<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

K301:継体天皇  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 TJ01:多治比 嶋


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多治比 嶋 多治比池守

 歴史の表舞台への登場は遅く、天武朝の天武天皇11年(682年)頃であった。天武天皇13年(684年)の八色の姓制度においては、天武天皇の高祖母の石姫皇女は宣化天皇皇女で、嶋にとっては曾祖叔母にあたり、宣化天皇の直系子孫である嶋も最高位の真人の姓を賜与された。
 天武天皇は大臣を置かない皇親政治を執っていたが、天武天皇の崩御後、持統天皇4年(690年)に皇后の鸕野讚良皇女が称制を経て持統天皇として即位すると、嶋も壬申の乱で罰せられた中臣金以来空職となっていた右大臣に昇進する。臣下では太政大臣の高市皇子に次いで高い地位につき、持統天皇11年(696年)の皇子薨去により、臣下最高位となる。文武元年(697年)左大臣に任官、大宝元年(701年)に正二位に叙されたが、間もなく薨御した。大宝律令が完成する直前であった。
 竹取物語に登場する、かぐや姫に求婚する貴族達の一人、石作皇子はこの嶋がモデルと言われている。
 同年初めに薨去した大納言・大伴御行の後を追う形となった嶋の後は、阿倍御主人がしばらく臣下最高位(右大臣)となったが、彼も間もなく薨御し、嶋の次に左大臣に出世した石上麻呂も、平城京遷都においては藤原京の留守役を押し付けられるなど天武朝から活躍していた老臣達は次々と姿を消し、藤原不比等が藤原氏最初の黄金時代を築くこととなる。

 持統天皇7年(693年)、直広肆(従五位下に相当)に叙せられる。和銅元年(708年)2月に平城京への遷都の詔が出ると、3月に民部卿に任ぜられ、9月には阿倍宿奈麻呂と共に造平城京司長官に任ぜられ、平城宮の造営を担当する。和銅3年(710年)3月に平城京への遷都が行われると4月には右京大夫となり、引き続き平城京の整備に従事した。和銅6年(713年)正四位下、和銅7年(714年)従三位と元明朝末にかけて昇進を果たした。
 和銅8年(715年)大宰帥に任ぜられると、霊亀3年(717年)には地方官としての善政を賞されて綾10疋・絹20疋・絁30疋・綿300屯・布100端を与えられた。その後、左大臣・石上麻呂の薨去に伴う養老2年(718年)の人事異動で中納言に、右大臣・藤原不比等の薨去に伴う養老5年(721年)の人事異動で大納言、養老7年(723年)には正三位と、元正朝でも順調に昇進し、長屋王政権が確立されると左大臣・長屋王に次ぐ地位を占めた。
 神亀4年(727年)正月に従二位に昇進し、同年11月には百官を率いて聖武天皇の皇太子・阿倍内親王(のち孝謙天皇)に拝謁した。神亀6年(729年)、長屋王の変が発生した際には長屋王邸に派遣されて王の窮問を担当している。長屋王が失脚した後、太政官では知太政官事・舎人親王に次いで臣下最高位となるが、翌天平2年(730年)9月8日薨去。最終官位は従二位大納言。  

多治比家主 多治比長野

 元正朝末の養老7年(723年)出羽守を務めていた際、蝦夷征討に功績があった蝦夷52人に対して褒賞を行うように言上し、勅命により蝦夷に対して功績に応じ褒美の授与や叙位が行われた。
 聖武朝の天平9年(737年)従五位下・因幡守に叙任され、天平12年(740年)従五位上に昇叙され、天平13年(741年)鋳銭長官に転じる。孝謙朝にて、天平勝宝3年(751年)正五位下、天平勝宝6年(754年)従四位下と昇進している。なお、天平宝字元年(757年)には橘奈良麻呂の乱が発生し、兄弟の犢養,礼麻呂,鷹主が処罰されているが、乱における家主の動静は不明。 天平宝字4年(760年)3月2日卒去。 

 天平神護元年(765年)従五位下に叙爵。称徳朝では刑部大判事,造東内次官,大和介を経て、神護景雲3年(769年)従五位上に叙せられる。
 光仁朝では、宝亀2年(771年)正五位下、宝亀7年(776年)正五位上、宝亀9年(778年)従四位下と順調に昇進する一方、宝亀8年(777年)民部大輔を挟んで、三河守・出雲守・摂津大夫と主に地方官を歴任した。桓武朝でも、延暦3年(784年)従四位上、延暦4年(785年)正四位上と引き続き順調に昇進を続けながら、伊勢守・近江守といった地方官や、刑部卿を歴任する。延暦6年(787年)従三位に叙せられて公卿に列し、延暦8年(789年)正月に参議に任ぜられたが、同年12月22日薨去。享年84。

