<藤原氏>京家

F101:藤原麻呂  藤原鎌足 ― 藤原麻呂 ― 藤原浜成 F102:藤原浜成

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藤原浜成 藤原継彦

 藤原麻呂の嫡男として、京家の中心的人物であったが、年齢的に一世代近く年上であった他の3家(南家・北家・式家)の二世世代に比べてその昇進は常に一歩後れをとらざるをえなかった。
 孝謙,淳仁朝にかけて、大蔵少輔,大判事,民部大輔などを歴任するものの、昇進は停滞し従五位下に長らく留まるが、天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱において孝謙上皇側に味方し、同年10月には一挙に従四位下にまで昇進する。のち刑部卿を経て、宝亀3年(772年)49歳で従四位上・参議に叙任され公卿に列す。
 宝亀4年(773年)、光仁天皇の皇太子であった他戸親王が廃され、新たな皇太子を選定する際、光仁天皇の山部親王(のち桓武天皇)を推す藤原百川に対し、浜成は山部の母(高野新笠)が渡来系氏族(和氏)の出身であることを問題視し、山部の異母弟で母(尾張女王)が皇族出身である薭田親王を推挙したとされる。
 桓武天皇の即位直後の天応(781年)4月に大宰帥に任ぜられて大宰府に下向したが、6月になると歴任した官職で善政を聞いたことがないとの理由で、大宰員外帥に降格された。そして従者も10人から3人に、俸禄も3分の1に減らされ、職務の執行も停止を命じられ、大宰大弐の佐伯今毛人が代行した。これは即位した桓武天皇による、反対する勢力への見せしめ、さらにはかつて自らの立太子に反対したことに対する報復であった可能性が高い。天応2年(782年)閏正月には、娘・法壱の夫である氷上川継が氷上川継の乱を起こすと、浜成も連座し参議,侍従を解任された。その後、中央政界に復帰できないまま、延暦9年(790年)に大宰府で薨去した。享年67。
 万葉歌人であった父麻呂の血を受け継いで、浜成も歌人であり、宝亀3年(772年)現存する日本最古の歌学書である『歌経標式』を光仁天皇に撰上している。 

 宝亀11年(780年)正六位上から従五位下に叙せられる。天応元年(781年)兵部少輔に任ぜられるが、翌天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱において、父・浜成とともに連座して解官となる。のち赦されて、桓武朝では、延暦8年(789年)主計頭、延暦18年(799年)左少弁、延暦24年(805年)左中弁・讃岐守、延暦25年(806年)民部大輔を歴任する。 平城朝では治部大輔・民部大輔を歴任し、大同3年(808年)には正五位下に叙せられる。
 嵯峨朝に入っても、大同5年(810年)従四位下、弘仁5年(814年)従四位上、弘仁11年(820年)正四位下と順調に昇進し、弘仁13年(822年)には従三位に昇叙され公卿に列した。またこの間、山城守・刑部卿を歴任している。 

藤原貞敏 藤原大継

 承和2年(835年)従六位下・美作掾の時、遣唐使准判官に任ぜられ、承和5年(838年)入唐し長安に赴く。貞敏は劉二郎(一説に廉承武)という琵琶の名人に教えを請い、2,3ヶ月の間に妙曲を習得し、劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈った。また、劉二郎は貞敏の才能を見込んで、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘は琴や箏に優れ、貞敏は新曲を数曲学んだという。承和6年(839年)琵琶の名器「玄象」「青山」(ともに仁明天皇の御物)及び琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国する。なお、一説では貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう。 帰国後、承和7年(840年)駿河介、承和8年(842年)主殿助次いで雅楽助を経て、承和9年(842年)正六位上から従五位下に叙せられる。のち、承和14年(847年)雅楽頭、斉衡3年(856年)備前介、天安2年(858年)掃部頭、貞観6年(864年)備中介を歴任。この間、天安元年(857年)従五位上に昇叙している。
 貞観9年(867年)10月4日死去。最終官位は従五位上行掃部頭。享年61。
 若い頃から音楽を非常に愛好し、好んで鼓や琴を学んだが、琵琶が最も優れていた。他に才芸ははなかったが、琵琶の演奏をもって三代(仁明・文徳・清和)の天皇に仕えた。特別な寵遇を受けることはなかったが、その名声は高かった。また、多くの琵琶の秘曲を日本にもたらしたことから、琵琶の祖とされる。

 従五位下に叙せられたのち、宝亀8年(777年)少納言、宝亀10年(779年)伊予介に任ぜられる。 桓武朝に入り、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に伴い父・浜成が連座して参議を解任されると、大継もその影響を受け、桓武朝の前半は官職に就いた記録がない。延暦8年(789年)大判事に任ぜられ官界に復帰すると、のち宮内少輔・備前介を歴任する。延暦11年(792年)後宮に仕えていた娘の河子が桓武天皇の皇子・仲野親王を儲けたのちは順調に昇進し、延暦25年(806年)迄に従四位下に至った。この間、下総守,大蔵大輔,伊勢守を歴任している。
 平城朝では左京大夫,典薬頭,神祇伯を歴任し、大同3年(808年)には従四位上に叙せられている。大同5年(810年)1月4日卒去。

