百済系渡来氏族

OU06:大内重弘  多々良正恒 ― 大内盛房 ― 大内満盛 ― 大内弘家 ― 大内重弘 ― 大内弘幸 OU07:大内弘幸


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大内弘幸 大内弘世

 大内氏第8代当主。元応2年(1320年)、父の死により家督を相続する。元弘元年(1332年)の元弘の乱では、北条高時の命を受けて厚東武実,熊谷直経ら西国勢とともに上洛した。
 元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月以降、四国で反幕勢力が蜂起すると、長門探題の北条時直と行動をともにし、乱の鎮圧に貢献した。そのため、弘幸は建武政権より疎外され、叔父の鷲頭長弘が周防守護職に任じられた。周防守護となった長弘は、大内豊前権守や大内豊前権守入道と称して大内氏の惣領として君臨した。
 建武2年(1335年)12月、弘幸は足利尊氏とよしみを結び、武家方となった。延元元年(1336年)2月、鷲頭長弘の周防守護代の職に任ぜられる。しかし、弟の波野弘直は後醍醐天皇方に味方。関東に出陣して新田義貞の指揮下に入り、武家方と戦った。弘直は後に帰国するが尊氏の九州下向に際して挙兵し、興国2年/暦応4年(1336年)7月7日、石見国益田で討死した。
 室町幕府成立後は長弘も尊氏に取り入って武家方にあり、なおも周防守護職の座にあった。鷲頭氏と大内氏の対立は続いており、暦応4年(1341年)閏4月15日に長弘方の放火によって、大内氏の氏寺氷上山興隆寺が焼失するなど、その対立はより深刻となっていく。正平5年/観応元年(1350年)、弘幸は子の弘世とともに長弘討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入、南朝に帰順の意志を示した。翌年の7月に南朝に帰順。子の弘世が南朝から周防守護職に任じられた。
 長弘討伐を成し得ぬままの正平7年/観応3年3月6日(1352年4月20日)、死去。 

 多々良姓大内氏の第9代当主。大内氏は北朝を支持する室町幕府に従うが、幕府内の対立から観応の擾乱と呼ばれる内乱が勃発。足利尊氏が弟の足利直義に対抗するために南朝に降伏して正平一統となる。大内氏は南朝との和睦が取り消されても直義と養子の足利直冬に属し、弘世は南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大。正平5年/観応元年(1350年)、弘世は父の弘幸と共に幕府方の周防守護職である鷲頭氏討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野荘に乱入、南朝に帰順の意志を示した。翌年の7月に南朝に帰順。弘世は南朝から周防守護職に任じられ、宿願を果たした。
 正平7年/観応3年(1352年)、家督を継いだ弘世は周防平定を急ぎ、2月19・20日、都濃郡鷲頭荘白坂山において鷲頭長弘,内藤藤時と戦い、つづく閏2月17日には高志垣、閏2月19日、3月27・28日には熊毛郡新屋河内真尾、4月9日から29日には都濃郡鷲頭荘白坂山、さらに8月3日にも鷲頭長弘らと戦闘に及ぶ。その結果、正平8年/文和2年(1353年)にまでには鷲頭氏と講和して鷲頭一派を傘下に収めた。
 正平10年/文和4年(1355年)頃から長門に進出。長門守護であった厚東氏との戦いに突入する。厚東義武は抵抗するも遂には正平13年/延文3年(1358年)正月、霜降城は落城、6月には長府を陥落させて長門国を平定した。6月23日、弘世は長門守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。
 だが、弘世が盟主と頼んだ足利直冬は上洛を目指すべく本拠を石見国に移すと、次第に両者の関係は希薄化し、正平17年/貞治元年(1363年)9月に弘世は足利直冬と南朝に見切りをつけて北朝に帰順した。正平21年/貞治5年(1366年)、足利義詮に拝謁のため上洛。その際、将軍家近臣に多くの黄金と布帛を賄賂として贈り大いに名声を得たという。また同年、足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見守護にも任じられる。正平21年/貞治5年(1366年)には剃髪し、道階と号する。
 正平21年/貞治5年(1366年)7月には石見に出兵し、7月13日に青龍寺城を攻める。石見国の国人領主・益田兼見と協力し石見国を平定した後、安芸国に進入。安芸国の諸城を降しながら、正平23年/貞治7年(1368年)に帰国した。
 ところが、北朝・室町幕府への帰服を一時的なものと捉える弘世と室町幕府の安定化をみてその体制下での生き残りを図ろうとする嫡男・義弘の間で対立が生じるようになる。建徳2年/応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川貞世を支援して九州に進出。大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げたが、翌年8月には帰国してしまう。その後、文中3年/応安7年(1374年)7月に安芸国人・毛利元春を攻め、天授2年/永和2年(1376年)4月にも再度侵攻した。これは元春が今川貞世の命を受けて九州に出陣中の事件であった。これを知った3代将軍・足利義満や管領細川頼之から咎められて石見守護職を剥奪されたため撤兵した。天授5年/康暦元年(1379年)になって、弘世と異なって今川貞世の傘下として各地を転戦していた義弘に石見守護職が与えられ、弘世と義弘の力関係が逆転することになる。
 天授6年/康暦2年(1380年)に弘世は死去しているが、その没日は11月15日(一説には10月15日)で嫡男・義弘と弟である満弘が家督を巡って内戦(康暦内戦)をしている中の死であった。しかも、当時の大内氏は義弘が実権を握りつつあったにもかかわらず、鷲頭氏をはじめ多くの重臣が満弘陣営に参加している。そして、内戦中最大の激戦は安芸・石見方面での満弘本隊との戦いではなく、別働隊が籠る長府の下山城の攻防戦であった(同年10月5日陥落)
 弘世は正平15年/延文5年(1360年)に本拠を大内館から山口へ移転。京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いた。また、京から迎えた姫君を慰めようと、一の坂川を京都の鴨川に見立てて、宇治のゲンジボタルを取り寄せ、放したと伝えられている。しかし、近年の考古学的調査によれば、山口の都市化は少なくとも弘世期までは遡ることはなく、いまだに大内が本拠地だったと考えられる。

