| OE01:大枝諸上 | 土師身臣 ― 大枝諸上 ― 大江千古 | OE04:大江千古 |


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| 大江以言 | 大江維時 |
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漢学を藤原篤茂に学んだ。正六位上文章得業生から身を起こし、長保3年(1001年)8月従五位上、長保から寛弘年間にかけて文章博士を勤め、治部少輔を経て、従四位下式部権大輔に至った。 |
大江氏の血だけでなく、祖父大江音人の門弟であった巨勢文雄を外祖父に持ち、早くからその才能を発揮した文章生になったのは29歳であったが、僅か1年でその上の文章得業生に選ばれている。 |
| 大江匡衡 | 大江時棟 |
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中古三十六歌仙の一人。大江氏(江家)は大江音人を祖とし菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄で、菅原道真の失脚後に飛躍し、「聖代」とされている村上朝には匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となる。父・重光は対策に及第している文人官僚。 |
平安時代中期の貴族、文人。式部大輔・大江匡衡の養子とされる。文章生を経て大学允に任官。長徳3年(997年)、省試に一旦及第が決定するも、紀斉名が漢詩に対して瑕疵ありとして落第させた。これにより、時棟の養父であった大江匡衡と紀斉名の間に省試論争が起った。 |
| 大江挙周 | 大江為基 |
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父・匡衡と同様紀伝道に進み、対策に及第。一条天皇の東三条殿行幸の際に、匡衡に従った挙周が作った文が評価されて蔵人に任ぜられた。文章博士,東宮学士を経て、後一条天皇の侍読を務め式部大輔に至った。一方で地方官として、丹波守・三河守・和泉守を歴任した。 |
文章博士や三河守を経て従五位下摂津守になるも、病のために図書権頭に遷される。更に妻の死をきっかけに出家して浄土信仰の道に進んだ。『続本朝往生伝』には、死んだ後に一度は蘇生したが、死後に極楽往生できるものの、最下層の「下品下生」に留まることを知って無念の気持ちを表したと伝えている。『拾遺和歌集』など、勅撰和歌集に6首採録されている。また、結婚以前は赤染衛門と恋愛関係にあったとされ、『赤染衛門集』に為基の歌が多数採録されている。 |
| 大江定基 | |
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文章・和歌に秀で図書頭,三河守を歴任、従五位下に至る。三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性が亡くなったことから、988年(永延2年)、寂心(=出家後の慶滋保胤)のもとで出家し叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後、横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。 |