中国(秦王朝)渡来系

SM02:島津忠宗  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 SM03:島津氏久


   

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島津氏久 島津元久

 嘉暦3年(1328年)、薩摩国山門院の木牟礼城にて誕生。足利尊氏より偏諱を賜い氏久と称す。父貞久,兄師久らと共に足利尊氏ら北朝に属し南朝と戦い、観応の擾乱の影響で起きた足利直冬と一色範氏の抗争では範氏に従軍、正平6年/観応2年(1351年)に直冬軍と戦ったが負傷している。正平11年/延文元年(1356年)に南朝に転向、三条泰季と共に直冬方の畠山直顕の岩屋城を攻撃、畠山直顕と大隅を巡って争った。その後北朝に帰順し、正平18年/貞治2年(1363年)に父から大隅守護職を譲られている。
 永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府が九州の南朝勢力制圧のために派遣した九州探題・今川了俊が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘すると、大友親世と共に8月に着陣。了俊に着陣を拒んだ少弐冬資の説得を依頼されて冬資を招くが、了俊が冬資を謀殺する(水島の変)と氏久は面目をつぶされたとして帰国する。了俊はただちに氏久へ使いを出し、筑後守護職に推挙する旨を述べたが、氏久がそれを拒絶したために決裂、了俊の南九州制圧に抵抗し、翌永和2年/天授2年(1376年)に大隅守護職を解任された。
 同年6月、了俊の5男・満範が南九州の征討に向かい、肥後の相良前頼や大隅,日向,薩摩の国人衆を招集しながら日向へ向かい、従弟の北郷義久が籠城した都之城を翌永和3年/天授3年(1377年)に包囲した。氏久はこれに対して9月に甥の総州家7代・島津伊久と一緒に了俊に降伏、了俊,満範父子に属する南九州国人一揆の調略を行い、天授4年/永和4年(1378年)3月に了俊と決別、満範が国人一揆と共に都之城を再包囲すると志布志城から後詰に向かい、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月1日と3月3日の激戦の末に勝利(蓑原の合戦)、大隅姫木城も落として満範を都之城から追い落とした。
 弘和元年/永徳元年(1381年)10月に再度北朝へ復帰したが、国人一揆の動揺につけこんで一揆勢の所領を侵略、相良前頼の南朝への寝返りもあって国人一揆を崩壊させた。至徳4年/元中4年(1387年)、60歳で死去。氏久は大隅守護に復帰することはなかったが、嫡男の元久が大隅守護に復帰した。
 馬術の達人で馬術書『在轡集』を書いたと言われる。居城を東福寺城から清水城に移し、以後は島津氏の居城となった。墓は鹿児島県志布志市の即心院跡、鹿児島県鹿児島市の福昌寺跡。

 至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主・島津伊久,守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡(硫黄島を含む)を譲られた。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題・今川了俊の4男・尾崎貞兼に北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も両島津家は協力して了俊に協力していた国人の入来院氏ら渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家,奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題・渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた。
 しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久3男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し、更に薩摩に清水城を造ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される)。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされ、後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している。
 応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家,総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈に逃亡するなどしたが、伊集院頼久,伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する。また、樺山氏や新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津,泊津を奪った。応永16年(1409年)9月10日には薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。なお、この際、日向にいた久豊と会談して和睦している。
 その後も領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、明,李氏朝鮮,琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺,鹿児島神社の社殿建立も行った。
 応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。 

仲翁守邦 島津久豊

 曹洞宗。薩摩妙円寺の石屋真梁のもとで出家。美濃補陀寺で学び、薩摩に帰り真梁の法をつぐ。島津久豊の帰依をうけ,薩摩常珠寺をひらく。のち能登総持寺住持となり,紫衣を許された。文安2年6月6日死去。67歳。

 