大内義弘 大内盛見

 大内家の第10代当主。元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6ヶ国(周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊)にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱で敗死した。
 大内氏は父・弘世の代に南朝方から室町幕府に帰順した周防を拠点とする有力守護大名で、義弘は応安4年(1371年)10月に九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州へ渡り、南朝の勢力追討に功績を挙げ、応安5年(1372年)に大宰府を攻略し、父と共に帰国した。
 応安7年(1374年)9月、長門国と豊前国の守護職に任命される。永和元年(1375年)3月3日、筑前世振山の合戦で今川勢は配下の武将・奥山直朝,井伊,小笠原が討ち死にするなど劣勢を強いられたが、義弘が士卒を励まし力を尽くして戦ったため、菊池・松浦・千葉連合軍を大いに打ち破ることができた。3月21日には九州から長門国長府に帰国し、長門一宮・二宮に参詣した。
 康暦2年(1380年)に父が死去するが、その前後から弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛(康暦内戦)を起こし、永徳元年(1381年)に幕府の将軍・足利義満の支持を得て勝利し、6月に満弘と和解した。義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つことになる。
 室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かった。そのため第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強した。義弘は義満の家臣として忠実に働き、康応元年(1389年)3月に義満が厳島詣のために西下すると、12日、義満を周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなる。13日、周防三田尻の松原に宿泊施設を設営し義満を歓待する。義満一行の船は九州を目指す予定であったが、悪天候が重なり九州へ向かうことを断念。義満はここより帰京することとなるが、義弘は随行して27・28日上洛する。以後、義弘は幕政の中枢に参加し、在京することが多くなった。
 この間の康暦元年(1379年)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、高麗側からの高い評価は、李朝成立後の李朝と大内氏との間に直接通交を成立させることにつながる。
 義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、天授5年/康暦元年(1379年)には細川氏と斯波氏の対立を利用して管領・細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。また、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させた(土岐康行の乱)。明徳2年(1391年)には11ヶ国の守護を兼ね「六分の一殿」と呼ばれた大勢力・山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐。山名氏は3ヶ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。
 このような義満の権力強化策に義弘は協力、明徳の乱でも一軍の先方として出陣。200騎を率い神祇官の杜を背に東寺に陣を構えた。明徳2年(1391年)12月30日、洛西内野で勇戦し氏清の家臣の小林上野守を一騎討ちで破るといった武功を立てた。この武功により明徳3年(1392年)1月4日、山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6ヶ国の太守となる。義弘は山名氏が紀伊国の前守護の山名家が押領した荘園の返却を行う一方で、荘園領主と対立することが多かった国人や地侍の知行を保証して給人化を進めている[。義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に明徳4年(1393年)12月に足利将軍家に準じることを認める御内書を発している。
 義弘は足利将軍家への忠節を誓っており、応永2年(1395年)7月20日に義満が出家した際にもともに出家し入道となった。
 応永4年(1397年)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた際、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」と武人としての信念を貫いてこれに従わず、義満の不興を買った。同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣しこれに当たらせるものの苦戦が続き、筑前で満弘が討死する。にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていく。応永5年(1398年)、義弘は満弘を討たれた報復として九州に出陣して少弐家を討った。
 有力守護大名の弱体化を図る義満は義弘の勢力拡大を危惧し、少弐平定後に義弘に対して上洛命令を出した。しかし義弘は命令に応じず、義満は引き続き義弘を圧迫して上洛命令を出し続けるなどの挑発を行なった。
 義弘は遂に追い込まれ、窮地を脱するには挙兵して義満を倒すしかないと判断し、応永6年(1399年)10月13日、義弘は弟の弘茂と共に軍勢を率いて、分国である和泉堺ノ浦に上陸する。義弘は義満により憂き目に遭わされた反幕勢力の結集を図り、挙兵を促した。しかしこれら地方の反乱は強大な義満の前にほとんど無力で、多くが鎮定される。
 義満は義弘の懐柔を試みるが、義弘は鎌倉公方の足利満兼と通じて挙兵、堺に城砦を築き、備えとした。これが応永の乱のはじまりである。義満は禅僧の絶海中津を派遣して降伏を勧めるが、義弘はそれを丁重に拒否する(応永6年10月27日)。翌28日に義満が義弘討伐の治罰御教書を発し、11月に入って堺にもその報が入ると、義弘は覚悟を固め、謀反ゆえに運命が尽き、討死は必定と考え、自身の葬儀を執り行い、四十九日法要までも行った。そして周防に残してきた老いた母にも色々な形見と文を添えて送った。また、同じく周防に残っていた盛見にも手紙を送り、国許の守りを固めるよう申し送った。義弘は5,000(一説には3,000)の軍勢を率いて和泉の堺に籠城して満兼の援軍を待つとともに、最期の戦いを開始した。
 義満は細川頼元,赤松義則,畠山基国,畠山満家,斯波義将,斯波義重らを主力とする3万余の兵士を率いて堺へと迫った。大内勢は圧倒的な戦力で攻め寄せる足利勢を何度も撃退し、意気軒高であったが、12月21日、義満が奉公衆を率いて火攻めなどを行うと、大内方は劣勢となり、家臣の多くが討死を遂げた。義弘は死を覚悟し、散々に足利勢を打ち破った末、最後は畠山満家に討ち取られた。
 堺で兄と共に籠城していた弘茂は自害を思いとどまって降伏。最終的には赦されて大内氏の後継者として認められる。しかし、国許に残った盛見が抵抗を示し、両者による家督争いが勃発する。墓所は山口県山口市保寧山瑠璃光寺。弟で次代の盛見は、義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺五重塔の建立を計画した。完成したのは、嘉吉2年(1442年)頃と伝えられている。現在は、大内文化の最高傑作として国宝に指定されている。義弘は、その五重塔の下に眠っているという。また死地である堺の本行寺に供養塔がある。
 優れた武人であり、気骨のある武将であったと伝えられる。一方で歌道に優れ、宗碩との交流があったほか、『新後拾遺和歌集』の作者に列するほどの文化人でもあった。 

 大内持盛の子とされる教弘,教幸は盛見の子とする系図もある。応永3年(1396年)に九州探題・渋川満頼に対して少弐貞頼,菊池武朝が反乱を起こすと、次兄の満弘と共に九州に出陣している。
応永6年(1399年)、室町幕府に対して応永の乱を起こした長兄の義弘が幕府軍と戦って敗死。兄の命により周防の守備についていた盛見は、兄の遺志を継ぐべく3代将軍・足利義満への抵抗と大内氏の家督相続を画策する。一方、兄と共に応永の乱に参加していた盛見の弟・弘茂は兄の敗死と共に幕府に降伏し、義満に臣従することでその後ろ盾を得て兄の跡を継ごうとしたため、ここに盛見と弘茂による後継者争いが起こった。
 応永7年(1400年)に弘茂が周防・長門に下向すると敗退し一旦豊後に引き下がる。弘茂は守護として国内の平定に乗り出すが、翌応永8年(1401年)に、弘茂の留守を突いて反撃に出て長門下山城で弘茂を討ち取り、弘茂の跡を継いだもう1人の弟・道通を滅ぼした上、安芸・石見に進撃して道通を支援した国人衆も降伏させ、家督を掌握した。更に道通の補佐を期待した大内満世(満弘の子)も盛見に降伏してしまった。足利義満は盛見に対抗できるような人物をすべて失い、少弐氏・菊池氏に攻められている九州探題渋川満頼の支援に乗り出す必要性もあったため、やむなく応永11年(1404年)には家督相続を追認、周防・長門守護職を安堵している。だが、応永10年4月28日に「周防・長門凶徒」として治罰の御判御教書を発して追討の対象としてきた盛見の討伐に失敗したことは義満にとっては屈辱であり、盛見も義満の在世中には決して上洛しなかった。なお、応永13年(1406年)頃に出家して徳雄と号した。
 以後は幕命により九州の経営に尽力し、応永15年(1408年)に豊後守護職にも任命される。なお、この年、足利義満が病死している。応永16年(1409年)、盛見は上洛して在京、相伴衆として幕政に参加するなど幕府に重用された。応永32年(1425年)、九州探題・渋川義俊が少弐満貞,菊池兼朝らに敗れると帰国して九州に下向し反乱を平定、以後は義俊の従弟で新たな九州探題・渋川満直を援助して九州の勢力拡大に取り組み、永享元年(1429年)に再度上洛して新将軍となった足利義教に拝謁、筑前が幕府の御料所となると筑前の代官に任命された。しかし、少弐満貞や大友持直と筑前の領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して両氏と戦ったが、永享3年(1431年)に筑前国怡土郡にて戦死した(戦没地としては怡土荘説と深江荘説がある)。享年55。盛見の死後、甥の大内持世・持盛兄弟が後継ぎ争いを起こし、持世が家督を継いでいる。
 なお、大友持直らの反乱を重く見た6代将軍・足利義教は安芸など近隣の国人に九州への出兵命令を下し、武田信繁,小早川則平,河野通久らが九州に向かい持直らと交戦した。もっとも、足利義教も大内氏の力が強くなりすぎることを警戒して大友持直との和議も検討しており、これに対して盛見から異議が出されている。だが、盛見の突然の戦没によって大友氏との和議の件はうやむやとなり、問題は次代の持世以降に引き継がれることになった。
 文人としても優れ、京都五山の僧達と交わって禅を修め、応永25年(1418年)から永享3年に及ぶ宇佐神宮の造営を手がけ、氷上山興隆寺に供養会を開くなど文化的業績を挙げた。また、李氏朝鮮と通交して大蔵経を印行させ、大きな利益を得ている。

