| OD04:織田信長 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信雄 | OD05:織田信雄 |

| リンク | OD06 |
| 織田信雄 | 織田秀雄 |
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大和宇陀松山藩初代藩主。伊勢北畠家の養嗣子となって北畠氏を称し、元服して具豊を名乗ったのが初名で、第10代当主として信意、次いで信勝とも名乗り、信雄は最後の改名による。のちに織田氏に復し、晩年は入道して、法名は常真といった。 詳細はWikipedia(織田信雄)参照 |
天正11年(1583年)、織田信雄の長男として誕生。天正18年(1590年)、父・信雄は秀吉の国替命令を拒んで改易されて、秋田に流されたが、文禄元年(1592年)、秀雄は豊臣秀吉から越前国大野郡において5万石を与えられ、亀山城(大野城)を居城とした。秀雄の召し出しは、同年の父・信雄の赦免に伴う措置と考えられる。 |
| 織田信良 | 織田信久 |
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天正12年(1584年)、織田信雄の4男として伊勢国に生まれる。生母は木造具政の娘。一説には信雄の改易後、一時的に細川忠興のもとに身を寄せたという。元和2年(1616年)10月、従五位上侍従に叙任される。元和3年(1617年)以降、信雄から上野国甘楽郡などで2万石を分け与えられたと考えられる。はじめは甘楽郡福島村に陣屋を構え、後に小幡村に移転し、城下町や灌漑用水設備の整備など、藩政の基礎固めに努めた。秀雄・高雄らの兄は既に死去していたようである。なお、信雄は大和国宇陀郡などで3万1200石を領有し、京都で暮らした。後にこの隠居料をめぐり、信良の息子の信昌と弟の高長の間で相続争いが起きた。 |
慶安3年(1650年)9月1日、先代藩主で従兄の信昌の末期養子として家督を相続した。同年12月28日、将軍徳川家光に御目見する。明暦元年(1655年)12月29日に従五位下に叙任し、内記を称する。後に従四位下侍従に昇進する。万治2年(1659年)6月13日に藩主として初めて帰国する許可を得る。寛文5年(1665年)4月17日、江戸城紅葉山における八講会に実兄長頼と予参を務めた。これにより、国主に準じた待遇を受けていたことがうかがわれる。 |
| 織田信就 | 織田信右 |
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生母は信久の側室であり、系譜上は次男になっているものの、庶長子であったようである。元禄7年(1694年)、信久と正室の稲葉氏の間に生まれた兄の信盛、弟の信知の死去にともなって嫡子となる。同年12月15日に将軍・徳川綱吉に御目見、12月18日に従五位下美濃守に叙任する。後に従四位下侍従に昇進する。 |
信就の4男であったが、長兄の信房、次いで三兄の信乗が病気を理由に廃嫡され、次兄の信常も多病で相続を辞したため、享保15年(1730年)10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍徳川吉宗に御目見、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。 |
| 織田信邦 | 織田信浮 |
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明和元年(1764年)7月29日、先代藩主・織田信富の末期養子として家督を相続し、信富の養女の呉姫を正室に迎えた。同年8月15日、将軍徳川家治に御目見、11月13日従五位下美濃守に叙任された。明和2年(1765年)6月15日、藩主として初めて国入りを許される。 |
明和4年(1767年)8月21日、明和事件により、幕府は上野小幡藩主・織田信邦に蟄居隠居を命じた。また、信邦の仮養子であった実弟の信浮に家督の相続を許可したが、陸奥信夫郡,出羽置賜郡,出羽村山郡内2万石への転封を命じた。翌年11月15日、出羽国置賜郡高畠村に陣屋を構える許可を得る。なお、寛政12年(1800年)12月25日、幕府は信夫郡,村山郡内の領地9,920石余を収公、村山郡内に替地を与えた。この替地により、領地の大部分が村山郡内に集中することになった。 |
| 織田信学 | 織田信敏 |
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天保7年(1836年)10月13日、父・信美の死去により家督を相続する。11月1日、将軍徳川家慶に御目見、12月16日従五位下伊勢守に叙任する。後に兵部少輔,左近将監に改める。幕末の動乱期に入ると、藩財政の悪化から紅花の専売制や年貢の前納化を行う。文久2年(1862年)、祖父・信浮,父・信美の遺志に基づき、小幡藩時代のような国主格待遇への復帰をはかる家格上昇を幕府に嘆願したが、果たされなかった。 |
江戸において誕生する。慶応4年(1868年)2月26日、父・信学は、病気を理由に嫡男の信敏を入洛させた。3月2日、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられる。これに対し、藩士・吉田大八を先導役名代とすることを願い、許可される。3月6日、信敏は明治天皇に拝謁。3月19日、父の隠居により藩主となり、4月6日、従五位下兵部大輔に叙任する。 |
| 織田信恒 | |
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1889年(明治22年)8月3日、旧磐城国中村藩主・相馬誠胤子爵の長男として東京府に生まれ、1895年(明治28年)6月、旧羽前国天童藩主・織田信敏子爵の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父・信敏の死去により襲爵。京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。1920年(大正9年)に商工業視察のため欧米や中国を旅行するが、特にヨーロッパ漫遊中に目にした子供新聞や子供雑誌に影響を受ける。 |