 応永8年(1401年)頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。その後、応永10年(1403年)に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永17年(1410年)に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた。
 応永18年(1411年)8月に兄が死去、甥の仲翁守邦は出家していたため、兄から後継者に決められていた甥の伊集院煕久が継承することになった。だが、久豊は閏10月になって鹿児島に乗り込んで元久の位牌を奪取した上で煕久を追放し8代当主となった。久豊の強引なやり方により国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになり、伊集院頼久(久氏の子で煕久の父)と衝突した。久豊には穆佐城に近く元久時代に権力を振るった伊集院氏を嫌う大隅・日向の一門・家臣が、頼久には薩摩の一門・家臣及び大隅の肝付兼元が支持し、更に総州家の島津久世もが頼久を支援した。さらに応永19年(1412年)には義兄である伊東祐立が離反して久豊の居城であった日向の穆佐城を奪って妹である久豊室と2人の息子(忠国,友久)を捕らえようとしたが、落城寸前に樺山教宗,北郷知久が久豊の妻子を救出した。
 一時苦戦したが、応永23年(1416年)に和睦を名目に鹿児島に呼び出した久世を討ち取る。しかし、久世を騙し討ちにしたことは久豊の心にも重くのしかかり、この年に出家して存忠と称している。翌応永24年(1417年)に和睦が成立。伊集院頼久とその盟友である伊作久義・勝久父子は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。また、応永25年(1418年)には市来氏と入来院氏も久豊に従い、戦いの焦点は久豊の奥州家と島津守久(久世の父),忠朝兄弟が依然として抵抗を続ける総州家との争いに絞られていく。
 応永28年(1421年)に島津忠朝を降伏させて総州家に伝わる島津宗家の文書を接収するとともに総州家の拠点である薩摩郡を平定、また伊作氏と久豊派国人との所領争いを仲介して薩摩半島の安定化にも成功した。翌応永29年(1422年)に島津守久及び久林(久世の嫡男)を肥後に追放して総州家,奥州家の両島津氏の抗争も終結させた。室町幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねたことを認め守護職を与えた。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。
 応永30年(1423年)、伊東氏に報復するために日向への出兵を行い、大淀川以南を奪還して一旦は薩摩へ帰国する。だが、この年に病を発した久豊は2年後の応永32年(1425年)に鹿児島で病没した。享年51。家督は嫡男の忠国が継いだ。また後に、次男の用久が薩州家、3男の季久が豊州家、4男の有久が羽州家(後に大島氏)、5男の豊久が伯州家(後に義岡氏・志和地氏)をそれぞれ興した。