大内持世 大内持盛

 大内氏の第12代当主。大内義弘の子とするが、大内弘世(祖父)の子とする説もある。服時に第4代将軍・足利義持より偏諱の授与を受けて持世と名乗る。
 永享3年(1431年)、叔父の第11代当主大内盛見が大友氏・少弐氏と戦って筑前で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎを巡って争いが起こった。生前、盛見は持世に家督と長門を除く所領を、持世の弟・持盛に長門を継ぐように遺言していたとされる。ところが、別の記録では当初、持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世(義弘・盛見の甥)に石見国迩摩郡と長門の一部を与える予定であったものが、室町幕府との交渉にあたっていた大内氏の重臣・内藤智得が盛見の遺志を持ち出して持世に大内家の家督を継がせ、持盛に長門国と迩摩郡・安芸の一部を継がせる方針に変えるように幕府に申し入れて認められたとされる。これに不満を抱いた持盛は、永享4年2月10日に九州出陣中であった持世の陣を襲って反乱を起こし、満世を見方につけて大内氏領国の掌握に成功、持世は石見国の三隅氏を頼って逃亡した。しかし、持世は国人衆の支持を背景にして翌月には山口を取り戻し、持盛・満世は大友持直を頼る。第6代将軍・足利義教(義持の弟)は持世を支持して修理大夫の官途を授けた。一方、持世も幕府に働きかけて大友親綱と菊池兼朝をそれぞれ豊後国と筑後国の守護に任命させて味方に取り込む。永享5年(1433年)4月、持盛は豊前国で、満世は逃亡先の京都で討ち取られた。これに先立つ同年3月に幕府から大友持直・少弐満貞追討命令が出されると九州に下向、安芸・石見・伊予の国人衆や河野通久,大友親綱らと協力して少弐満貞・資嗣父子を討ち取り、大友持直と戦い勝利して勢力を拡大した。翌年に少弐嘉頼,大友持直が再挙兵すると、永享7年(1435年)に再び九州に向かい北九州を平定、少弐氏を滅亡寸前までに追い込み、続いて九州千葉氏の内紛にも関与した。
 永享11年(1439年)、九州遠征を終えた持世は山口に帰還するが、大内氏の勢力が急速に拡大していくことに不安を覚えた将軍・足利義教は6月に持世が上洛命令に応じないことを理由に安芸国の所領を没収する。持世は、永享12年(1440年)に足利義教に少弐嘉頼・教頼兄弟との和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させ、合わせて自身も上洛した。これは、少弐氏と同盟関係にある対馬の宗氏との関係悪化を恐れたとも言われているが、一方で持世が李氏朝鮮に対して対馬の割譲と引き換えに軍事同盟を結んで少弐・宗両氏を滅ぼそうと計画していたものの、突然の殺害によって立ち消えになったと言われている。
 当時、足利義教によって一色義貫・土岐持頼が殺害される事件があり、持世の身の上も危惧されたが、嘉吉元年(1441年)3月に持世が義教に反抗していた異母弟の義昭を匿っていた薩摩国の島津忠国を持世が説得してその首を差し出させたことが義教に評価されて信頼を得た。だが、この年の6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いた時、持世も義教に従って臨席していたが、義教は満祐に暗殺され持世も重傷を負い、それがもとで7月28日に死去してしまった(嘉吉の乱)。享年48。跡を従弟(甥とも)で養嗣子の教弘が継いだ。死に臨んで、赤松征伐こそ最大の供養であると遺言したという。
 墓所は山口県山口市の澄泉寺。当主として有能なだけではなく、和歌にも優れた教養人であり、『新続古今和歌集』には多くの作品が遺されている。

 父は応永の乱を起こしたことで有名な大内氏の第10代当主・大内義弘で、同第12代当主・大内持世の弟。持世の父を祖父の弘世とする説では、持世の兄で義弘の養子になったとしている。元服時に4代将軍足利義持より偏諱の授与を受けて持盛と名乗る。
 永享3年(1431年)に第11代当主・大内盛見(義弘の弟)が大友氏・少弐氏と戦って筑前国で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎをめぐって争いが起こった。生前、大内盛見は甥にあたる大内持世に大内家の家督と長門国を除く所領を継がせ、その弟であった持盛に長門国守護職を継ぐように遺言していたとされる。一方、室町幕府から重用されていた僧侶・満済が書いた『満済准后日記』にはやや違った話が載せられている。満済とも面識があった大内氏重臣・内藤智得は山名時熙を通じて持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世に石見国迩摩郡と長門の一部を与える案を満済に伝え、満済はこれを将軍・義教に取り次いだ(永享3年9月3日条)。ところが、後になって内藤は別の僧侶を満済の元に派遣し、生前の盛見が持盛が後を継ぐことに不安を抱いており、自分としては持世を後継者に推挙する旨を伝えてきたのである。その結果、幕府の評議は持世を後継者にすることにし、持世に大内家の家督を継がせる御判と持盛に長門国と石見国迩摩郡・安芸の一部を安堵する御教書を出したという。この変化について、大内氏の後継を巡る幕府との交渉を任されていた内藤智得が、持盛が自分の競合相手であった陶盛政を重用したことに反発して持世支持に転じたことが関係するとみられている。
 結果、後継から外されることになった持盛は不満を抱き、持世とともに九州へと出陣していた永享4年2月10日に突如反乱を起こして、持世を石見国に追って大内氏領国を制圧する。だが、持世は国人衆の支持を背景にして持盛を攻撃して領国を奪還、1433年4月27日(永享5年4月8日)に、持盛は敗れ豊後国篠崎において討死する。37歳。


大内教弘 大内政弘

 従兄弟の第12代当主・大内持世の養嗣子となる。嘉吉元年(1441年)、持世が嘉吉の乱に巻き込まれて死去したため後を継いで当主となり、周防・長門・筑前・豊前の4ヶ国を領する。当主就任後は幕命に従って嘉吉2年(1442年)に九州探題・渋川教直と共に少弐教頼と交戦し、宗氏を頼って対馬へ逃れた少弐氏を討伐するために李氏朝鮮に対して対馬の一部割譲を提言している。嘉吉3年(1443年)、山名氏との関係強化のために石見守護であった山名熙貴の娘を宗家の持豊(宗全)の猶子として娶る。
 文安3年(1446年)、長門国守護代・鷲頭弘忠を解任し、文安5年2月17日に弘忠を長門国深川城にて攻め滅ぼした。鷲頭氏は大内氏と同族で、かつ大内氏が周防国を征服するまで同国の守護を務めていた名家であったことに加え、弘忠が筑前国粥田荘の本家(仁和寺)代官の地位を利用して領家(金剛三昧院)代官を追放して支配下に置こうとしたことが教弘の怒りを買ったともいわれている。教弘は領内の荘園を保護する一方で、事実上の東大寺領であり大内氏歴代当主も手を出しづらかった周防国の国衙領にも夫役を課すなど、守護権力の強化に努めた。
 大内氏は安芸東部の東西条を領有していたが、安芸中央の分郡守護の武田信繁・信賢父子と対立し文安4年(1447年)に安芸へ侵攻、長禄元年(1457年)、婿の厳島神社神主・佐伯親春が信賢に所領を横領されたため教弘を頼り、教弘は信繁の居城佐東銀山城と己斐城を攻めたが、幕府の命令を受けた毛利煕元,小早川煕平,吉川之経らの救援で両城の奪取に失敗した上、幕府は教弘の大内氏当主の地位を剥奪し、嫡男・亀童丸(後の政弘)に与えることとした。なお、長禄3年(1459年)には、長禄合戦に敗れた斯波義敏が亡命している(寛正6年(1465年)に上洛)。
 寛正2年(1461年)、幕府は斯波義敏を匿っていることを理由に教弘討伐を決め、教弘の領土だった東西条を武田氏に与え、引渡しの命令を伝えるために小早川煕平を山口に派遣する検討をしている。これに反発した教弘は平賀弘宗,小早川盛景らと共に東西条に出陣、細川氏及び幕府の支援を受けた武田氏と戦い、大内氏の勢力を安芸・石見・肥前に拡大した。細川氏と朝鮮との交易(日朝貿易・日明貿易)を巡って争い勝利、朝鮮と通交する。寛正4年(1463年)になると、先の処分が取り消され、名実ともに大内氏当主に復帰する。この頃、出家したとみられている。寛正6年(1465年)6月に幕府は先の東西条を武田氏の渡す命令を取り消して大内氏への返還を決めるが、管領として幕政に大きな影響を与えていた細川氏との対立は幕府との関係を悪化させていく。この年の8月、幕命に従って伊予の河野通春討伐に伊予に渡海。すると逆に通春と手を結んで四国における細川勝元の軍に対して優位に戦ったが、9月3日、興居島で死去。享年46。死後、家督は長男の政弘が継いだ。
 また、文化に対しても造詣が深く、雪舟を招聘して明に渡海させようとした。和歌や連歌にも通じていた。

