中国(秦王朝)渡来系

SM03:島津氏久  島津忠久 ― 島津忠宗 ― 島津氏久 ― 島津季久 SM12:島津季久

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島津季久 島津忠廉

 豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452~55)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。
 応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が起きると、九州でも東西両軍に別れ争いが繰り広げられた。島津宗家第10代当主の島津立久は東軍についたが、季久は西軍に属していた。他家同様どちらが勝利してもよい様にという考えからであった。
 忠国・立久親子にはよく仕えたが、第11代当主である島津忠昌の時に肥後方面の戦略について忠昌と対立。帖佐で挙兵すると、本家居城の清水城に迫った。忠昌はこれにより伊集院一宇治城に避難している。しかし同じくして乱を起こした相州家の島津友久が忠昌に敗れると恭順。文明9年(1477年)死去。享年65。
 晩年、季久は豊州家の菩提寺として総禅寺を建立したが、完成を待たずして病死する。遺骸は一時近くの雲門寺に埋葬され、完成後に総禅寺に改装されたと伝えられている。

島津豊州家第2代当主。長禄3年(1453年)、父・季久とともに蒲生氏の居城・蒲生城を攻撃し、蒲生の地を支配下に置く。文明5年(1473年)、伊作家の島津久逸が反乱を起こすと、当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の島津忠昌に叛旗を翻す。しかし薩州家の島津国久や肥後国の相良為続の説得により兵を収め、久逸が鹿児島へ攻め寄せると忠昌に従い、久逸の軍勢を撃退した。
 文明18年(1486年)、忠昌の命で新納氏,伊作家に替わってそれぞれの本拠であった飫肥城,櫛間城を与えられる。飫肥城に入ると、伊東氏の侵攻をたびたび阻止している。延徳3年(1491年)、摂津天王寺にて死去した。享年52。宗祇から『古今和歌集』や『伊勢物語』の奥義を伝授されたほか、桂庵玄樹に朱子学を学んだと言われている。

島津忠朝 島津忠広

 延徳2年(1490年)、父・忠廉の死去により家督を継ぎ3代当主となる。明応5年(1495年)、島津宗家11代当主・島津忠昌の家老である平田兼宗が反乱を起こした際には鎮圧を命じられ、兼宗の居城である大隅岩弘城を攻略。この功績により大隅串良の領土を安堵される。天文元年(1532年)、北郷忠相,北原久兼と連合して伊東氏領の三俣院高城を大軍で攻め、伊東軍に深刻な被害を与えた。
 ところが、島津宗家において薩州家の島津実久と相州家の島津忠良・貴久親子との間で家督を巡った争いが起きると、忠朝は両者の和議を図るも失敗、実久側に味方することになった。志布志の新納氏は実久からの誘いを拒んだため、天文7年(1538年)に忠朝らは北郷氏らとともにこれを攻撃し、志布志城に迫ると新納氏を追放した。志布志を手に入れた忠朝はここへ移り、長子の忠広に飫肥を任せた。
 忠良・貴久父子が薩摩半島を掌握して対立を深めていく中で、天文9年3月3日(1540年4月9日)死去した。享年75。

 薩摩島津氏の分家である豊州家4代当主。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏への抵抗勢力(長倉祐省・長倉能登守の乱)から援軍を要請されると、美作守の独断で出兵し敗北している。
 島津宗家で15代当主・島津貴久と前当主・島津勝久の争いが起きると勝久の重臣であった肝付兼演,本田薫親などと共謀し、天文10年(1541年)、貴久の父・島津忠良の娘婿である樺山善久を攻撃するが、忠良の家臣である伊集院忠朗により撃退されている。同12年(1543年)には伊東義祐が攻勢を強め、日向にある島津家の砦が次々と陥落。同14年(1545年)、貴久が宗家をまとめ伊集院一宇治城を居城とすると、北郷忠相とともに伊集院へ向かい貴久を薩摩守護としその指示に従うことを申し出た。
 天文15年(1546年)、養子の二郎三郎賀久(島津忠隅の子)が夭逝したために北郷氏より忠親を養子に迎える。同18年(1549年)に家督を忠親に譲り隠居。同20年(1551年)死去。享年69。

島津忠親 島津朝久

 永正9年(1512年)、日向都城の領主・北郷忠相の長男として誕生。天文15年(1546年)、豊州家島津忠広の養子・島津賀久が夭逝したことから、忠親は北郷氏を長男・北郷時久に継がせ、自らは養子として豊州家に入った。同18年(1549年)、養父の隠居により家督を継ぐ。
 豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け渡すが、数ケ月後には夜襲をかけ城を奪還した。しかし永禄11年(1568年)、義祐は2万の大軍をもって再び侵攻し、途中島津宗家の援軍を撃退しつつ飫肥城を包囲した。島津宗家は飫肥を放棄することを決定し、兵糧攻めにあっていた忠親は城を脱出、飫肥城は陥落した。
 飫肥城落城後、庄内(都城)に移り、元亀2年(1571年)に同地で病死した。享年68。

 天正年間に島津義久により大隅平房・市成を賜りその領主となる。天正6年(1578年)、島津家が伊東氏を討ち日向を手に入れると宮崎の300町を拝領する。その後、島津義弘に従い真幸院飯野、更に馬関田に移り、大友氏との耳川の戦いでも活躍した。
 同14年(1586年)、島津忠長らと共に筑前岩屋城攻めにも参加している。しかし秀吉の九州征伐の際の根白坂の戦いで負傷し、都於郡の島原にて養生後に馬関田に帰り、その後は平松上水流へと移った。文禄元年(1592年)、文禄の役では朝鮮へ渡ったが、翌年巨済島で病没した。

島津久賀 島津久宝

 文禄2年(1593年)、文禄の役の際に父の朝久が朝鮮で病死すると、2年後の文禄4年(1595年)に14歳で朝鮮へ渡海した。慶長の役にも参加し泗川の戦い、更に露梁海戦でも活躍、慶長5年(1600年)に永野など1,000余石の加増を受けた。慶長12年(1607年)、島津義弘が帖佐から加治木へ居城を移すと、帖佐の地頭に就任する。
 薩摩藩初代藩主・島津家久の城代家老となり、寛永11年(1634年)、転封により黒木の領主となっている。寛永14年(1637年)の島原の乱の際は、島津久元と共に大将を仰せ付かった。藩主・家久が亡くなると2代藩主・光久にも仕え、それまでの豊後守から豊前守へと官を改めている。正保元年(1644年)没。享年63。
 久賀以後、豊州家は帖佐,黒木の領主として代々家老などの要職を歴任している。

 島津久風が隠居すると出水郷地頭を兼務する。天保5年(1834年)家督を継承。島津斉彬に仕え、天保10年(1840年)家老となり、勝手方と琉球方掛を任じられ、弘化2年(1845年)には城代家老となった。安政5年(1858年)斉彬が没すると、前藩主・島津斉興の指示で家老・島津久徴を罷免し、斉彬の近代化政策を逆行するように保守的な政策を実行した。また勤王家月照の保護を拒否したため、月照を匿っていた西郷隆盛は責任を感じ、共に入水自殺を図った。これらの政策により志士たちの反感を買ったという。
 安政6年(1859年)斉興が没し、藩主・忠義の実父・島津久光が実権を握ると、久光は斉彬の政策を復旧させようとしたため、久宝は罷免され、失脚した。
 生没年月日ともに異説があり、誕生日を正月29日、没年月日を明治6年1月17日とするものもある。また、西郷隆盛は斉彬生存中に久宝の解任を斉彬に進言したという。