島津忠国 島津友久

 応永10年(1403年)に日向国穆佐院高城(穆佐城)にて誕生、応永32年(1425年)、父が没したため家督を継ぐ。
 応永34年(1427年)に日向の伊東祐立と和睦し、永享2年(1430年)に総州家の島津久林を討ち取って島津氏を統一した。通説では、永享4年(1432年)に伊東祐立との和睦が崩壊して再度日向に侵攻するも、領国では渋谷氏,伊集院氏ら国衆を中心とした国一揆が発生した。この国一揆は領国支配が危機に瀕するほどで、弟の持久(用久)を守護代に任じてその処理をさせたというが。そのため持久が力を持ちすぎたことにより兄弟間の争いが始まった、とされる。
 ところが、近年になってこの時に忠国が隠居したとする史料の存在や、持久が発給した文書が守護の書式である書下方式を用いる一方、守護代が発給する文書である遵行状や打渡状が存在しない事実を指摘し、国一揆鎮圧に失敗した忠国は隠居して持久に家督(守護)を譲ったものの、一時的なものと捉えて家督に復帰して実子に家督を譲ろうとした忠国とそうは考えない持久の間で内紛が発生したとする新名一仁の説もある。
 永享7年(1435年)頃より、樺山孝久,北郷知久,新納忠臣,末広忠勝,高木殖家らが重臣・国衆を集めて日向国末吉にいた忠国を奉じて一揆を結成し、これに対して伊作教久,山田忠尚,種子島幡時,伊集院継久ら持久を支持する重臣・国衆たちもこれに対抗する一揆を結成した。もっとも、両者は最初から軍事衝突を意図していたものではなく、特に忠国派は忠国の嫡男とした次男・安房(後の立久)を後継者とすることを持久が認めるように交渉していた。
 その後、忠国と持久の争いは両者の間で一旦は妥協をみて持久が島津氏の当主として文書の発給を行っているが、6代将軍・足利義教の弟・大覚寺義昭が義教に逆らい、出奔して島津氏に匿われていたのを幕府に注進して幕命により嘉吉元年(1441年)3月13日自害させた件を機に、幕府が島津家中の争いに介入し、同年12月12日に管領・畠山持国が忠国に対して持久討伐を命じる御教書を下したことから、忠国は再び挙兵する。ところが、その矢先、忠国が高木殖家を持久に通じたとして討伐をしようとしたところ、家中最大の実力者にして殖家の親友であった樺山孝久が叛旗を翻して殖家救出に乗り出したために持久派の総攻撃を受けることになった。このため、幕府は嘉吉2年10月25日に改めて持久治罰の御教書を発給している。だが、新納忠臣らの奔走で肝付兼忠を寝返らせ、樺山孝久の復帰に成功した忠国は文安5年(1448年)に持久を薩摩国谷山に追い詰める。だが、かつての国一揆の中心であった渋谷氏一族が菊池氏,相良氏の支援を受けて再び挙兵の動きを見せると、これを危惧した新納忠臣らの仲介で両者は和睦を結び、家督は再び忠国に戻された。和解後、持久に分家の薩州家を立てさせた。
 宝徳2年(1450年)、かつて伊集院氏領であった石谷が忠国から町田高久(石谷高久とも)に与えられたことにより高久を一族の有力者であった伊集院煕久が一宇治城にて殺害した事件を発端として煕久を肥後へ追放し居城の一宇治城を没収、改修し国内支配を安定させた。また、渋谷氏や相良氏、その他反抗的な国衆との戦いで獲得した出水,阿久根などを持久に譲渡することで、兄弟関係の回復も実現した。ところが、次第に家中に対して強権的な態度で臨むようになり、かつて忠国を支持する一揆を起こした重臣・国衆とも対立を強めることになる。そのため、長禄2年(1458年)に再び忠国排斥の動きが高まり、長禄3年(1459年)10月頃に嫡男の立久は新納忠治,樺山長久とともに事実上のクーデターを起こし、忠国を薩摩南部の加世田に追放して家督を奪取し、忠国は蟄居を余儀なくされた。
 文明2年(1470年)に没した。享年68。没後、立久が後を継ぎ3ヶ国の守護となった。内紛の過程で家督継承から排除された長男・友久が相州家、3男・久逸が伊作氏(伊作教久の養子となる)、4男・勝久が常州家、5男・忠経が予州家、7男・忠弘が摂州家の、それぞれ祖となっている。このうち友久の孫(実際には久逸の孫)にあたる島津忠良が相州家と伊作氏との家督を兼ね、やがてその系統が近世島津氏へと成長していくことになる。
 墓は鹿児島県鹿児島市の福昌寺、鹿児島県南さつま市の坊津にある。 

 薩摩国島津氏の分家・相州家初代当主。島津宗家9代当主・島津忠国の庶長子であったため本家を継ぐことができず、田布施を与えられて相模守を称した。「相州家」の名は友久の受領名に由来している。なお、忠国と弟の島津持久との内紛にて、友久の母方の伯父(もしくは叔父)伊作教久は持久方、宗家10代当主となった異母弟の立久の外祖父・新納忠臣は忠国方であった事実から、忠国陣営が自派の求心力を保つために対立する伊作氏の血を引く友久ではなく、支持者である新納氏の血を引く立久が後継に選んだとする見方もある。
 宗家11代当主・忠昌に対し反乱を起こすが、忠昌の討伐軍に敗れた後は宗家に従った。明応2年(1493年)死去、享年62。 