多治比真宗 多治比犢養

 延暦5年(786年)には所生の葛原親王が生まれているので、この頃までには桓武天皇に入内している。『一代要記』によると、延暦16年(797年)に従三位に叙され、夫人となったという。後宮では葛原親王をはじめ六親王を生んだ。
 その後、息子の佐味親王と同居していた頃には、藤原仲成が妻(笠江人の娘)の叔母に言い寄り、それを嫌った叔母が真宗と佐味親王の邸に逃げこむと、仲成はそこにあがりこみ暴行を加えた、ということがあった。弘仁14年(823年)に死去。正二位を追贈された。葬儀に際して、四位2人,五位5人,六位以下11人からなる葬司が任命され、淳和天皇が詔りしている。 

 天平13年(741年)従五位下に叙爵し、天平18年(746年)左京亮に任ぜられる。
 天平勝宝元年(749年)、孝謙天皇の即位後まもなく式部少輔に任ぜられるが、天平勝宝4年(752年)遠江守として地方官に転じる。天平勝宝6年(754年)従五位上。天平宝字元年(757年)、兄弟の多治比礼麻呂,鷹主と共に参議・橘奈良麻呂が主導する策謀(紫微内相・藤原仲麻呂の殺害、および天皇の廃立)に参画する。しかし、事前に密告により策謀が露見して捕らえられ、杖で何度も打たれる拷問を受け獄死した(橘奈良麻呂の乱)。


多治比土作 多治比國人

 聖武朝の天平12年(740年)従五位下に叙爵。天平15年(743年)新羅使が来日した際、検校新羅客使に任ぜられて筑前国に派遣される。新羅使が調を土毛と改称したこと、書面の最後に物品数を記していることをもって、旧例を踏まえると大いに礼を失していると報告した。この結果、太政官は水手以上の者を召して、失礼な書面であることを告げ、速やかに退去を命じたという。のち、摂津亮・民部少輔を歴任する。
 天平勝宝元年(749年)、孝謙天皇の即位後まもなく紫微大忠に任ぜられる。藤原仲麻呂政権下では尾張守・西海道節度副使と地方官を歴任する一方、天平宝字元年(757年)従五位上、天平宝字7年(763年)正五位下と昇進する。天平宝字8年(764年)4月に文部大輔として京官に復すが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。
 称徳朝に入り、天平神護2年(766年)従四位下に昇進したのち、左京大夫・治部卿を歴任する。神護景雲4年(770年)光仁天皇即位後まもなく従四位上・参議に叙任されて公卿に列した。宝亀2年(771年)6月10日卒去。 

 天平8年(736年)従五位下に叙爵し、天平10年(738年)民部少輔に任ぜられる。天平18年(746年)正五位下、天平勝宝元年(749年)正五位上、天平勝宝3年(751年)従四位下と、聖武朝末から孝謙朝の初頭にかけての橘諸兄政権下にて順調に昇進し、この間、大宰少弐・右大弁などを務めている。
 天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の乱が発生した際には遠江守を務めていたが、策謀が露見した後に平城京に召喚されて尋問を受け、結局伊豆国への流罪となった。歌人として『万葉集』に和歌作品4首(長歌1首と短歌3首)が採録されている。

多治比宇美 多治比浜成

 宝亀11年(780年)4月に従五位下に叙爵し、6月には陸奥介に任ぜられて、同時に陸奥鎮守副将軍になった百済王俊哲らと共に宝亀の乱の鎮圧に当たる。翌天応元年(781年)9月に乱鎮圧の功労者に対する叙位が行われ従五位上に叙せられている。延暦2年(783年)民部少輔ついで同大輔と一時京官に復す。
 延暦4年(785年)正五位下・陸奥守に叙任されると、陸奥按察使と鎮守副将軍を兼ねて、再び蝦夷征討の任にあたる。延暦7年(788年)鎮守将軍。なお、この間の延暦8年(789年)には征東将軍・紀古佐美による大規模な遠征が行われるも、巣伏の戦いで蝦夷に大敗しているが、宇美の動静は明らかでない。延暦9年(790年)右中弁に任ぜられて京官に復し、延暦10年(791年)には武蔵守に任ぜられている。延暦16年(797年)従四位上に至る。

 宝亀9年(778年)、遣唐使に随行して来日した唐使・孫興進を唐に送迎するために送唐客使が任命された際、浜成はその判官となり、翌宝亀10年(779年)渡唐する。天応元年(781年)6月に送唐客使一行は帰国して、9月に渡唐の功労に対する叙位が行われ、浜成は従五位下に叙爵した。翌延暦元年(782年)左京亮次いで式部少輔に任ぜられる。延暦3年(784年)従五位上に昇叙され、翌延暦4年(785年)には右中弁に任ぜられた。
 延暦6年(787年)常陸介として地方官に転じると、延暦7年(788年)には紀真人,佐伯葛城,入間広成と共に征東副使に任ぜられ蝦夷征討にあたる。延暦8年(789年)、持節征東将軍・紀古佐美がアテルイらに巣伏の戦いで大敗した際の紀古佐美らを叱責する勅において、浜成のみ蝦夷の軍を討ち払い敵地を侵略したとして、他の将たちより優れている旨、評されている。延暦9年(790年)陸奥按察使兼陸奥守、延暦10年(791年、)大伴弟麻呂が征夷大使に任ぜられたのに伴って、百済王俊哲,坂上田村麻呂,巨勢野足と共に征夷副使になるなど、引き続き蝦夷征討を担当した。 

