| TJ05:大俵忠清 | 継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 安保実光 ― 大俵忠清 ― 大田原晴清 | TJ06:大田原晴清 | ● |

| リンク | {OC09}{F782} |
| 大田原晴清 | 大田原愛清 |
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天正13年(1585年)、那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父・綱清や弟・増清と共に参じたのが初陣。天正18年(1590年)に大田原氏の家督を継ぐ。同年の小田原征伐に参じるために駿河国沼津で豊臣秀吉に謁見した際には、弟・増清が既に豊臣秀吉と謁見を済ませていた琴もあって主君・那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領を安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜ったことから備前守を称した。小田原落城後は降服した成田氏長の忍城接収の任を浅野長政に属して務めた。戦後、晴清は遅参の罪を問われて所領を没収された那須氏の再興を願い出るため、資晴の息子・資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の中途で大田原城に着陣した秀吉に陳謝し、その甲斐有ってか那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小さいながらも領主としての復活が叶った。 |
寛政10年(1798年)6月24日、第9代藩主・大田原庸清の3男として生まれる。文化9年(1812年)7月21日に兄で第10代藩主である光清の養子となり、11月22日に兄が隠居したため家督を継ぐ。12月16日に従五位下・飛騨守に叙位・任官する。 |
| 大田原一清 | |
| 文久2年(1862年)に父が死去したため、家督を継いだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では藩は新政府に恭順し、明治元年(1868年)10月21日に一清は従五位下・飛騨守に叙位・任官する。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により大田原藩知事に任じられ、同時に戊辰戦争の功績により5000両を与えられた。版籍奉還ののち住居を移転した。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免官される。慶應義塾を経て明治17年(1884年)の華族令で同年7月8日に子爵を叙爵した。明治20年(1887年)12月に正五位に昇叙する。明治32年(1899年)7月、貴族院補欠選挙当選し、大正7年(1918年)7月まで在任。 1923年(大正12年)5月5日に隠居した。昭和5年(1930年)10月28日に死去した。享年70。 |