<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

TJ05:大俵忠清  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 安保実光 ― 大俵忠清 ― 大田原晴清 TJ06:大田原晴清

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大田原晴清 大田原愛清

 天正13年(1585年)、那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父・綱清や弟・増清と共に参じたのが初陣。天正18年(1590年)に大田原氏の家督を継ぐ。同年の小田原征伐に参じるために駿河国沼津で豊臣秀吉に謁見した際には、弟・増清が既に豊臣秀吉と謁見を済ませていた琴もあって主君・那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領を安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜ったことから備前守を称した。小田原落城後は降服した成田氏長の忍城接収の任を浅野長政に属して務めた。戦後、晴清は遅参の罪を問われて所領を没収された那須氏の再興を願い出るため、資晴の息子・資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の中途で大田原城に着陣した秀吉に陳謝し、その甲斐有ってか那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小さいながらも領主としての復活が叶った。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉景勝の所領の様子を諜報し徳川家康に報告を入れている。同年6月には石川重次,内藤忠清らを奉行とした歩卒1,000人余りを大田原城に迎え、陸奥国境の城郭修造の任にあたった。この時、徳川秀忠から境目の往来禁制のことも重ねて申し付けられている。更に同じ月に援軍として皆川隆庸,服部正成らが大田原城に入り、長筒の大砲十挺が配備された。
 7月24日には大関資増,伊王野資信らと共に下野国小山に参じ家康に謁見。上杉景勝南進の際には大田原城に籠城するよう申し付けられ、家康から正恒の太刀と黄金100両、秀忠から金熨斗付きの長船師光の刀を与えられた。8月25日には家康より書状で景勝が人数を出すに及んだ時は速やかに注進することを命じられている。関ヶ原での東軍勝利後には下野森田に800石を加増され7,900石に加増。慶長6年(1601年)7月に服部正成が大田原城を去る際には対上杉用の備えとして持ち込まれた徳川軍の大砲十挺のうち三挺がそのまま大田原城に与えられた。
 慶長7年(1602年)7月には関ヶ原で西軍に属して改易された陸奥の相馬義胤の居城であった相馬中村城の守備に弟・増清と共にあたり、同年12月25日に下野芳賀郡・那須郡,陸奥磐城郡に4,500石を加増され、合わせて1万2,400石を領する大名となり大田原藩を立藩した。
 慶長19年(1614年)9月に安房国の里見忠義が改易された際には一族と共に館山城の接収を行い、同城の守衛として暫く入った。また同年冬からの大坂冬の陣では徳川方として本多正信に属して参陣し、翌年の大坂夏の陣でも本多正信に属して戦い敵の首を70個挙げた。
 元和3年(1617年)には徳川秀忠の上洛に近従し、京から戻った後の8月から12月まで駿府城の城番を務めた。元和8年(1622年)に出羽国の最上義康が改易された時も弟・増清と共に同年の9月から10月まで山形城に入って守備にあたっている。元和9年(1623年)にも秀忠の上洛に供奉。寛永2年(1625年)に従五位下叙任。寛永4年(1627年)3月には酒井直次と共に陸奥二本松城の城番を務めた。寛永8年(1631年)、江戸で病死した。享年65。

 寛政10年(1798年)6月24日、第9代藩主・大田原庸清の3男として生まれる。文化9年(1812年)7月21日に兄で第10代藩主である光清の養子となり、11月22日に兄が隠居したため家督を継ぐ。12月16日に従五位下・飛騨守に叙位・任官する。
 文化13年(1816年)から文化14年(1817年)まで駿府城加番を務めた。文政9年(1826年)から文政10年(1827年)、および天保3年(1832年)から天保4年(1833年)まで大坂加番を務めた。長男の統太郎が天保6年(1835年)に早世したため、弘化4年(1847年)3月10日に次男・広清に家督を譲って隠居する。直後の4月16日に死去した。享年50。
 3男だったために当初は家督を継ぐ見込みがなく、幼時に光真寺に入って修行に励んだという。そのときの修行が効いたのか、藩主になってからは歴代藩主の中でも寛大で優れた統治を行なったといわれる。また、岡田閑林に絵画を学び、自らも竜川という号を用いた画人であり、体格も5尺8寸(約175.8cm)という堂々としたもので腕力も強く、そのために腕相撲を趣味として、家臣と勝負して負けることは無かったといわれている。

大田原一清
 文久2年(1862年)に父が死去したため、家督を継いだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では藩は新政府に恭順し、明治元年(1868年)10月21日に一清は従五位下・飛騨守に叙位・任官する。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により大田原藩知事に任じられ、同時に戊辰戦争の功績により5000両を与えられた。版籍奉還ののち住居を移転した。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免官される。慶應義塾を経て明治17年(1884年)の華族令で同年7月8日に子爵を叙爵した。明治20年(1887年)12月に正五位に昇叙する。明治32年(1899年)7月、貴族院補欠選挙当選し、大正7年(1918年)7月まで在任。 1923年(大正12年)5月5日に隠居した。昭和5年(1930年)10月28日に死去した。享年70。