 大内氏第14代当主。元服時に室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を賜い、父・教弘からも1字を与えられて政弘と名乗る。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し強勢を誇っていた。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年、山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。
 寛正6年(1465年)、父・教弘の死により20歳で家督を相続し、周防・長門・豊前・筑前の守護も継承した。父に引き続き日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領・細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援する。これに対し細川氏は大内氏追討の幕命を発し、安芸分郡守護・武田信賢や安芸国人・小早川煕平,毛利豊元らが安芸で大内軍と衝突した。
 一方、京から追放されて父が引き取っていた斯波義敏は、政弘と勝元との敵対で政弘から離脱し、寛正6年12月30日に上洛。将軍・足利義政に赦免されると、翌文正元年(1466年)7月23日に斯波義廉に代わって斯波氏当主に復帰、8月25日に越前・尾張・遠江の守護に任じられた。義廉は寛正6年の段階で畠山義就と山名宗全(政弘の義理の祖父)と繋がっていて、政弘も宗全と連携、これらの確執が応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる。
 応仁の乱では西軍の山名宗全に加勢して、応仁元年(1467年)7月に上洛、およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する。京都の東寺に陣を構えた際には兵力1万であったと伝えられる。応仁2年(1468年)7月、西軍に将軍として擁立された足利義視は政弘を左京大夫に任ずる。これに対し、東軍側にいた将軍・足利義政は山名宗全,大内政弘らを朝敵として討伐を命じる御内書を2度にわたって発した。これを受けて12月には東軍方の少弐教頼と宗盛貞が政弘の不在を突いて筑前に侵攻するが撃退されている。しかし、文明元年(1470年)に少弐氏・細川氏らにけしかけられた叔父・教幸(道頓)が赤間関で謀反を起こす(大内道頓の乱)。政弘は益田貞兼を急遽帰国させ、留守を守っていた重臣・陶弘護の反乱鎮圧に加わらせた。弘護らの活躍もあり、豊前にまで追い込まれた教幸は、文明4年(1472年)に自害し、乱を鎮圧された(ただし、応仁の乱終結まで生存していたとする説もある)。
 文明5年(1473年)、山名宗全,.細川勝元が相次いで病死し、山名・細川両氏が和解した後も政弘は足利義視を京都の自邸に迎え入れて、戦いを継続する。だが、戦いは小競り合いとなり、足利義政も文明6年(1474年)11月13日に改めて政弘を(東軍による)左京大夫に任じるなどの懐柔に乗り出す。最終的に文明8年(1476年)9月、政弘は足利義政による東西和睦の要請を受諾し、文明9年(1477年)に入ると幕府は東軍による大内領攻撃を禁じるとともに、政弘が和睦の要件としていた河野通春の赦免に応じたことで一気に戦いは収束に向かい、10月に新将軍になった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4ヶ国の守護職を安堵され、11月に政弘と最後まで西軍方であった諸大名が帰国のために京都を出たことで、応仁の乱は収束した。12月23日、山口に帰国。
 文明10年(1478年)には九州に出陣して少弐氏と戦い、豊前・筑前を確保する。安芸・石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の海賊衆を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。ところが、政弘の留守中に大内教幸の反乱を鎮めた陶弘護が領国を掌握し、政弘と弘護は対立を深めていく。そんな最中の文明14年(1482年)、山口の政弘の館で陶弘護が吉見信頼に殺害される(山口大内事件)。通説では陶氏および縁戚の益田氏と吉見氏の対立が原因とされているが、弘護から実権を取り戻したい政弘が背後にいたとする説もある。殺害の理由はどうあれ、家中で最も力を持った重臣が消えたことで、政弘は家中を掌握することに成功し、政庁機構の再編・専制確立を意図した自らの権力強化・戦場になった領国の再建に力を注ぐことになった。大内家壁書はこうした一連の政策の集大成と言える。
 文明12年(1480年)に相伴衆となる。長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚が行った近江国の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)には家臣・問田弘胤を代理として参陣させた。延徳2年(1490年)、政弘は朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に息子の尊光を任じて、以後、国衙領の租税は大内氏が徴収して東大寺に納めることとしたが、実際に徴収された租税が東大寺へ送られることはなく、大内氏の領国の中で東大寺が独自の地位を築いてきた周防国の国衙領を押領することに成功した。
 延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙に従い再度の六角高頼討伐に従軍するため再び上洛。翌明応元年(1492年)には嫡子・義興も参陣させている。しかし、明応3年(1494年)、中風が悪化したため義興に家督を譲って隠居。明応4年(1495年)正月に母を亡くし、自身も9月に死去した。享年50。 

