百済系渡来氏族

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山口任世 山口教継
 室町時代の守護大名大内義弘の次男・大内持盛を祖とし、任世の代に大内氏の本拠地・周防国山口から尾張国愛知郡に移り、その子・盛幸の代から山口氏と称した。

 桜中村城主・山口教房の子として誕生。尾張笠寺付近の土豪であったとみられ、永正6年12月20日(1510年1月29日)付けの文書で笠寺の笠覆寺に貢納していたことが確認できる。織田信秀に従い、小豆坂の戦いでは当時、駿河国・遠江国・三河国を勢力下に収める大名であった今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げる。しかし、年次は不明ながら、信秀と義元を仲介して両者を一時的に和睦に導いてもいる。
 信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていたが、信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子・教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている(赤塚の戦い)。
 教継は織田方の大高城,沓掛城を調略を用い奪取したが、その後、駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともいわれている。 

山口重勝 山口重政

 尾張国寺部城主、後に尾張星崎城主となる。天文16年(1547年)、山口重俊の子として誕生。織田信雄に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加した。その後は豊臣秀吉に仕えた。
 天正14年(1586年)、養子・重政に家督を譲って隠居した。しかし間もなく豊臣秀次の家臣となり、文禄3年(1594年)の伏見城普請工事にも参加した。文禄4年(1595年)7月28日、秀次事件で連座により秀吉から自害を命じられた。享年49。
 戦国時代に向かない凡庸な人物だったとされている。もとの星崎城主・岡田重孝が信雄に殺され、その弟・善同が信雄に叛旗を翻して籠城した際、重勝は星崎城にあった夫人や家族を置き去りにして一人で城から逃走し、信雄に降伏したという逸話がある。このため、重勝は散々に侮辱されたが、養子の重政が功を挙げたため、体面を保たれ、星崎城主となったのである。娘のお辰の方は秀次の側室として嫁いで百丸を生んだが、父と共に連座で処刑された。 

 永禄7年(1564年)、山口盛政の長男として尾張にて誕生。尾張寺部城主・山口重勝の養子となった。当初は織田信雄の家臣・佐久間正勝に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の一員として、尾張下市場城,前田城,蟹江城が次々に落とされる中大野城を死守して豊臣秀吉方の滝川一益と戦った(蟹江城合戦)。天正14年(1586年)、家督を相続した。
 天正18年(1590年)、主君・織田信雄が豊臣秀吉の駿河国転封を拒否して改易となったため、信雄に従って下野国にまで従う。その後、徳川秀忠の家臣となり、5000石を賜った。  慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠軍に従って真田昌幸が守る信濃国上田城攻撃に参加する。その戦功により戦後、常陸牛久1万石の大名となり、慶長11年に大番頭に任じられた。しかし、慶長18年(1613年)に大久保忠隣の養女と嫡男・重信が勝手に縁組したことを咎められて改易された上、武蔵国の龍穏寺に蟄居させられた。蟄居後も重政の山口家再興にかける執念は凄まじく、翌年に大坂の陣が始まると、徳川家康に対して「自らが豊臣氏に与した後、豊臣秀頼を暗殺するので、その代償として御家再興を許してほしい」とまで進言している。しかし、これは家康によって拒絶された。慶長20年(1615年)の夏の陣では、井伊直孝軍に属して若江の戦いで奮戦するが、前に出過ぎたため長男・重信は木村重成に討ち取られ、弟・重克も戦死した。
 後年、それらの戦功により、寛永5年(1628年)、常陸牛久で1万5000石の大名に返り咲いた上、奏者番に任じられた。このとき木村重成の子孫は牛久藩に召抱えられたとする伝説がある。寛永12年(1635年)9月19日に死去した。享年72。子孫は牛久藩として続く他、水戸藩の家臣として続く者もあった。
 なお、牛久山口氏は「弘」を通字として使うが、若江の戦いにおいて井伊勢との戦いで戦死した木村重成の妹婿・山口弘定と、関ヶ原の戦いの際に加賀国大聖寺城で戦死したその兄の右京亮山口修弘も「弘」を名前に含んでいる。彼らが同族であった場合、木村重成とは間接的に姻戚であったことになる。
 江戸幕府における百人組の一つ・根来組の鉄砲師範には牛久藩主・山口重政が任ぜられていると伝わる。 

山口重信

 尾張国清洲で誕生。慶長2年(1597年)に徳川秀忠に謁見する。慶長14年(1609年)12月27日、従五位下・伊豆守に叙任。その後、大久保忠隣の養女を正室に迎えたが、その縁談が正式な幕府の許可を受けていないものとされたため、慶長18年(1613年)1月6日に父・重政は改易され、父と共に武蔵国入間郡越生庄の龍穏寺に蟄居させられた。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に伴い戦功を立てようと父と共に大坂に向かうが、箱根の関所で止められたため一旦龍穏寺に帰った。そして、関所の通過が容易な商人に扮装し、東山道経由で大坂に赴くが、既に和議が成立していたため再び龍穏寺に帰った。
 そして、翌年の大坂夏の陣では井伊直孝の軍に属して奮戦するが、八尾・若江の戦いで木村重成に討ち取られて戦死。享年26。