島津忠良 島津尚久

 島津氏の分家・伊作氏の出身(伊作忠良とも呼ばれる)。父・伊作善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・伊作久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・梅窓夫人が一時的に伊作氏当主となる。この間、伊作氏は周辺の諸豪族の攻撃に晒されるが、田布施の相州家当主・島津運久に加勢を頼み、運久も承諾して都度兵を送り撃退していたという。
 忠良は幼児の頃、桂庵禅師から『朱子新註四書』の学習を受け、ことに『論語』に通じ、賢徳の聞こえが高かった。また、禅を修め、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して新たに一流を開いた。これが日学と称されるものである。相州家の運久は以前より未亡人となった梅窓夫人に惚れ込み求婚を申し出ていたが、忠良を養子とし相州家と伊作氏との家督相続を条件に母・梅窓夫人は文亀元年(1501年)、運久と再婚した。永正3年(1506年)、忠良は元服し伊作氏を継いだ。永正9年(1512年)、運久は阿多城を攻略し亀ヶ城より移り、かねてからの約束を守り相州家当主の座を忠良に譲った。忠良は伊作・亀丸城より田布施・亀ヶ城に入城。21歳で阿多,田布施,高橋,伊作を領す。領主となった忠良は伊作の亀丸城、田布施の亀ヶ城とも良くまとめ、禅の修行に精進し学門を修め、人道を守り領民には善政を施したのでその徳は領内外に高まった。
 当時の島津宗家は第11代忠昌の死後、頴娃氏の養子に入っていた3男の忠兼(後の勝久)が継いだが政権基盤が弱く、当初頼っていた薩州家第5代当主・島津実久の専横が顕著となり、忠兼は英明の誉れ高い忠良に支援を求めた。忠良は国政委任を引き受けるとともに、自身の長子虎寿丸(後の貴久)を忠兼の養嗣子として送り込んだ。忠兼は元服した貴久に守護職を譲り忠良にその後見を依頼、自らは出家して伊作に隠居した。これを見届けた忠良は33歳で剃髪して愚谷軒日新斎と号し、以後貴久を輔佐して三州統一に邁進することになる。
 しかし島津宗家の家督を狙っていた実久はこの事態に不満を持ち猛烈に抗議し、忠兼と貴久との養子縁組を解消させようとした。そして、何よりも忠兼本人も貴久に守護職を譲ったことを後悔して5月には悔返を言い出すようになっていた。大永7年(1527年)、実久は貴久に守護職の返上を迫り、諸城を攻略。窮地に陥った貴久は死を以て城を守る気概であったが、園田実明の進言を受け入れ僅か8人の家臣と共に夜隠に紛れて鹿児島を脱出、田布施の亀ヶ城に逃れた。忠兼は実久に迎えられ、還俗し勝久と名を改め、伊作から鹿児島に帰り再び守護職に復帰した。忠良は勝久の隠居城となりその家臣の守っていた伊作亀丸城を翌朝陥落させ、自身の居城とする。これより数年、自領の防備を固め、三州の情勢を観望し勢力を蓄えることとなる。
 享禄2年(1529年)、豊州家の島津忠朝,新納忠勝,禰寝清年,肝付兼演,本田薫親,北郷忠相,樺山幸久,運久らが鹿児島清水城に集まり、島津勝久に島津忠良と和解するよう求めるが失敗。天文2年(1533年)3月27日、忠良,貴久は反攻を開始し、実久方に回った日置南郷城主・桑波田栄景攻めを行い即日陥落させた。この時、忠良は南郷の地を「永吉」と改めた。また、同年12月、実久に攻略されて服従していた日置城主・山田有親も忠良に領地を献じて降伏した。
 天文3年(1534年)、勝久は次第に俗曲戯芸に興じ政務を怠るようになる。勝久の振舞いに対して島津宗家の老中(重臣)は実久を頼って勝久を排除する動きを見せた。翌年10月、勝久は帖佐に移り、実久が鹿児島に入り、宗家の老中の支持を受けた実久が勝久に代わって守護を継承することになり、忠良,貴久親子との対立は避けられないものになっていった。
 一方、忠良は、伊集院,谷山,川辺などを転戦して薩摩半島の掌握に努めるとともに、勝久とも和解、さらに北薩摩の渋谷氏一族を味方につけて実久の本拠地出水と鹿児島間の道を寸断しようとした。天文8年(1539年)正月に加世田別府城の戦いで実久配下の軍を破り南薩をほぼ制した。同年8月、市来鶴丸城の戦いにおいて実久の弟・忠辰を討つと実久は本拠地の出水へと撤退した。ここに及びようやく忠良,貴久親子は島津宗家の家督相続と守護職復帰を実現した。
 忠良は島津貴久が伊集院一宇治城から鹿児島内城に移ると、天文19年(1550年)に加世田に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだ。また万之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作り出し「島津家中興の祖」と言われ大きな影響力を与えることになった。
 永禄11年(1568年)12月13日、77歳で加世田にて死去。辞世は「不来不去 四大不空 本是法界 我心如心」
 また、忠良は人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名である。この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久,義弘,歳久,家久にまで受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。いずれも優秀な4人の孫を「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評し期待していた。
 深く禅宗(曹洞宗)に帰依し、永禄7年(1564年)、加世田武田の地に保泉寺を再建。忠良の死後、7世住持の梅安和尚が寺号を日新寺と改めた。日新寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈により破壊され廃寺となったが、その4年後の明治6年(1873年)に同地に竹田神社として再興され、忠良は祭神として祀られた。

