めが初陣であったと思われる。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにも参戦、御堂山に陣した。
 天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺で討たれると、信孝との対立や後には羽柴秀吉との対立を生み、信孝を自害に追い込み、秀吉とは小牧長久手で戦うこととなる。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐後の論功行賞に不満を呈したため、秀吉は激怒し改易された。信雄の旧領および与えられるはずだった領国(家康の旧領)は豊臣子飼の大名衆に分配された。のちに剃髪して常真と号し、寛永7年(1630年)4月30日、京都北野邸で死去した。享年73。


詳細はWikipedia(織田信雄)参照


 天正11年(1583年)、織田信雄の長男として誕生。天正18年(1590年)、父・信雄は秀吉の国替命令を拒んで改易されて、秋田に流されたが、文禄元年(1592年)、秀雄は豊臣秀吉から越前国大野郡において5万石を与えられ、亀山城(大野城)を居城とした。秀雄の召し出しは、同年の父・信雄の赦免に伴う措置と考えられる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては西軍に属し、改易された。秀雄本人は東軍に属する意向を持っていたものの、父・信雄の意向を受け入れて西軍に属することになったという。改易後、江戸の浅草に閑居していたが、慶長7年(1602年)、徳川秀忠の好意により、蔵米3000俵を支給される。慶長15年(1610年)8月8日、京都で父に先立って死去、享年28。京都の大徳寺塔頭総見院に葬られた。正室・子女ともにいなかった。 

織田信良 織田信久

 天正12年(1584年)、織田信雄の4男として伊勢国に生まれる。生母は木造具政の娘。一説には信雄の改易後、一時的に細川忠興のもとに身を寄せたという。元和2年(1616年)10月、従五位上侍従に叙任される。元和3年(1617年)以降、信雄から上野国甘楽郡などで2万石を分け与えられたと考えられる。はじめは甘楽郡福島村に陣屋を構え、後に小幡村に移転し、城下町や灌漑用水設備の整備など、藩政の基礎固めに努めた。秀雄・高雄らの兄は既に死去していたようである。なお、信雄は大和国宇陀郡などで3万1200石を領有し、京都で暮らした。後にこの隠居料をめぐり、信良の息子の信昌と弟の高長の間で相続争いが起きた。
 元和9年(1623年)12月、従四位上左少将に昇進する。なお、同年11月7日、信良の長女の松孝院が将軍・徳川秀忠の3男の忠長と結婚している。官位の高さは、織田家の嫡流であること、徳川将軍家の外戚であることなどによると考えられる。その後、小幡藩織田家は明和事件に巻き込まれるまで、国主格の待遇を受けた。
 元和10年(1624年)1月2日、伊達政宗,毛利秀元らとともに江戸城西丸の徳川家光のもとに出仕する。同月、秀忠の朝廷に対する使者として上洛する。寛永3年(1626年)5月17日、父に先立って43歳で死去し、家督は次男の信昌が継いだ。墓所は小幡の宝積寺、後に崇福寺に改葬された。 

 慶安3年(1650年)9月1日、先代藩主で従兄の信昌の末期養子として家督を相続した。同年12月28日、将軍徳川家光に御目見する。明暦元年(1655年)12月29日に従五位下に叙任し、内記を称する。後に従四位下侍従に昇進する。万治2年(1659年)6月13日に藩主として初めて帰国する許可を得る。寛文5年(1665年)4月17日、江戸城紅葉山における八講会に実兄長頼と予参を務めた。これにより、国主に準じた待遇を受けていたことがうかがわれる。
 信久の治世は64年の長きにわたった。この間に新田開発や治水工事に尽力して藩政を安定化させたが、これをよいことに5割もの年貢増徴を行った上に、助郷などによる領民の負担を増やしたため、やがて領民の間から不満が起こり、財政も破綻の兆しを見せ始めたという。
 正徳4年7月8日(1714年)、72歳で死去し、跡を3男の信就が継いだ。なお、初代藩主・信良は領内の織田家の菩提寺を宝積寺と定めたものの、信久は崇福寺を再興して菩提寺を同寺に変更した。宝暦8年(1758年)3月に崇福寺は焼失したものの、信雄から信富まで織田家7代の墓は現存している。
  『土芥寇讎記』には「信久、武道ヲ専ラトシ、軍者ヲ招キ、兵術ヲ聞フ。文道ハ学ブニ似テ、誠ニ非ズ。偽リテ外ヲ飾ルト聞フ。行跡寛々ト見ヘテ、威儀ヨケレドモ、内心孟侫奸ノ気味有リ」とあり、当時の大名の中での評価は低い。 