大内義興 大内義隆

 室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。
 長享2年1月30日(1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。
 明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する。ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領・細川政元が将軍・足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与することになり、家督継承後の義興の支配に資することになった。
 明応3年(1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第15代当主となる。ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の陶興明を明応4年(1495年)2月に殺害した。興明の殺害には内藤弘矩の同意があったとされるが、政弘の承認を得た義興が同年2月23日付で安芸国人・阿曽沼氏に安芸国能美島周辺での武護捜索を命じた。武護は高野山に赴いた後、最期は6月19日までに姫山(現・山口市)で討死した。その内藤弘矩も明応4年(1495年)2月28日、政弘宅で、子の弥七弘和は義興が兵をさしむけた兵によって討伐された。
 その後、弘矩の弟である内藤弘春に内藤氏を再興させ(弘春の息子は弘矩の娘を正室に迎えている)、同じく陶氏も末弟の陶興房に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年(1499年)に現実のものとなり、重臣の杉武明が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して2月16日[21]に武明を自殺させ、尊光は大友氏を頼って豊後に亡命した。 そして、父・大内政弘の存命中に陶弘護,内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、跡を受けた義興の地位を安定させることにもつながった。 暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495年)9月18日に父が死去すると、名実ともに大内氏の当主となる。
 大内氏は長い間北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、勢力を拡大してきたが、大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことから義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれた。ところが、明応5年(1496年)に義右が急死すると、義右が対立していた父の政親が毒殺したという噂が流れ、実権を取り戻した政親は北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。ところが、政親の乗った船は遭難して事もあろうに大内氏の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。義興は激怒して政親を捕らえて切腹させてしまった。事件の背景には大内氏の勢力拡大と北陸地方に亡命中の前将軍・足利義材との連携を恐れた細川政元の暗躍があったとみられる。その後、義興は大友親実(大聖院宗心、大友親綱の子)を大友家の後継者にしようとしたが、政親の弟・大友親治の反抗によって失敗している。また、明応8年(1499年)に反乱に失敗した義興の弟・大護院尊光が亡命したのも大友親治の下であり、彼は細川政元が擁していた将軍・足利義高(義澄)の偏諱を受けて大内高弘と名乗っている。
 一方、筑前国の奪回を狙っていた少弐政資・高経父子も大友政親・親治兄弟と結んで肥前国から筑前国に兵を進めて大内軍と戦っていたが、義興も明応5年(1496年)暮れには赤間関に兵を結集させ、12月13日に筑前に向けて出陣した。明応6年(1497年)3月13日に博多の聖福寺門前で、15日には筑紫村と高鳥居城で戦い、筑前に攻め込んだ少弐父子を破って肥前へと侵攻。3月23日、肥前朝日城を攻略。4月14日、少弐政資を小城城に包囲した。いったん山口に帰国した義興は16日、周防国一宮の玉祖神社、二宮の出雲神社、三宮の仁壁神社、四宮の赤田神社、五宮の浅田神社に参詣した。18日、小城城は落城し少弐政資は逃亡したがのちに自害した。
 その後も少弐氏に攻められていた九州探題の渋川尹繁を支援し、義興の軍勢は勝利を重ねて肥前国にて自らの勢力も広げたが、一方で大友氏との戦いでは防戦を強いられた。そんな最中の明応8年12月30日(1500年1月30日)に諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(義材より改名)が義興を頼って山口に入った。義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して、山口に自らの幕府を置き、義興も細川政元に対抗して義尹を擁して上洛しようとしていた。これに対して、足利義高,細川政元は大友親治,大内高弘,少弐資元,菊地武運,阿蘇惟長らに義興討伐を命じるとともに、文亀元年閏6月9日(1501年7月23日)には後柏原天皇から義興討伐の綸旨を獲得した。こうして義興は「朝敵」ということになり、続いて将軍・義高の御内書と奉行人奉書が出されて改めて西日本の大名・有力国人28名に義興討伐が命じられた。文亀元年(1501年)閏6月20日、大友親治,少弐資元の軍勢が豊前国の要所であった馬ヶ岳城を攻める。神代与三兵衞尉や仁保護郷が戦うが、護郷は戦死し馬ヶ岳城は陥落する。だが7月23日に杉弘依が援軍として駆けつけ馬ヶ岳城を取り戻すことができた。東では義興の討伐命令の受けていた安芸国の毛利弘元を味方に引き入れることに成功している。間もなく、義興は足利義尹の仲介により大友親治と和睦し、永正4年(1507年)には少弐資元とも和睦し、北九州の勢力を保っている。
 義興は永正元年(1504年)頃から上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収などを行っていたが、永正4年(1507年)6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺された(永正の錯乱)。その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た義興は、前将軍・足利義尹の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発した。11月25日には右田弘詮らに本国の留守を任せて山口から進発し防府に出て、12月に備後にまで進出した。これに対して細川家では、政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子である細川澄元と対立・抗争し、永正5年(1508年)3月に細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に近江に逃走した。
 4月27日に義尹を奉じて和泉国堺に入った義興は畿内の澄元方を平定にあたっていた細川高国との連携を強め、5月5日には高国を細川京兆家(細川氏宗家)当主と認める義尹の御内書が出された。そして、6月8日に義尹と義興は上洛を果たした。上洛を果たした義興は、7月1日には足利義尹を将軍職に復帰させ、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になった。義尹は軍功により、義興に相国寺崇寿院領であった和泉国堺南荘を与えたものの、義興は「何事も元のように寺社本所領を返付されよ」と述べて恩賞を辞退して相国寺に返還してしまった。このため、義尹は代わりとして山城守護も与え、京都や奈良の公家や寺社も義興の寺社本所領の保護を公言する義興の態度に好感を抱いた。このエピソードはちょうど60年後に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が役職よりも堺の支配を望んだのと逆を行ったことになるのだが、この事は後日思わぬ形で義興に跳ね返ることになる。
 義尹の将軍復帰という役割を果たし終えた義興は不安定な領国情勢を危惧して帰国を望むようになるが、現実には細川澄元,三好之長らは京都奪還を目指してたびたび反攻してくるため帰国もままならなかった。そんな最中の永正5年12月に奈良の東大寺が 延徳2年(1490年)以来、大内氏に押領されたままの周防国の国衙領の返還を求めて閉門を行ったのである。義興は先の堺南荘の件で寺社本所領の保護を公言してしまったために、東大寺の閉門を止めさせるために国衙領の返還を求める朝廷や幕府の要請に頭を悩まされることになる。一方、東大寺側も興福寺などの他の有力寺院に同調を呼びかけたものの、義興が寺社本所領の保護政策を放棄することを恐れた彼らから同調を拒絶されたために孤独な戦いを迫られた。義興はやむなく翌永正6年(1509年)に国衙領を東大寺に返還することを表明して事態の収拾を図らざるを得なかった。
 永正6年6月に如意ヶ嶽の戦いに勝利して細川澄元らが四国へと落ち延びていくと、永正7年(1510年)1月には細川高国と共に近江に侵攻するが、逆に敗北してしまった。これにより足利義澄方は一大決戦を決意し、永正8年(1511年)7月には摂津に侵攻(芦屋河原の合戦)して決戦を挑んでくる。これに対して義興は細川高国と共に迎撃するも、摂津でも和泉でも敗北(深井城の合戦)して丹波に逃走した。しかし8月14日に足利義澄が急死するなどの好条件にも助けられて、8月23日に船岡山城の決戦で細川澄元軍を破り、京都を奪還したのである(船岡山合戦)。なお、この時、万一周防へ退却することも考えた義興は安芸の国人であった多賀谷武重に堺の堅守を命じた。多賀谷はこの役目を果たしたが、これが結果的に細川澄元の支援する四国からの援軍を防ぐ効果をもたらしたとも言える。
 この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年(1512年)3月26日にはその武功により、従三位に上階されて公卿に列せられた。これは将軍である足利義尹の意向を押し切って後柏原天皇自らの決断で決めた決定であったが、義尹は最終的な判断は天皇に任せる旨を述べたため同意せざるを得なかった。また、娘を足利義維(義澄の次男)に嫁がせ将軍家の親族ともなった。永正13年(1516年)には大内氏に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。これは細川高国の反対を押し切ったものであり、後の寧波の乱の原因となる。
 しかし、次第に将軍・足利義稙(義尹より改名)や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ。そこへ出雲の尼子経久が侵攻を開始してきた。義興ははじめ在京して尼子氏を討つため、永正14年(1517年)に石見守護となり、益田氏や吉川氏など石見在地の豪族と手を結んだ。しかし尼子氏の勢力拡大は抑え難かったため、永正15年(1518年)8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。
 帰国した義興がもっとも力を注いだのは、在京中に離反の姿勢を見せた安芸国の武田元繁・光和父子や友田興藤との戦いであった。だが、大永3年(1523年)に尼子経久が安芸進出を目論み、武田・友田とも通じたことから、尼子氏の大内領への侵攻が本格化していく。石見の波志浦は尼子軍に攻略され、安芸では大内家に従属していた毛利氏が尼子方に寝返った。尼子経久は毛利家当主・毛利幸松丸の後見役である毛利元就を利用して、大内氏の安芸経営の拠点である安芸西条の鏡山城を攻略(鏡山城の戦い)させるなどして、一時は大内氏を圧倒した。これに対して義興は安芸・石見に出兵して連年のように尼子氏と戦うが、思うように戦果が上がらなかった。しかし、大永4年(1524年)に安芸厳島にあった友田氏の拠点桜尾城を攻略し、武田氏の拠点佐東銀山城の攻防戦で尼子軍を撃破し、大永5年(1525年)には毛利氏を継いだ毛利元就が再び帰参したため、安芸における勢力をやや回復する。また、尼子氏も山陰地方東部を支配しかつ備後国の守護でもあった山名氏との戦いもあったため、石見における勢力も義興は奪い返した。さらに北九州の少弐資元らとも戦い、有利に戦況を進めている。やがて、備後国は北から進出した尼子経久と西から義興の命で大内軍を率いる陶興房に侵攻を受けて守護の山名誠豊の支配が衰え、同国は尼子氏と大内氏の争奪戦の舞台となった。興房は大永7年(1527年)に細沢山の戦いで尼子経久を破り、山名誠豊,山内直通らとともに尼子氏に対抗した。
 享禄元年(1528年)7月、安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還直後の12月20日に死去した。享年52。

 第15代当主・大内義興の嫡男。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。義隆の時代には領土的に全盛期を迎えるとともに大内文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣・陶晴賢の謀反(大寧寺の変)により、義隆と一族は自害した。
 義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。将軍・足利義稙から偏諱を受けて元服し、義隆と名乗っている。
 元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。この最中の大永3年(1523年)に寧波の乱が勃発しており、その後、大内氏は東シナ海の貿易を独占している。
 享禄元年(1528年)12月に父が死去したため、22歳で家督を相続する。大内家では常態化していた家督相続争いは、義隆の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされる。
 享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし、杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。
 天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。天文3年(1534年)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。しかし、義隆は一方で北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。
 この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて20万疋(2千貫)を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。天文5年(1536年)5月16日、大宰大弐に補任され、同日には昇殿が許されている。北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。
 天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。天文7年(1538年)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。天文8年(1539年)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。
 天文9年(1540年)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田興藤を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。
 後奈良天皇の即位料として朝廷へ献金した天文3年以降、ほぼ毎年のように「今年の御礼」と称して3000疋~4000疋程度献金している。近年の研究では、義隆の献金により朝儀が再興されたことが確認されており、大永3年以降中絶していた白馬節会・叙位・県召除目の再興の費用として、天文6年に10万疋を献上、翌年から三朝儀が再興されており、天文7年には元日節会も再興されている。また、天文10年には筑前国から節会用脚200疋が献上されている。このほか、義隆は再興されていない踏歌節会にもかかわっており、この点においては、義隆は将軍家に代わる立場であったと考察されている。
 天文10年11月、尼子経久が死去すると、天文11年(1542年)1月に義隆自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。従来、義隆はこの敗戦により寵愛していた養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになったため、武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになったとされてきた。しかしそれは現在では否定されている。月山富田城の戦いの翌年・天文12年(1543年)には姉婿の大友義鑑の次男・塩乙丸(後の大内義長)を猶子とし、大友氏との関係を改善している上、石見国では小笠原長雄を従属させ、備後国では神辺合戦や布野崩れに勝利し、大内氏の最大版図を築いている。また、相良氏は大内政弘の頃から大内氏に仕えており、敗戦とそれによる失意によって武任を重用したわけではない。
 天文16年(1547年)、兵部卿に任じられ、天竜寺の策彦周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。天文17年(1548年)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。
 同年8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たないなど礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。
 同年4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として大道寺を与えた。
 義隆は後奈良天皇や三条公頼,二条尹房といった朝廷儀礼に通じた公卿達とともに山口遷都計画を起こしたが、天文20年(1551年)8月末、周防国守護代・陶隆房らが「京都の上意」を受けたとして謀反の兵を挙げた。重臣の長門国守護代・内藤興盛もこれを黙認し、義隆を救援することはなかった。義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。義隆に従った一門の重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚ましかったが、所詮は多勢に無勢で、9月1日の10時頃に義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した。またこの時、周防国に滞在していた三条公頼や二条尹房をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。
 かつては、義隆は家中や領民の動向が見抜けず、公卿的生活を尚んだ中央指向の姿勢を貫くため、国情を無視して臨時課役を増したことが悲劇につながったとされていた。しかしそれは現在の研究では否定されており、6ヶ国の守護であったことに加え、石見銀山や遣明船の独占など、大内氏は資金源を多数確保していたことから、領民を無視して献金をしていたとは考えられていない。毛利元就は長年、大内義隆から少なからざる恩顧を受け、その後援もあって毛利氏の勢力を拡大しており、また、義隆の養女となった尾崎局が毛利隆元の正室となって大内氏と毛利氏の縁戚関係を結んでいたことから、毛利氏は累代に渡って義隆の年忌供養や墳墓の修補、義隆を祀る神社の造営などを行った。