 享禄4年(1531年)、島津忠良の子として誕生した。天文6年(1537年)、7歳にして長兄の貴久の軍勢の供をし、天文8年(1539年)の市来攻めにも同行した。天文23年(1554年)の岩剣城攻めの際は、加治木勢として出馬し活躍、翌天文24年(1555年)3月の帖佐での戦いでは、次兄の忠将と共に打ち掛かり、祁答院氏,菱刈氏を敗走させている。また、永禄2年(1559年)の松山城攻めなどでも活躍する。大隅国肝付氏との廻城奪回戦の後に病にかかり、翌年に死去した。この廻城攻めの際に戦死した兄の忠将を見殺しにしたと父に非難されての憤死とも言われる。享年32。なお、尾辻佐左衛門という者が殉死している。
 尚久は倭寇に影響力を行使できる人物であったことが知られている。尚久自身が薩摩の倭寇の主として坊津を基地とする海賊衆を束ねていたといわれる。九条稙通が矢野以清を通じて尚久に示諭した具体的な内容は不明であるが、当時豊後に幽閉されていた明の上官(使者)鄭舜功からの書状の意を汲んで、尚久が倭寇活動を停止する、または更に進んで尚久自ら海賊仲間(倭寇)を討つよう命じたと考えられる(幕府のスパイとして倭寇に参加したのちに倭寇を討伐)。実際に倭寇の頭目・徐海は嘉靖35年(1556年)にそれまで同盟者であったはずの陳東から攻撃を受け、徐海水軍は壊滅し徐海自身も行方不明となった。陳東と尚久が同一人物であったことの傍証として、陳東が1555年(頃年)に突如出現し凶賊(倭寇)として活動を開始したこと、徐海水軍壊滅直後の1556年に行方不明になったことと、徐海水軍壊滅の翌1557年に尚久の「賊舶のこと」(徐海水軍壊滅)に関する上言(報告)が室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝から評価されて後奈良天皇に報告されて天皇の綸旨を賜わり家宝としたこと、という2つの事実が挙げられる。

 

島津久元 島津久通

 島津忠長の次男として誕生した。新納四郎忠真の養子となり新納近江守忠在と称する。慶長4年(1599年)の庄内の乱や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも新納氏として従軍した。しかし、慶長14年(1609年)に兄・忠倍が32歳で死去すると、父・忠長の願いにより新納氏を去って父の家督を相続、以後より島津下野守久元と称した。また、翌慶長15年(1610年)には地頭であった馬越(現・鹿児島県伊佐市)から宮之城(現・鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城)へと移り、同年11月の父の死去に伴い、その翌年には父の在所であった鹿児島へと移った。
 元和4年(1618年)に主君・家久(忠恒)の家老となる。元和7年(1621年)、家久の命で、正室であった新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹(島津義弘の次女)・御下を娶る。
 寛永元年(1624年)に家久の嫡子・光久が元服すると、その理髪役となる。寛永9年(1632年)に加藤忠広が肥後国より改易となった際は、万一の加藤氏側の反抗に備え、460人を率いて出張している。寛永14年(1637年)の島原の乱では、病の家久に代わり出征する光久の供をし、家久死後も光久の家老を務めた。
 寛永20年(1643年)に死去した。享年63。 

