大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。正房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞、続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた。 その後は昇進が止まり、一時隠遁しようとするが、藤原経任の諫止により思いとどまり、治暦3年(1067年)、東宮・尊仁親王の学士に任じられる。学士を務める中で尊仁親王の信頼を得て、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると蔵人に任ぜられる。翌延久元年(1069年)、左衛門権佐(検非違使佐),右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のちの白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。 延久4年12月(1073年1月)の白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のちの堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。また、弁官にて累進し応徳元年(1084年)に左大弁に任ぜられ、応徳3年(1086年)に従三位に昇叙され公卿に列す。この間の承暦2年(1078年)、自らの邸宅に江家文庫を設置している。 堀河朝に入ると、寛治2年(1088年)に正三位・参議、寛治8年(1094年)に従二位・権中納言と順調に昇進する。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。 康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。長治3年(1106年)、権中納言を辞して、再度大宰権帥に任ぜられる。鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去した。 大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった。惟宗孝言が大学者として知られていた匡房の曾祖父・大江匡衡について尋ねたところ、匡房は自分が意識しているのは維時のみであると述べて暗に匡衡は評価に値しないことを示した。これは匡衡の位階が正四位下に終わったことから、公卿を目指す匡房には目標たるべき人物ではないと見ていたと考えられている。 『続拾遺和歌集』(巻7 賀438)には匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている。 大江氏の祖・大江音人を阿保親王の子とする伝承を作成したのは、匡房であるという説がある。学才のほか、和歌,兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた。『古今著聞集』(1254年成立)や『奥州後三年記』(1347年成立)に見える話である。
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越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸と呼ばれ、太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。 長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。 為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。敦道親王の召人として一子・永覚を設けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。 寛弘年間の末(1008~11年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明。娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌である。仏教への傾倒が伺われる。歌の返しに性空から袈裟をもらい、それを着て命を終えた。 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されている。 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。 イワシが好きだったという説話があるが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち、後世の作話と思われる。
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