大石義胤 大内晴持

 天文20年(1551年)9月、陶隆房(後の陶晴賢)が大内義隆を討った大寧寺の変の時、大内家で女官として仕えていた大原氏の娘が義隆の子を身籠もっており、追っ手から逃れて石見国真砂で出産したとされる。生まれた男子は大内志摩大輔義胤と名付けられたが、大内の「大」と出生場所の直見石の「石」を取って、大石姓を名乗って石見大石氏の初代となった[。
 後に石見益田氏重臣の城一正納の食客となり、1570年に福屋隆兼の娘を娶り長男・國之助を儲け、さらに次男と3男も生まれている。天正13年(1585年)2月26日没。
 國之助は播磨国の浅野家へ仕え500石を領した。なお、この子孫から大石内蔵助が誕生したという伝説も残る。 

 元服して一条恒持と称し、母方の叔父にあたる大内義隆にまだ男子がなかったため、3歳にしてその養嗣子となり、同時に足利義晴から偏諱を賜って大内晴持,新介を名乗った。容貌が美しく文武に秀で和歌や管弦・蹴鞠といった雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってか義隆に可愛がられたという。
 天文7年(1538年)2月25日に元服。天文9年(1540年)1月、父・義隆が防府口経由で安芸国に出陣するが晴持も同行する。天文10年(1541年)3月に安芸国に到着し、5月5日には厳島で流鏑馬を観覧する。11月、出雲国の尼子経久が没すると、天文11年(1542年)1月に晴持は義隆とともに出雲に出陣し、天文12年(1543年)3月に尼子晴久が籠城する月山富田城を包囲したが、三刀屋久扶,本城常光らの寝返りで大内軍は総崩れとなった(第一次月山富田城の戦い)。その結果、5月7日に晴持は義隆とともに出雲意宇郡出雲浦へと落ち延びる。ここで晴持と義隆は別々のルートで周防に退却することになった。尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島親弘,右田弥四郎たちが防ぎ戦死、その間に晴持は乗船した。しかし、水中から船に乗り込もうとした兵を船上の人が棹で払い落とそうとしたため、船はバランスを崩して転覆、晴持は溺死した。享年20だった。なお、晴持が溺死せずに揖屋西灘に漂着して吉儀惣右衛門に救助されたが、翌6月に17歳で病死したという伝承もある。
 晴持の死後、義隆は幕府に働きかけて将軍家の通字である「義」の字を賜り、義房として弔った。このため、後世の系図には義房とも記されている。
 また、その死を哀れんだ人が晴持を社に祀り、島根県松江市東出雲町揖屋に大内権現(大内神社)として残っている。

大内義長 尾崎局

 天文元年(1532年)、豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。幼名は塩乙丸。天文12年(1543年)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際、大内義隆の養嗣子・晴持が死去。継嗣を失った義隆は天文12年(1544年)、姉婿である義鑑の次男・塩乙丸を猶子とした。元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英と名乗る。
 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、天文14年(1545年)に義隆の実子・義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した。この時の義隆の実子誕生と晴英の縁組解消は九州諸大名にかなりの衝撃を与えたとされている。
 その後、義隆の重臣・陶隆房が義隆に対して謀反を企てると、隆房は天文20年(1551年)5月に晴英を大内氏の新当主に迎えることを望んだ。晴英の兄・大友義鎮は、当初から隆房が晴英を傀儡として擁立するだけで、自分の政権が揺ぎないものとなれば廃位されるに違いないと疑い反対したが、晴英自身が大内氏の当主となることを望み「この要請を断り中傷を受けることの方が悔しいので、命は惜しくない」と主張したため、義鎮もこれを認めた。同年9月の謀反(大寧寺の変)で義隆・義尊父子が殺され、大内領内における混乱がひとまず収束した後の天文21年(1552年)3月3日、山口に入って大内家の新当主として擁立された。この時、大内氏の祖先とされる百済の琳聖太子が上陸したと伝えられる周防国の多々良浜に上陸して山口に向かっており、大内氏の故事を踏襲して当主としての正統性を示そうとしたと考えられている。また、隆房も晴英を君主として敬うことを内外に表明するため、晴英から偏諱を拝領し、晴賢と改名した。この時の政治に関しては文書形式も奉書・直書も義隆時代と同様であり、晴英の命令を晴賢が奉じる形になっていた。ただし、偏諱を受ける場合はあくまで当主の諱の下字を受けるものであるが、晴賢の場合は上字を受けており、晴英と晴賢の主従関係が通常とは全く異なることを意味している。
 天文22年(1553年)春、室町幕府13代将軍・足利義藤(のちの義輝)から偏諱を受けて義長と改名し、同年閏1月27日、従五位下左京大夫に叙任された。これは歴代当主にならって大内家当主であることを強調するためであった。しかし当主になったとはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。天文23年(1554年)3月には、三本松城主の吉見氏討伐のため総大将として出陣するが、全軍の指揮は事実上晴賢が執っている(三本松城の戦い)。また、弘治2年(1556年)には、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内氏当主としての承認を拒まれている。
 弘治元年(1555年)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内義興の外孫とはいえ外様出身で、一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。義長は兄・義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無いことを元就に約していたという。
 こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかし、すぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した。享年26。
 義長の死により、西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。
 義長没後の弘治3年(1557年)5月14日、毛利元就は大友義鎮に対して、大内家復興に関する所存を求めたが、義鎮は大内家の断絶を勧めて復興を拒絶している。永禄2年(1559年)、将軍・足利義輝が義鎮に対して、九州探題の職と共に大内氏の家督継承を認める御内書を発給している。

 父は大内氏の重臣で長門国守護代である内藤興盛の3女。大永7年(1527年)または享禄元年(1529年)生まれ。大内義隆の養女として安芸国の戦国大名・毛利隆元の正室となり、毛利輝元,毛利徳鶴丸,津和野局(吉見広頼室)を産む。実名はあやや(あやゝ)。別名は小侍従とも。「尾崎局」という名前は、夫・隆元と共に吉田郡山城の尾崎丸(尾崎郭)に住んでいたことに由来する。
 天文18年(1549年)、当時は大内氏の有力被官で安芸国の国人領主であった毛利元就が周防国山口の大内義隆を訪問した際に、かつて人質として山口に滞在していた元就の嫡男・毛利隆元との縁組が決まり、大内義隆の養女となる形で隆元の正室として嫁した。この時期の元就の書状からは、尾崎局がただ隆元の正室というだけでなく、「御屋形様」(大内義隆)から賜ったものであるとの認識を元就が持っており、実質的に大内氏との意思疎通の架け橋となり得る立場であったことから丁重に扱われ、かつ信頼されていたことが窺える。天文19年(1550年)7月、毛利家の重臣である井上一族を誅罰した際に、毛利元就は「井上衆罪状書」を尾崎局に出している。尾崎局の父である内藤興盛を通じて大内義隆の了承を求める必要があったためである。
 天文22年(1553年)1月22日、吉田郡山城内の尾崎丸において長男の幸鶴丸(後の毛利輝元)を出産する。輝元以外にも年不詳ながら隆元との間に次男の徳鶴丸(早世)と吉見広頼の正室となる津和野局が生まれている。なお、津和野局は永禄5年(1562年)以前に吉見広頼と婚姻したと考えられることや、津和野局の娘・矢野局(河野通直室)の推測される生年から、輝元の姉と考えられる。
 弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけての防長経略の際に、尾崎局の甥で内藤氏当主である内藤隆世が大内義長を奉じて毛利氏に敵対した上、大内氏の滅亡と共に自害したが、同年12月20日には毛利隆元によって尾崎局の弟である内藤隆春が長門国の守護役(守護代)に任じられている。このことに関して、内藤隆春が元亀3年(1572年)10月12日に記した毛利氏への忠誠を誓う起請文の中で「大方様御厚恩」と述べており、また、大内氏滅亡以前に隆元が元就に対して内藤隆春の処遇について申し入れていることが窺える史料があることから、内藤隆春の起用には隆元・尾崎局夫妻の意向が強く影響していたと考えられている。
 また、輝元誕生の翌年の防芸引分に始まり、厳島の戦い,防長経略,石見国への進出,尼子氏攻め等で断続的に出陣を繰り返したため吉田郡山城を留守にしがちの隆元に代わって、尾崎局が輝元へ異見する立場にあった。しかし、輝元は尾崎局の異見に従わないことが多かったという。
 永禄6年(1563年)8月4日に隆元が急死すると、より一層輝元の養育に心血を注ぎ、母である自分が責任をもって輝元を養育するという強い決意が窺われる。また、毛利元就は尾崎局を分国経営に参与させ、自身のことは「上様」「御隠居」といった通常の呼称ではなく、「ちいさま(じいさま)」と呼ばせていた。
 元亀2年(1571年)6月14日に元就が没した時に、輝元の叔父の吉川元春に輝元の後見を依頼した書状が現存しており、「頼れるのは叔父の元春・隆景だけ。親ともなり力になってほしい」と切々と訴えている。また、義母の中の丸に家庭内の相談をする一方で、五龍局と元春・隆景ら姉弟の仲を心配し、これらの和に努めている。
 元就の死の4ヶ月後の10月6日、吉見広頼に嫁いだ娘・津和野局が死去すると尾崎局は大いに傷心し、10月16日に吉川元春が吉見広頼の父・吉見正頼に宛てた書状において、尾崎局の茫然自失の嘆き様が記されている。舅に続いて娘にも先立たれたことにより気力を失ったたためか体調を崩すようになり、元亀3年(1572年)9月30日に死去。享年44または46。墓所は広島県安芸高田市の洞春寺跡。当初は菩提寺である妙寿寺が吉田郡山城内に建てられ、墓も寺内にあったが、後に毛利元就ら毛利一族と共に毛利氏一族墓所に移されている。 