 慶長9年(1605年)島津家家臣・新納忠在(島津久元)の長男として生まれる。母は新納忠増の娘。当時、父・忠在は、新納家に養子入りしていた。元和元年(1615年)12月、元服。寛永4年(1627年)、藩主・島津家久の供をして江戸に出府した。江戸に滞在中に荒木元政に入門し、荒木流馬術の伝書を受ける。
 寛永17年(1640年)3月、永野金山を発見した。寛永20年(1643年)、父・久元死去により、宮之城島津家の家督を相続。正保2年(1645年)3月、藩主・光久の命で家老に就任。『島津世録』八巻を編纂した。
 正保4年(1647年)11月13日、光久が将軍・徳川家光を招いて武蔵国王子村で犬追物を開催。久通は射手を率いて参加し、将軍に拝謁した。
 寛文2年(1662年)、光久の命で新田開発のために天降川の河川改修に着手し、4年後の寛文6年(1666年)に完成させた。寛文12年(1672年)隠居し家督を久竹に譲る。延宝2年(1674年)11月29日、死去。享年71。

島津久治 島津用久

 天保12年、島津久光の次男として重富館(現・鹿児島県姶良市)に誕生する。母は正室の千百子。嘉永5年(1852年)閏4月に島津久宝の養嗣子となることが決定し、同年3月に家督を相続した。また、久宝の娘と結婚する。
 文政2年(1855年)に海防総頭取に任命され、薩摩藩の沿岸防衛の要を務める。文久3年(1863年)の薩英戦争勃発に際して実兄の茂久(のちの忠義)の代理として薩摩藩海軍の指揮を執る。元治元年(1864年)、禁門の変でも茂久の代理として皇居警衛総督、同年12月には薩英戦争講和使節代表となり長崎を訪問する。慶応2年(1866年)に家老に任ぜられる。若年でありながら次々と要職を務めたのは、国父・久光の次男で、藩主・茂久の弟という血統がものを言ったものと思われる。
 ところが、この頃の薩摩藩内では倒幕派が主流となり、孝明天皇の基本方針に沿った公武合体派の論調をとっていた久治は窮地に立たされることとなる。慶応3年(1867年)には小松帯刀,桂久武らの強硬論に対して、重職では慎重論を唱えただ一人反論した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では私領4番隊を会津藩攻撃に向かわせたものの、久治本人は参加しなかった。これが若手藩士からは「軟弱」行為と映り、川村純義らに藩主の目前で詰問されるという屈辱的な目に遭う。
 明治2年(1869年)2月に家老を辞職し、同年8月には私領15750石を藩に返上、代わりに家禄1500石を賜る。以後は国政・藩政にはかかわらず、以前より関心のあった教育事業に参加した。明治4年(1871年)、所領のあった吉野村に第12郷校が建設された際、建材の提供などを行っている。
 明治5年(1872年)正月に急死した。享年32。島津家に伝わる公式系図などでは急病によるとしているが、西郷隆盛から大久保利通に宛てた当時の書簡では「ピストル自殺」と明言されている。家老辞職の頃より孤立感から気鬱となっており、父・久光も「気遣っていたが手遅れとなった」とある。幕末の勝者側の、それも藩主の一門としてはあまりにも哀れな最期であった。墓所は歴代宮之城家墓所である宗功寺ではなく鹿児島市の天神山墓地に設けられたが、戦後になって子孫の手により歴代宮之城家墓所に移転した。
 あとには前年生まれたばかりの長男・長丸と未亡人が残された。長丸は長じて叔父・珍彦の娘である治子と結婚、明治30年(1897年)3月に男爵となり、華族に列した。

 薩摩国島津氏の分家・薩州家初代当主。出水亀ヶ城主。応永8年(1401年)、島津宗家8代当主・島津久豊の次男として誕生。用久が薩摩守を称したことから、彼の家は「薩州家」と呼ばれた。
 兄で島津宗家9代当主・忠国は、本家相続後に領国内で度々反乱が発生したため領地経営に自信を失い妻の実家で隠居した。後世編纂された島津氏の記録では、守護代に任じられた用久は反乱勢力を鎮圧、領内をまとめたとされている。だが、この時期に発給された用久の文書は全て守護の書式であり、反対に守護代が発給する文書が見つかっていないことから、実際には島津氏の家督自体を譲られたと考えられている。だが、家督の譲渡を一時的なものと考えて将来は我が子に譲ろうと考えていた忠国と家中の人望を集めて当主の地位を固めつつあった用久が対立し、更に忠国・用久双方を支持する一揆が形成されるに至った。
 その後、内紛は用久の勝利で終わったものの、嘉吉元年(1441年)に島津領逃げ込んだ足利義教の弟である義昭の討伐に用久が積極的ではなく、代わりに忠国が討伐に当たったことから室町幕府が介入して、用久は一転して討伐の対象とされてしまう。これに反発する用久とその支持者は激しく抵抗するが、文安5年(1448年)に和解した。その後、忠国は阿久根や出水などを与えて用久との関係を回復させるが、一方で家臣との対立を深め、長禄2年(1458年)頃には家臣の間で用久を擁立して忠国を追放する計画もあったとされる。だが、それが実現する前に長禄3年(1459年)、死去。享年59。 

