永享10年(1438年)の永享の乱の際には、足利持氏の側近として関東管領・山内上杉家と対立して榎下城に拠った。大手の合戦では味方が勝利していたが、幕府方の今川軍が足柄山を越えて相州西郡まで押し寄せたという知らせが来たため、足利持氏方の大将として早川尻において幕府軍と戦った。 『永享記』によると、9月27日に相州早川尻にて、矢を一筋射交わす暇もなく大軍の中に駆け入って激しく戦ったが、敵が余りにも大軍であったため多くの戦死者、逃亡者を出し、頼りにしていた肥田勘解由左衛門,蒲田弥次郎,足立,荻窪といった一族若党も討死した。その後、持氏方は相模の海老名まで退き、鎌倉に落ちようとしたが、途中で上杉憲実の家宰・長尾忠政・景仲の軍と遭遇し、持氏は幕府への恭順を誓って投降、出家した。 憲直や一色直兼ら持氏の近臣は恭順のため相模金沢の称名寺に入ったが許されず、幕府軍の攻撃を受け、子・憲家と共に自害した。
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憲方は永谷郷内に徳翁寺を創建している。高野山桜地院の『鎌倉御所方過去帳』に「相州永谷上杉殿」憲方が記載され、享禄3年(1530年)に没したことが知られる。憲方は後北条氏に属し、本領永谷を安堵され、玉縄城主・北条氏時,為昌に従った。とはいえ、格式の高い家柄でもあり、後北条氏は普通の家臣とは別格として扱い、宅間殿と尊称をつけて呼ばれていた。 |