織田信就 織田信右

 生母は信久の側室であり、系譜上は次男になっているものの、庶長子であったようである。元禄7年(1694年)、信久と正室の稲葉氏の間に生まれた兄の信盛、弟の信知の死去にともなって嫡子となる。同年12月15日に将軍・徳川綱吉に御目見、12月18日に従五位下美濃守に叙任する。後に従四位下侍従に昇進する。
 正徳4年(1714年)8月23日、父の死去により家督を継いだ。正徳5年(1715年)6月15日に藩主として初めてお国入りする許可を得る。父の時代から小幡藩の財政はすでに破綻寸前となっていたため、これを再建するために改革に取り組もうとしたが、領民たちが年貢減免と助郷軽減を訴え、挙句の果てには織田氏の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願する有様であったと言われている。このため、信就は年貢を1割減免し、税制を定免制度に変えざるを得なくなったと言われている。享保16年(1731年)6月10日、71歳で死去した。 

 信就の4男であったが、長兄の信房、次いで三兄の信乗が病気を理由に廃嫡され、次兄の信常も多病で相続を辞したため、享保15年(1730年)10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍徳川吉宗に御目見、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。
 享保16年(1731年)7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年(1733年)6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、紅葉山八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年(1757年)には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年(1759年)11月11日、家督を養子とした弟の信富に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日に50歳で死去した。 

織田信邦 織田信浮

 明和元年(1764年)7月29日、先代藩主・織田信富の末期養子として家督を相続し、信富の養女の呉姫を正室に迎えた。同年8月15日、将軍徳川家治に御目見、11月13日従五位下美濃守に叙任された。明和2年(1765年)6月15日、藩主として初めて国入りを許される。
 藩主となった信邦は吉田玄蕃を家老として登用し、藩政改革と財政再建を目指した。玄蕃は幕政に批判的であった学者の山県大弐の門弟であり、そのほかの藩士にも門弟が多くいたが、明和3年(1766年)、大弐が江戸城の攻防について兵学を論じたことから陰謀を企てていると訴えられ、翌年処刑された(明和事件)。玄蕃と対立関係にあった用人の松原郡太夫らは、「玄蕃が大弐と謀反の疑いを企てている」と信邦に讒訴、失脚をはかった。信邦は幕府に相談することなく、藩の独断で吉田らを処分し、事件の収拾をはかった。しかし、幕府は信邦及びその家老らの対応は不適切として処分を決めた。明和4年(1767年)8月21日、幕府は信邦に蟄居すなわち強制隠居を命じ、実弟の信浮に家督を相続させた。同時に国主格の接遇を廃し、出羽高畠藩に懲罰的な移封を命じた。鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収された。家老の津田頼母,用人の津田庄蔵,年寄の柘源四郎は重追放、松原郡太夫らは追放になった。天明3年(1783年)2月8日、39歳で死去した。
  『御代々様・御連枝様方御事跡』によれば、信邦の正室・呉姫は織田信右の長女で、最初に信乗、次いで信富の養女になったという。 

 明和4年(1767年)8月21日、明和事件により、幕府は上野小幡藩主・織田信邦に蟄居隠居を命じた。また、信邦の仮養子であった実弟の信浮に家督の相続を許可したが、陸奥信夫郡,出羽置賜郡,出羽村山郡内2万石への転封を命じた。翌年11月15日、出羽国置賜郡高畠村に陣屋を構える許可を得る。なお、寛政12年(1800年)12月25日、幕府は信夫郡,村山郡内の領地9,920石余を収公、村山郡内に替地を与えた。この替地により、領地の大部分が村山郡内に集中することになった。
 明和7年(1770年)11月15日、将軍・徳川家治に御目見をする。明和8年6月25日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。安永元年(1772年)12月18日、従五位下越前守に叙任する。なお、明和事件の処罰により、信浮以降の織田家の当主は、大広間詰といった国主並の待遇や従四位下侍従への官位昇進といった優遇措置を受けられなくなった。信浮は明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで、藩政に見るべきものはなかったといわれる。逆に天明の大飢饉や文化7年(1810年)の高畠陣屋焼失などの災難に見舞われた。文政元年(1818年)11月19日に死去、享年68。 

織田信学 織田信敏

 天保7年(1836年)10月13日、父・信美の死去により家督を相続する。11月1日、将軍徳川家慶に御目見、12月16日従五位下伊勢守に叙任する。後に兵部少輔,左近将監に改める。幕末の動乱期に入ると、藩財政の悪化から紅花の専売制や年貢の前納化を行う。文久2年(1862年)、祖父・信浮,父・信美の遺志に基づき、小幡藩時代のような国主格待遇への復帰をはかる家格上昇を幕府に嘆願したが、果たされなかった。
 嘉永4年(1851年)10月25日、幕府は出羽国置賜郡内の領地4,640石余を収公、村山郡内に替地を与える。これによって、天童藩の領地は村山郡内にまとまった。具体的には、村山郡内21ヵ村で2万3,153石余になった。
 幕末の動乱期に際しては、小藩のために主体的な行動はとれなかった。慶応3年(1867年)10月、朝廷から上洛を命じられるものの、家老を名代として上洛させることを願う。慶応4年(1868年)1月10日、藩士・津田勘解由らを上洛させたものの、新政府は再度信学の上洛を命じた。2月、信学は病気を理由に上洛に応じず、嫡男の信敏を派遣した。3月2日、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられる。これに対し、藩士吉田大八を名代とした。3月19日、隠居し、信敏に家督を譲る。信敏は若年であり、実際の藩の運営は隠居した信学と重臣の合議で行われたと推測される。
 慶応4年(1868年)閏4月4日、新政府に従わなかった庄内藩の天童攻撃により、在国していた信学とその家族らは仙台藩領へ逃げた。明治3年(1870年)4月9日、東京に移り、5月7日、明治天皇に拝謁する。明治24年(1891年)2月3日、73歳で死去した。