多治比三上 多治比郎女

 光仁朝の宝亀7年(776年)正月に従五位下に叙爵された後、検税使として南海道に派遣され、同年3月に長門守に任官した。
 天応元年(781年)4月に左兵庫の武器が自然に鳴り、その音は大石を大地に投げつけたほど大きかった、という事件が発生し、光仁天皇が不予(病気)になったため、散位・多治比三上は伊勢国に、伯耆守・大伴継人は美濃国に、兵部少輔・藤原菅継は越前国に派遣され、固関が行われた。ほどなくして、天皇は皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位している。
 天応元年(781年)10月に左京亮に任ぜられるが、翌天応2年(782年)閏正月に氷上川継の謀反が発覚すると、逃走した川継を捕縛するために再度固関が行われる。この際、三上は左京亮を兄弟の多治比浜成に交替し、伊勢老人の後任の主馬頭に任じられた(氷上川継の乱)。同年8月に大伴弟麻呂の後任の左衛士佐に任じられ、延暦2年(783年)従五位上に至る。 

 奈良時代の女性。大伴旅人の妻で、大伴家持の母。家持の妹・留女之女郎が丹比(多治比)家に居住していたと見られることから、家持の生母と推定されている。大伴旅人と大宰府で親交のあった多治比縣守の娘と考える説がある。 
多治比広成 丹墀貞成

 神亀元年(724年)、聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平3年(731年)従四位上。天平4年(732年)、兄の縣守に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津から唐に向けて出発、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する。帰国翌年の天平7年(735年)には遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。なお、唐においては氏として多治比に代えて丹塀を用い、帰国後は元の多治比に戻したという。
 天平9年(737年)、兄の中納言・多治比縣守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事・鈴鹿王と大納言・橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇る。天平11年(739年)4月7日薨去。 

 嵯峨朝の弘仁10年(819年)従五位下に叙爵。淳和朝の天長6年(829年)従五位上に叙せられる。天長10年(833年)木工頭の官職にあったが、多治比真人姓から丹墀真人姓への改姓を奏請し許される。なお、「丹墀】という氏の呼称は天平5年(733年)に遣唐大使として渡唐した多治比広成が唐において一時的に用いたものであった。その後、正五位下に叙せられる。承和元年(834年)、約30年ぶりに遣唐使を派遣することになり、遣唐使船を建造するために造舶使が任命され、貞成は責任者である長官に任命された。
 なお、貞成の没後の貞観8年(866年)に貞成の子息と見られる貞岑によって、丹墀真人姓から多治真人姓への改姓が行われている。 

多治貞峯 多治比広足

 若い頃から大学寮にて学び文才があり、奉試に及第して文章生となる。天長9年(832年)多治比貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する。翌天長10年(833年)兵部少丞に任ぜられ、兵部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・加賀介に叙任される。のち播磨介と仁明朝前半は地方官を務めるが、承和9年(842年)刑部少輔、承和14年(847年)民部少輔に任ぜられるなど、仁明朝後半は一転して京官を務めた。
 嘉祥3年(850年)、文徳天皇の即位後に駿河守として再び地方官に転じるが、国政は清く明らかで官吏や民の評判が良かったという。国司の任期を終えた後、斉衡3年(856年)大学頭、天安元年(857年)民部少輔と文徳朝でも後半は京官を歴任した。
 天安2年(858年)従五位上・左少弁に叙任されると、清和朝の前半は弁官を務め、貞観5年(863年)右中弁、貞観8年(866年)正五位下、貞観10年(868年)従四位下と累進した。同年、伊勢守に転じるが遙任であったという。この間の貞観8年(866年)姓の名が一族の祖先である多治比古王に由来するにもかかわらず、以前丹墀姓に改姓したことから、元の多治比に戻した上で、煩雑さを避けるために「比」の字を省略して多治姓への改姓を上表し許されている。
 晩年は閑居し、酒浸りで酩酊の日々を送り、家事を顧みることなく、常に友人を招いては酒を酌み交わしていたという。貞観16年(874年)11月9日卒去。享年76。

 天平11年(739年)兄の中納言・広成が没すると、広足が一族の長となり、天平12年(740年)正五位上、天平15年(743年)従四位下、天平19年(747年)従四位上と、橘諸兄政権下で順調に昇進し、天平20年(748年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。またこの間、刑部卿・兵部卿などを務めている。
 天平勝宝元年(749年)、孝謙天皇の即位に伴って正四位上・中納言に、翌天平勝宝2年(750年)従三位に昇叙される。天平勝宝年間末には左大臣・藤原豊成と紫微内相・藤原仲麻呂に次いで、太政官の第三位の席次に昇る。しかし、天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、一族から多治比犢養,礼万呂,鷹主と複数の処罰者を出したことを咎められ、公卿として相応しくないとして中納言の任を解かれた。以降は出仕せず邸宅に籠もったという。天平宝字4年(760年)正月21日薨去。享年80。