島津実久 島津義虎

 永正9年(1512年)、薩州家4代当主・島津忠興の子として誕生。薩摩出水を本拠とし、薩摩守護で本宗家の奥州家島津勝久と対立して、これを圧迫し家督を譲らせようとした。そのやり方があまりに過酷すぎたため、勝久は島津家分家・相州家の島津貴久に家督を譲ろうとするが、実久は勝久を豊後国へ追放した上で、貴久とその父・島津忠良を滅ぼして、家督を我が物にしようとした。
 これに対して島津忠良は天文6年(1537年)5月上旬、実久と会談、忠良は和解を提案したが実久は聞き入れず、なおも一進一退の戦いを繰り広げた。しかし、天文8年(1539年)の加世田や市来の戦いで忠良父子に敗れ、以後も紫原の戦いなどで敗戦を続けて、遂に貴久に降伏し出水に隠棲した。薩州家の家督は子の島津義虎が継いだ。
 天文22年(1553年)閏1月に上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に拝謁するが、その帰途に発病、同年7月7日に出水に帰るも約2週間後に死去した。
 ただし、近年の研究では勝久と重臣達の間に政治的対立が存在し、実久の行動は単なる謀叛ではなく反勝久派の本宗家重臣による新当主擁立であって、天文4年(1535年)から6年(1537年)にかけて、実久が宗家当主・守護職として島津氏領国を掌握していた時期が存在するとされている。その後、勝久を擁した島津忠良が反撃して鹿児島のある薩摩半島を掌握した上、入来院氏や渋谷氏など北薩摩の国衆を味方につけて川内と鹿児島の交通を遮断したことで実久は苦境に陥ったものの、実久が死去するまで忠良・貴久父子に帰順したことを示す記録がないことから、実久は死去するまで島津氏当主の立場から忠良・貴久父子と戦い続け、死去直前の上洛も貴久に対抗するためのものであったと考えられている。 

 天文5年(1536年)、薩州家5代当主・島津実久の長男として誕生。室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を賜い、晴久と称す(義晴の死後であろうか、のちに陽久(読み同じ)に改名している)。
 父・実久は薩摩守護職の座を巡り、相州家の島津忠良・貴久親子と対立したが、義虎は逆に従う姿勢をみせていた。実久が忠良親子に敗れ出水にて隠棲すると、島津義久の長女・於平を室とすることにより和解を図り、以後臣従した。ただし、実久と忠良親子の戦いは実久が没するまで続き、義虎の代になって臣従したとする説もある。
 一方で、島津宗家を継いだ相州家へ臣従後も、しばしば独自とみられる行動をとることがあった。永禄6年(1563年)には上洛して13代将軍・足利義輝に拝謁、重ねて一字拝領し、この頃に名乗っていた陽久から義俊、更には義虎へと改名している。また、東郷の領主である大和守・東郷重治とは、義虎の家臣である湯田兵庫成重の秘蔵の飼犬が盗まれたことに端を発す諍いにより、天文16年(1547年)から約20年間争っており、たびたび合戦を繰り返した。更に永禄8年(1565年)3月には叔父・忠兼に肥後国天草の長島攻略を命じている。これは天文23年(1554年)に相良晴広により長島を追われた長島鎮真を庇護していたことが背景にあり、鎮真に代わって長島領主となっていた天草越前守を攻め滅ぼして、長島を薩州家の領有としている(なお、義虎は同7月8日には忠兼を謀殺している)。
 永禄10年(1567年)より羽月城を守備、肥後相良氏の備えについた。永禄12年(1569年)、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害し、菱刈氏との連合軍が挙兵すると、義虎は詰めていた羽月城を退去し、本領の出水へ退却したため義久の怒りを買っている。その後、天正6年(1578年)の高城川の戦いの際には大友氏に呼応する相良氏への備えとして、出水城を守った。天正9年(1581年)には相良氏討伐の先鋒となり遂に相良氏を下した。
 他にも天正12年(1584年)3月の 龍造寺氏との沖田畷の戦いにも従軍し軍功を挙げた。
 将軍義輝から「義」の字を賜っていることからも分かるように、島津一門では宗家当主の義久に次ぐ地位にあり、領地も出水のほか高城,水引,山野など3万1905石の禄高を領した。
 天正13年(1585年)、死去。享年50。義虎の子供の内、3男の忠清は一男一女をもうけ、この男子である忠影が新納氏を継ぎ、義虎5男の重高が入来院氏を継ぎそれぞれ薩摩藩氏として存続した。また忠清の女子は島津忠恒に嫁いだ心応夫人であり、光久の母でもあるため、光久以降の薩摩藩主は女子を介してではあるが義虎の系譜を引いていることになる。 