 江戸において誕生する。慶応4年(1868年)2月26日、父・信学は、病気を理由に嫡男の信敏を入洛させた。3月2日、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられる。これに対し、藩士・吉田大八を先導役名代とすることを願い、許可される。3月6日、信敏は明治天皇に拝謁。3月19日、父の隠居により藩主となり、4月6日、従五位下兵部大輔に叙任する。
 奥羽鎮撫使先導役名代となった吉田大八は、和平工作を活発に行ったが、奥羽鎮撫総督軍の挑発と庄内藩の反発という対立の構図を改めることはできなかった。閏4月4日、庄内藩が天童城下に攻め込み、城下はことごとく焼かれた。在国していた父・信学とその家族らは、奥羽山脈を越えて仙台藩領へ逃げた。
 庄内藩の天童退去後、天童藩は吉田大八の主導で長瀞藩を襲撃するなどの反撃を試みた。しかし閏4月20日、奥羽鎮撫総督府参謀・世良修蔵が仙台藩士に暗殺されると、奥羽の形勢は一気に佐幕に傾く。閏4月22日、こうした混乱の最中、信敏は天童陣屋に入る。なお同日、奥羽鎮撫使先導役の辞退を許可されている。閏4月25日、新政府から見舞金5千両を賜る。5月3日、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成する。わずか2万石の天童藩に独自な行動は無理であり、新政府側を離れて同盟側に加わった。6月17日、奥羽鎮撫使先導役を務めた藩士吉田大八に切腹を命じた。以後、天童藩は秋田藩攻撃などに藩士を派遣する。
 明治元年(1868年)9月18日、劣勢な同盟側を見限り、天童藩は新政府に降伏を申し入れる。10月16日、東京での謹慎を命じられる。11月2日、信敏は東京に移り、菩提寺の高林寺で謹慎した。12月7日、新政府は信敏に2,000石の減知と隠居を命じ、12月17日、弟・寿重丸に家督を相続させた。
 明治2年(1869年)7月18日、寿重丸幼少の故をもって信敏の当主再承が認められて、天童藩知事となる。明治4年7月14日、廃藩置県により天童藩知事を免職となる。この間、明治3年(1870年)11月17日、天童市舞鶴山に社殿を設け、織田家始祖である織田信長を祀った建織田社(後に建勳神社に改称)を創建した。明治4年9月8日、慶應義塾に入り、英学を学んだという。明治7年(1874年)1月23日、宮内省に出仕、同年2月18日に依願退職する。明治17年(1884年)7月8日、子爵叙爵。明治34年(1901年)6月6日に死去、享年48。 

織田信恒

 1889年(明治22年)8月3日、旧磐城国中村藩主・相馬誠胤子爵の長男として東京府に生まれ、1895年(明治28年)6月、旧羽前国天童藩主・織田信敏子爵の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父・信敏の死去により襲爵。京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。1920年(大正9年)に商工業視察のため欧米や中国を旅行するが、特にヨーロッパ漫遊中に目にした子供新聞や子供雑誌に影響を受ける。
 帰国後は日銀を退職し、1922年(大正11年)に朝日新聞社に入社。巌谷小波とかねて温めていた子供新聞発行について相談し、岩谷の紹介で1923年(大正12年)にアサヒグラフ局員となり、『日刊アサヒグラフ』の子供ページ欄を担当することになる。そこで企画したのが『正チャンの冒険』で、自ら原作と文章を担当した。挿絵には樺島勝一を起用して連載が開始された。『正チャンの冒険』は、ふきだしを最初に採用した漫画であり、主人公がかぶっていた「正チャン帽」は大流行した。
 大正期には有馬頼寧,岡部長景の主催する信愛会に参加し、労働者のための夜学校・信愛中等夜学校の設立に関わる。また、近衛文麿・有馬らの運営する新進華族の会合「十一会」に参加した。1926年(大正15年)、鉄道大臣秘書官に任官。1928年(昭和3年)7月26日、貴族院議員補欠選挙で当選。貴族院では研究会に所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで務めた。濱口内閣で外務参与官、齋藤内閣で農林政務次官に就任。1937年(昭和12年)には硫安販売取締役会長となる。他にも静岡電気鉄道社長やNHK理事などを歴任した。
 戦後、内閣の(旧)観光事業審議会委員、京浜急行電鉄取締役・監査役、京浜自動車工業社長などを歴任。また、川崎さいか屋取締役、財団法人安達峰一郎記念館理事長なども務めた。1967年(昭和42年)5月20日午後4時、心筋梗塞のため東京都世田谷区代田4丁目3番24号の自宅で死去。77歳没。