<皇孫系氏族>宣化天皇後裔

TJ04:安保実光  継体天皇 ―(宣化天皇)― 多治比 嶋 ― 丹治武綱 ― 安保実光 ― 大俵忠清 TJ05:大俵忠清

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大俵忠清 大俵胤清
 家伝によれば武蔵国阿保郷に住した備前守忠清を祖とする。その子孫が後に下野国那須の大俵に移住して「大俵」を称し、14代資清の代に「大田原」に改姓したという。また、『寛永諸家系図伝』では、武蔵七党の丹党の一族・阿保氏の流れと謳っているが、実際には宣化天皇からの系図ではなく大俵忠清が初祖として書かれている。

 下野国水口城主。永正11年(1514年)、上那須家当主の那須資親の後継者争いでは、大関氏や金丸氏らと共に資親の実子・山田資久を擁立、伊王野氏ら上那須氏の家臣の大部分を味方につけたが、資久は資親の養子・那須資永に殺害される。資永が那須資房や大田原資清らに居城を攻められ自害すると、胤清らは下那須家より那須政資(那須資房の子)を当主として迎え、結果的に那須氏を統一させた。
 ただ、『寛政重修諸家譜』に拠ると、胤清が没したのが永正11年(1514年)2月3日、那須資永の自害を同年の6月7日としており、上那須氏の紛争に決着が着いた時期には既に没していたとも考えられる。 

大田原資清 大田原綱清

 永正11年(1514年)、那須氏15代(上那須家)当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じる。資清は父・胤清と共に資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須家が断絶、資清は那須資房らと共に資永を攻め自刃に追い込んだ。
 資清は智勇に優れ、上那須家のお家騒動の際にも活躍し、資房からは偏諱を受けるほど信任された。しかし、その優れていた智勇を周囲に危険視され、永正15年(1518年)、同僚の大関宗増の讒言を受けて失脚、出家した。僧籍にあった兄・麟道の縁を頼って越前国の曹洞宗大本山永平寺に潜んだ。越前の朝倉氏の保護を受けたとも伝わる。
 天文11年(1542年)、下野国那須に復帰すると大関宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け敗死させ、自身の長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込んだ。さらに福原氏にも次男・資孝を養嗣子として送り込むと、資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の三家を支配し、那須家中でも最有力の実力者となった。那須資房の子・政資に自分の娘を娶わせるなど、主家との繋がりも深めた。
 天文14年(1545年)までに水口城から大田原城へと居城を移し、姓を「大俵氏」から「大田原氏」へと改めている。また、同年には光真寺を開基し、下野塩谷の長興寺の3代目住職であった実兄・麟道和尚を迎えて300石(のち500石)という破格の寺領を与えて保護し、以後、光真寺は大田原氏代々の菩提寺となった。
 外孫である資胤の家督相続を図って、那須政資の子・高資と対立し、天文20年(1551年)、芳賀高定の調略に加担した千本資俊により高資が誘殺されると、資胤を当主に据え権力を奮った。 永禄3年(1560年)、死去。  

 大田原氏は那須七騎の一つ。天文7年(1538年)、大田原資清の3男として誕生。天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げたとされている。永禄3年(1560年)、父・資清が没すると家督を継いだ。
 家督を継承すると、しばしば大関氏ら上那須衆と共に、主君・那須氏と対立したが、永禄11年(1568年)に和睦が成立すると、下野宇都宮氏を初めとする周辺勢力と戦い、主家を盛り立てた。天正13年(1585年)、那須資晴と共に薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破った。同年暮れには資晴の許しを得て大関高増・福原資孝の兄2人と図り、千本資俊・資政父子を謀殺し、その遺領を分配した。
 天正18年(1590年)、病に倒れたために嫡男・晴清に家督を譲った後、死去。