島津忠清 島津忠兼

 義虎の3男として誕生する。しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎5男),忠豊(義虎6男)と共に小西行長に身柄を預けられる。そこで行長の家臣である皆吉続能の娘・立野殿(洗礼名カタリナ、堅野カタリナ、永俊尼)を娶り、長女と長男を授かった。この妻は再婚であり、連れ子の娘(妙)がいたが、のちに喜入忠政の後室となっている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に西軍であった小西行長に対し、熊本の加藤清正が小西領の宇土を占拠した。忠清らは加藤家に捕縛され熊本に移送された。祖父の島津義久と島津常久が加藤家と交渉し、慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻ることができた。その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久,北郷久直,島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上したが、忠清は元和6年(1620年)に病没し、冷水町の興国寺に葬られた。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫の新納久珍の次男である新納久基が継いだ。
 妻のカタリナはキリシタンであり、領内で禁教の信徒を多数保護しており、藩から度々注意をされていた。忠清の死後の寛永10年(1633年)、カタリナは種子島大長野に流刑となり、閉門蟄居として種子島忠時の監視下となった。寛永16年(1639年)に伊勢貞昌を通して法華宗に宗旨替えをしたと届けたが、表面上の棄教であるとして認められなかった。同年に連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘(基多村久智(島津久茂)室および御鶴)も同島に流罪となっている。慶安2年(1649年)に死去。ただし流刑とはいえ藩主の血縁であり粗末には扱われておらず、時折の音信もあり、死去時は孫で藩主の島津光久からの使者が香典を奉納している。 

 紫尾山近辺を支配していた渋谷氏・東郷氏に勝利するなどの活躍をし、兄・実久から野田に領地を与えられ、新城を築き居城とする。
 永禄8年3月24日(1565年4月24日)、6代当主・島津義虎の命を受け、家臣の吉満久張らとともに肥後国天草の長島へ出兵。堂崎城主・天草越前守を打ち破って長島・獅子島の両島を攻め取り、薩摩国の領有とした(天草諸島のうち、長島,獅子島および近接する島々は、以降、現在に至るまで鹿児島県の所属となっている)。
 以降3ヶ月に亘り長島領主として治世にあたったが、天草越前守の旧臣らの中に忠兼を讒訴するものがあり、それを信じた義虎によって義虎の居城・亀ヶ城へ呼び出され、永禄8年7月8日(1565年8月12日)、登城してきたところを謀殺された(享年42?)。夫人である玉衣の方,娘の与里姫(享年22?)は悲嘆のあまり後を追って自害したと伝わる。
 その後、野田や長島で疫病や飢饉が大流行し、忠兼らの祟りではないかとの噂が立つ。領内の異変に驚いた義虎は、忠兼の無実と自分の非を認め、忠兼の居城であった新城跡に若宮神社を建立し、霊を慰めたという。以来、疫病は治まったが、命日である旧暦7月8日(現在は8月8日)に長島町の堂崎城跡で毎年祭礼が行われている。
 墓所は野田町下名にあった極楽寺内にあったが、昭和37年(1962年)11月にその敷地が鹿児島県野田高等学校(現・県立野田女子高校)の一部となる際、野田町上名の永林寺跡(現・弓林神社)に移された。