| K301:継体天皇 | 継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 | TJ01:多治比 嶋 |


| リンク | TJ02 |
| 多治比 嶋 | 多治比池守 |
|---|---|
|
歴史の表舞台への登場は遅く、天武朝の天武天皇11年(682年)頃であった。天武天皇13年(684年)の八色の姓制度においては、天武天皇の高祖母の石姫皇女は宣化天皇皇女で、嶋にとっては曾祖叔母にあたり、宣化天皇の直系子孫である嶋も最高位の真人の姓を賜与された。 |
持統天皇7年(693年)、直広肆(従五位下に相当)に叙せられる。和銅元年(708年)2月に平城京への遷都の詔が出ると、3月に民部卿に任ぜられ、9月には阿倍宿奈麻呂と共に造平城京司長官に任ぜられ、平城宮の造営を担当する。和銅3年(710年)3月に平城京への遷都が行われると4月には右京大夫となり、引き続き平城京の整備に従事した。和銅6年(713年)正四位下、和銅7年(714年)従三位と元明朝末にかけて昇進を果たした。 |
| 多治比家主 | 多治比長野 |
|
元正朝末の養老7年(723年)出羽守を務めていた際、蝦夷征討に功績があった蝦夷52人に対して褒賞を行うように言上し、勅命により蝦夷に対して功績に応じ褒美の授与や叙位が行われた。 |
天平神護元年(765年)従五位下に叙爵。称徳朝では刑部大判事,造東内次官,大和介を経て、神護景雲3年(769年)従五位上に叙せられる。 |
| 多治比真宗 | 多治比犢養 |
|
延暦5年(786年)には所生の葛原親王が生まれているので、この頃までには桓武天皇に入内している。『一代要記』によると、延暦16年(797年)に従三位に叙され、夫人となったという。後宮では葛原親王をはじめ六親王を生んだ。 |
天平13年(741年)従五位下に叙爵し、天平18年(746年)左京亮に任ぜられる。 |
| 多治比土作 | 多治比國人 |
|
聖武朝の天平12年(740年)従五位下に叙爵。天平15年(743年)新羅使が来日した際、検校新羅客使に任ぜられて筑前国に派遣される。新羅使が調を土毛と改称したこと、書面の最後に物品数を記していることをもって、旧例を踏まえると大いに礼を失していると報告した。この結果、太政官は水手以上の者を召して、失礼な書面であることを告げ、速やかに退去を命じたという。のち、摂津亮・民部少輔を歴任する。 |
天平8年(736年)従五位下に叙爵し、天平10年(738年)民部少輔に任ぜられる。天平18年(746年)正五位下、天平勝宝元年(749年)正五位上、天平勝宝3年(751年)従四位下と、聖武朝末から孝謙朝の初頭にかけての橘諸兄政権下にて順調に昇進し、この間、大宰少弐・右大弁などを務めている。 |
| 多治比宇美 | 多治比浜成 |
|
宝亀11年(780年)4月に従五位下に叙爵し、6月には陸奥介に任ぜられて、同時に陸奥鎮守副将軍になった百済王俊哲らと共に宝亀の乱の鎮圧に当たる。翌天応元年(781年)9月に乱鎮圧の功労者に対する叙位が行われ従五位上に叙せられている。延暦2年(783年)民部少輔ついで同大輔と一時京官に復す。 |
宝亀9年(778年)、遣唐使に随行して来日した唐使・孫興進を唐に送迎するために送唐客使が任命された際、浜成はその判官となり、翌宝亀10年(779年)渡唐する。天応元年(781年)6月に送唐客使一行は帰国して、9月に渡唐の功労に対する叙位が行われ、浜成は従五位下に叙爵した。翌延暦元年(782年)左京亮次いで式部少輔に任ぜられる。延暦3年(784年)従五位上に昇叙され、翌延暦4年(785年)には右中弁に任ぜられた。 |
| 多治比三上 | 多治比郎女 |
|
光仁朝の宝亀7年(776年)正月に従五位下に叙爵された後、検税使として南海道に派遣され、同年3月に長門守に任官した。 |
奈良時代の女性。大伴旅人の妻で、大伴家持の母。家持の妹・留女之女郎が丹比(多治比)家に居住していたと見られることから、家持の生母と推定されている。大伴旅人と大宰府で親交のあった多治比縣守の娘と考える説がある。 |
| 多治比広成 | 丹墀貞成 |
|
神亀元年(724年)、聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平3年(731年)従四位上。天平4年(732年)、兄の縣守に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津から唐に向けて出発、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する。帰国翌年の天平7年(735年)には遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。なお、唐においては氏として多治比に代えて丹塀を用い、帰国後は元の多治比に戻したという。 |
嵯峨朝の弘仁10年(819年)従五位下に叙爵。淳和朝の天長6年(829年)従五位上に叙せられる。天長10年(833年)木工頭の官職にあったが、多治比真人姓から丹墀真人姓への改姓を奏請し許される。なお、「丹墀】という氏の呼称は天平5年(733年)に遣唐大使として渡唐した多治比広成が唐において一時的に用いたものであった。その後、正五位下に叙せられる。承和元年(834年)、約30年ぶりに遣唐使を派遣することになり、遣唐使船を建造するために造舶使が任命され、貞成は責任者である長官に任命された。 |
| 多治貞峯 | 多治比広足 |
|
若い頃から大学寮にて学び文才があり、奉試に及第して文章生となる。天長9年(832年)多治比貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する。翌天長10年(833年)兵部少丞に任ぜられ、兵部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・加賀介に叙任される。のち播磨介と仁明朝前半は地方官を務めるが、承和9年(842年)刑部少輔、承和14年(847年)民部少輔に任ぜられるなど、仁明朝後半は一転して京官を務めた。 |
天平11年(739年)兄の中納言・広成が没すると、広足が一族の長となり、天平12年(740年)正五位上、天平15年(743年)従四位下、天平19年(747年)従四位上と、橘諸兄政権下で順調に昇進し、天平20年(748年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。またこの間、刑部卿・兵部卿などを務めている。 |