藤原河子 直江信綱
 祖父の藤原浜成は参議にまで昇ったが、氷上川継の乱に連座し、父・大継もその影響により要職につけず、藤原京家は衰退の一途を辿っていた。そんな時勢の中、河子は桓武天皇の後宮に入り、仲野親王をはじめ5人の親王・内親王を生んだ。この河子の入内は、祖父の名誉回復のような影響をもたらしたのではないかとされている。  元は総社長尾家の出身で、長尾顕方の9男とも長尾景秀の次男ともいわれる。上杉家の重臣・直江景綱の娘・船と結婚し、婿養子となって直江与兵衛尉信綱と名乗る。天正5年(1577年)3月5日に養父・景綱が死去すると、直江氏の名跡と奉行職を継ぎ馬廻として上杉謙信に仕えた。天正5年 (1577年)9月23日、手取川の戦いに参戦。 天正6年(1578年)の謙信急死後に勃発した御館の乱では上杉景勝方に付いて、景勝と共に春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江氏一族や配下の与板衆を動員して周辺の上杉景虎派の討伐を進めた。この功により、乱後に新当主となった景勝のもとで重用されたが、天正9年(1581年)9月9日、重臣・河田長親の遺領を巡る諍いにより春日山城内で会談中のところを毛利秀広に襲われ、山崎秀仙と共に殺害された。この時、信綱は身を守ろうと脇差を抜いて斬りかかったが、抵抗むなしく逆に返り討ちにあったという。 信綱の死後、妻の船は景勝の命令により景勝腹心の上田衆・樋口兼続と再婚させられ、直江家は兼続を当主として存続することになった。なお、信綱と船の間の子であるかは定かではないが、船が養母である子(後の清融阿闍梨)がいたが、兼続を婿として迎える頃に何らかの理由で出家させたのではないかといわれている。 
直江兼続

 米沢藩(主君・上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 ,立物は「愛字に端雲」。 天正6年(1578年)謙信急死後に起こった上杉家の後継者争い「御館の乱」が収束し、戦後処理が行われる天正8年(1580年)から、景勝への取次役など側近としての活動が確認される。
 天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。
 天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の上杉家臣たちにとっては景勝と兼続の二頭政治に近いものであった。
 新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だったために豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。天正15年10月23日、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、10月28日には新発田城も落城し、乱は収束した。
 天正16年8月17日(1588年10月7日)には景勝に従って上京し須田満親・色部真長らと共に豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基,難波田憲次,若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。
 安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。その元となったのが青苧と呼ばれる衣料用繊維で本座といい、魚沼郡に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重なものであった。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。京都へ輸出することを献策したのは、西村久左衛門乗安であった。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。
 慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。兼続は国替えの際、前半歳の租税を徴したので、後任の堀家は返還を求めたが、これに応じなかった。またこの国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。
 秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するようになる。景勝・兼続主従は、前領主・蒲生家の居城若松城に代わり、新しく神指城の築城を始めており、これは戦のためではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったとされる。しかし、一方で兼続は本来国替えの引継ぎで半分残していかなければならない年貢を、景勝に無断で全て会津へ持ち出しており、年貢を持ち逃げされてしまった堀秀治が返還を求めても無視した結果、怒った秀治が上杉家謀反を家康に訴えると、家康は上杉家を詰問する。このとき家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった返書直江状の文面は偽書もしくは偽文書ではないが、後世に大幅に改竄された可能性が指摘されているものの、家康を激怒させた兼続の書状が存在したことは事実のようである。
 奉行衆の諌止もあってか直江状のあとも上洛が計画されたが、讒言の真偽の究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。兼続は越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていたが、三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。その後、一揆勢と交戦していた秀治の率いた軍が撤退し、東軍に所属する前田利長を攻撃する構えを見せ、三成から「堀秀治が西軍側についた」という知らせを受けた事で、兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令して、東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人を率いて侵攻した。しかし、これは秀治の策略で、利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって一揆勢は壊滅する事になってしまった。
 最上義光と上杉家は庄内地方をめぐり争った経緯もあり、関係は悪かった。さらに、上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知した兼続は機先を制した。義光は戦力集中のため一部の支城の放棄を命じたが、畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。
 上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した。大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった(長谷堂城の戦い)。なお、兼続は伊達・最上を従えて関東入りする計画であったことが書状から分かっており、最上攻めは力攻めではなく大軍により最上を屈服させるのが目的であり、撤退も関ヶ原の敗報を受けたのではなく、上方の情勢を入手して反撃が激しくなった伊達・最上の動きに疑念を持った兼続が独自の判断で決断したとの説もある。
 その頃、美濃国では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが、水原親憲,前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛されている。しかし結果として、上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていたが、関ヶ原本戦の決着が一日でついてしまったこともあり、実現できないまま降伏へ方針を転換することとなる。
 慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉家の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)重光に改名する。兼続(=重光)は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた。米沢城下を流れる最上川上流には3kmにわたって巨石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの谷地川原堤防は「直江石堤」と呼ばれている。また新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めた。また、町を整備し、殖産興業,鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。
 上杉家と徳川家の融和を図るため、徳川家重臣・本多正信の次男・政重を兼続の娘の婿養子にして交流を持ち、慶長14年(1609年)にはその正信の取り成しで3分の1にあたる10万石分の軍役が免除されるなど、上杉家に大きく貢献している。のちに政重との養子縁組が解消された後も本多家との交流は続いた。慶長19年(1614年)正月には松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下に、主君景勝とともに天下普請を行なった。同年の大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。
 元和5年(1619年)5月から9月にかけて景勝が徳川秀忠に従って上洛した際、景勝は兼続に命じ、将士に法令を頒布した。そして12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。景勝は兼続が病床に臥すと、大いにこれを憂え、医療の最善を尽くさせたという。また兼続の死去を知り幕府は賭典銀50枚を下賜した。