氷上高弘 氷上輝弘

 大内政弘の次男で、政弘の嫡男・大内義興とは異母兄弟関係である。僧侶時代の名前は大護院尊光。別名として、隆弘の表記も伝わる。
 山口の氷上山興隆寺に入って別当となり、出家して大護院尊光と称した。延徳2年(1490年)、尊光は政弘によって朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に任じられて、以後、国衙領の租税は大内氏を経由して東大寺に送付されることになったが、実際には租税が東大寺へ送られる事は無く、大内氏による全国衙領の押領を意味することになった。
 明応8年(1499年)、大内家重臣の杉武明は、豊後の大名・大友親治と組んで謀反を企てた。この謀反では大内氏を掌握すべく、当主の大内義興を追放して、その兄弟の大護院尊光(高弘)を還俗させて、新たな当主としようという計画であった。この企てを知った義興は先手を打ち、杉武明を誅殺した。大護院尊光は命からがら豊後の大友氏を頼って逃れた。
 杉武明の主導した謀反であったが、大護院尊光もその中心的役割を果たしたと見られ、尊光が親しくしていた因島村上氏の当主・村上備中守(村上吉直)宛ての書状があり、その内容は「大友氏の手勢が豊前国の大内領に侵攻して、近々戦になるので、村上水軍の助力を願いたい」という内容であった。
 豊後の大友氏のもとへの亡命後、還俗した尊光は、当時の将軍・足利義高(のちの義澄)より偏諱を与えられて、大内高弘と名乗り大友氏の客将となった。その後、豊後で嫡男となる大内輝弘が生まれ、大内氏当主奪取の野望はその輝弘に受け継がれることとなり、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱へと繋がった。 

 通称は太郎左衛門尉。大内氏の第18代の当主とする場合もあるが、輝弘に実権は無かったとみられる。
 大内氏の一族だが、父の高弘が謀反を起こして大友氏の下へ亡命していたため、豊後国で生まれた。大友氏のもとで寄食していたが、貧しい暮らしをし、幼い頃は知るものも少なかった。
 天文23年(1554年)2月から永禄8年(1565年)5月の間、大友義鎮の推挙と資金援助により将軍・足利義輝から偏諱を賜い、輝弘と名乗る。
 永禄12年(1569年)、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は客将となっていた輝弘に兵を与え、同年10月11日に若林鎮興らの大友水軍を付けて密かに海上から周防国秋穂に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが水上戦では市川経好の軍を撃破した。将軍にも認められた大内氏の一族だというので輝弘が周防国に入ると毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし、高嶺城を守る経好夫人の市川局が少ない城兵を指揮して徹底抗戦した。輝弘は守護所山口の大内氏別邸築山館には入ることはできたものの、山間の城までは完全に占領することができなかった。
 輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して吉川元春と小早川隆景率いる精鋭を周防国に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するが追撃厳しく、10月25日に子の武弘らと富海の茶臼山で自害した(大内輝弘の乱)。輝弘の山口侵入によって毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。

柿並弘慶 大内満弘

 長禄4年(1461年)、大内教幸の子として生まれる。応仁の乱の最中の文明2年(1470年)2月、将軍・足利義政は大内教幸(道頓)を大内氏当主と認め、本来の当主である大内政弘を討つよう命じた。法体の教幸に代わって、嫡男の大内加嘉丸が守護職に補任されたが、教幸は同年12月に挙兵した陶弘護に周防国玖珂郡で敗北。敗れた教幸は安芸国で仁保盛安と合流して石見国に転戦、さらに長門国阿武郡の賀年城を拠点に反攻しようとしたが、翌文明3年(1471年)12月に再び敗れて豊前国に落ち延びた(大内道頓の乱)。
 この時期の弘慶(当時は千代丸)の動向は不明であるが、後に長門国阿武郡川上村の柿並谷に居住して、苗字を「柿並」に改めた。また、「弘慶」という諱も、大内政弘から「弘」の偏諱を与えられたものとされる。
 その後、弘慶は大内政弘・義興の2代に仕え、大永7年(1527年)6月28日に死去。享年67。子の隆幸が後を継いだ。 

 室町幕府3代将軍・足利義満より偏諱の授与を受け満弘と名乗る。他の兄弟で義満の偏諱を受けた人間はおらず、2代将軍・足利義詮の偏諱を受けた兄・義弘に次ぐ地位にあったと推測される。兄の義弘を補佐して、その勢力拡大を支えた一門衆を代表する武将であり、兄の代理として弟の盛見を従えて戦地に赴くことも多かった。信仰心も篤く、宇佐神宮の信仰の山である御許山に鐘を奉納する等の活動も見える。
 父の弘世が長門を支配下に置き、九州と接するようになると、建徳2年/応安4年(1371年)頃から大内氏は九州の騒乱に巻き込まれるようになった。そんな中、兄の義弘と不和を生じ、天授6年/康暦2年(1380年)には安芸国内で兄の義弘と合戦に及んだが、後に帰順する。内戦の最中に父・弘世が没し、その直後に和議が成立していることから、弘世が義弘を排して満弘を後継にしようとしたために起きた内乱とする説もある。
 内乱終結後、義弘は兄弟ら一族を守護となった分国の国主(一門守護)に任じていたが、満弘は石見国の一門守護に任じられた。その後、元中2年/至徳2年(1385年)に石見国を没収されるが、遅くても応永5年(1398年)には豊前国の一門守護となっている。石見時代には義弘の家臣が多くの国務を行っていたのに対し、豊前時代には義弘の施行状を受けて満弘が遵行状を発給して守護代に命じて相論解決を図らせるなどの守護としての業務を行っており、前者は形式的な地位であったが、後者は実質的な守護としての権限を有し、義弘から北九州方面の総大将に任じられていた可能性もある。
 応永3年(1397年)、九州探題・渋川満頼の指示もあって北九州に出陣。南朝方の少弐貞頼や菊池武朝と戦うが、同年12月に敗北、討死した。満弘の死という犠牲にもかかわらず将軍・義満は大内氏への恩賞や加増を行わず、この際の不信感が義弘による応永の乱に繋がることになる。

大内弘茂 冷泉興豊

 応永6年(1399年)、応永の乱で長兄・義弘に従って堺に籠城したが、兄が室町幕府3代将軍・足利義満率いる幕府軍の火攻めにあって戦死したため、その軍門に降った。義満は戦後の大内氏に対する処罰として、豊前・石見・和泉・紀伊を没収すると同時に、弘茂が義満に臣従することを条件として家督相続と周防・長門2ヶ国の所領のみ安堵した。なお、新介の名乗りは大内氏の後継者の名乗りで、義弘が在世中から名乗っていた可能性もあるため、弘茂が幕府が選定した当主なのか、元々、義弘の後継者的な立場にあったのかは不明な部分がある。
 ところが、本国の留守を守っていた弘茂の兄・盛見が所領没収に従わずに義満に反抗したため、義満は弘茂に盛見の討伐を命じる。弘茂は義満や安芸・石見の諸大名から支援を受けて盛見と戦い、一時は盛見を豊後に放逐して守護の地位の確立を図るが、周防の屋代島での反乱軍討伐の隙を突いた盛見が再起、応永8年(1401年)12月に反攻してきた盛見の軍勢と長府の四王司山城で戦うが敗れ、同じく長府の佐加利山城(下山城)において討ち取られた。
 弟の道通が反盛見派に擁立されたが、彼も盛見に討ち取られ、周辺勢力を降伏させた盛見の前に幕府もやむを得ず盛見を次の当主と認め、家督と周防・長門守護職を安堵した。大内氏は応永の乱で衰退したが、盛見の代で勢力を盛り返すことになる。 

 興豊の先祖である大内弘正の子・大内盛清(藤丸)は、加賀国中典荘を賜っており、加賀国にいた室町幕府奉公衆系の大内氏の一員であった。一方で、大内氏の家臣として周防国玖珂郡由宇郷,都濃郡河内郷,同郡末武村,同郡豊井郷,熊毛郡新屋河内,同郡宇佐木保,豊前国宇佐郡千歳丸を知行していたことも確認できる。
 興豊が姓を冷泉に改めた理由について、「母が冷泉小納言の娘であった」という説や、「庶流にもかかわらず大内を名乗る者が増えたため母の姓を号した」という説、「大内弘成が京中の冷泉の地を有していたから」という説がある。



冷泉隆豊 冷泉元豊

 早くから周防国の戦国大名・大内義興に仕え、その死後は子の義隆に仕えた。始め義隆から「隆」の字の授与を受けて隆祐、のちに父の一字を取って隆豊と名乗った。大内氏の水軍を率いる立場にあり、大永7年(1527年)には安芸国に進出して仁保島,国府城で戦う。
 天文年間には大内義隆と伊勢貞孝を通じて足利義晴の御供衆となっている。天文6年(1537年)、従五位下叙任及び検非違使如元。天文10年(1541年)には安芸武田氏の居城であった安芸佐東銀山城主となる。天文11年(1542年)、義隆に従って尼子氏の出雲国に遠征、月山富田城を包囲するも国人衆らの裏切りにより、全軍撤退した(月山富田城の戦い)。隆豊は、義隆の養子・晴持が乗る船を手配したが、晴持は撤退中に溺死している。翌年は伊予国に進出。安芸国人の白井房胤(賢胤の父)らと共に、天文15年(1546年)2月に平智島を、翌16年(1547年)5月には中途島を攻めた。
 隆房謀反の噂が山口の街に広がると、陶隆房(のちの晴賢)の誅殺を義隆に進言するも容れられることはなかった。天文20年(1551年)、陶隆房がついに決起。隆房は周到な根回しを行っており、文治派以外では、義隆に味方する者はほとんどなかった。義隆は山口を脱出し、石見国の吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず、長門国の大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。その最期は壮絶なものだったと伝えられ、攻め寄せる敵兵が恐れを成すまで戦い、火をかけた経蔵に入って辞世を詠んだ後に十文字に切腹、内臓を天井に投げつけて果てたと伝わる武勇に秀でていただけでなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われており、その忠臣ぶりは、高く評価された。隆豊が籠もった経蔵に続く坂道は冷泉坂と呼ばれている。
 山口県岩国市周東にある冷泉屋敷(冷泉氏館)跡が隆豊らの居館と考えられている。 

 天文7年(1538年)、大内氏家臣である冷泉隆豊の子として誕生。天文20年(1551年)9月1日、父・隆豊が大寧寺の変において大内義隆に最期まで付き従って戦死した。元豊はまだ年少であったため、弟の四郎(のちの元満)と共に叔父である吉安豊英に連れられて安芸国の国人であった平賀氏の前当主・平賀弘保の許へと逃亡した。その後、弘治元年(1555年)から始まる毛利元就の防長経略の際に毛利氏に仕え始め、元服の際には元就より「元」の偏諱を受けて元豊と名乗った。
 防長経略の後、毛利氏は北九州へと進出して豊前国北部を占領。元豊は関門海峡を臨む門司城の城代を任されたが、永禄5年(1562年)10月13日に桂元親,赤川元吉と共に豊前国大里・柳浦の戦いにおいて立花道雪率いる大友氏と交戦し戦死した(門司城の戦い)。享年25。元豊には男子がいなかったため、家督は弟の元満が継ぎ、毛利氏が門司城を奪回した後に門司城代となった。

冷泉元満 吉安満定

 天文20年(1551年)9月1日、大寧寺の変において父・隆豊が大内義隆に最期まで付き従い、義隆を介錯した後に戦死した。周防国玖珂郡祖生の冷泉氏の屋敷から高照寺山南麓の通津峠にかけての一帯では冷泉氏と陶氏の合戦が行われており、幼少であった元満と兄の五郎(後の冷泉元豊)は、父・隆豊の弟である吉安豊英に連れられて母方の祖父で安芸国の国人・平賀氏の前当主である平賀弘保の許へと逃亡した。
 その後、弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけて行われた毛利元就の防長経略の際に、兄・元豊と共に毛利氏に仕えた。冷泉氏は代々水軍の将であったため、元満も毛利水軍の将として大友氏や織田氏との戦いで活躍した。
 兄・元豊が、永禄5年(1562年)10月13日に大友氏の攻撃により豊前国柳浦において戦死すると、元豊には男子がいなかったため、弟である元満が冷泉氏の家督と門司城代を継いだ。また、元満は九州探題家・渋川氏の子孫である渋川義満の娘を正室として迎えている。一説ではこれは婿養子として渋川氏を継承するために行ったともいわれており、元満の「満」の字も義父・義満に由来するものと推測される(ただし最終的には冷泉氏を継いでいる)。一方、「元」の字は毛利輝元より偏諱を与えられたものとされている。
 天正17年(1589年)、毛利輝元の妾であった横田局を妻とする。この時、輝元は元満にではなく、横田局に長門国厚狭郡で100石を与えている。
 天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、毛利輝元に従って朝鮮半島へ出兵した。帰国後の文禄3年(1594年)には出雲国仁多郡の亀嵩城主となる。
 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役でも毛利秀元に従って朝鮮半島へ渡った。しかし、同年12月22日、蔚山城の戦いにおいて明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000による急襲を受け、配下の将兵137人や同じく毛利氏家臣である阿曽沼元秀,都野家頼と共に戦死。享年58。元満や冷泉家臣の遺体は、元満の従兄弟で被官の吉安満定が船に収容して日本に送った。吉安満定は再度蔚山城に入城し、翌12月23日の攻防戦で伊賀崎満重や白松満明と共に戦死した。

 従兄弟の冷泉元豊・元満兄弟に仕え、各地に従軍した。慶長2年(1597年)から始まる慶長の役で冷泉元満が毛利秀元に従って朝鮮半島へ渡ると、満定も元満に従った。しかし、同年12月22日、蔚山城の戦いにおいて明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000による急襲により、元満は配下の将兵や同じく毛利氏家臣である阿曽沼元秀,都野家頼と共に戦死した。
 この時、満定は他用のために元満とは離れていたが、元満が戦死したことを知ると直ちに戻って敵軍を追い払い、元満や冷泉家臣の遺体を船に収容して日本に送還した。その後、満定は蔚山城に入城し、翌12月23日の攻防戦において冷泉氏家臣である伊賀崎満重や白松満明と共に戦死した。
 慶長3年(1598年)1月7日、安国寺恵瓊と福原広俊は毛利輝元の側近である榎本元吉に書状を送って、冷泉元満の戦死と元満の子・元珍の家督相続について述べると共に、満定の働きを比類無き仕合で前代未聞のことと述べ、特別に褒美を取らせるよう述べている。さらに同年2月25日には輝元が元珍に対する書状で元珍の家督相続を認めると共に、満定の働きを比類無き覚悟と称賛し、子を取り立てて養育することが肝要であると述べている。これを受けて満定の嫡男・定俊は取り立てられて毛利氏家臣となった。