<藤原氏>式家

F001:藤原鎌足  藤原鎌足 ― 藤原宇合 F201:藤原宇合

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藤原宇合 藤原広嗣 藤原良継(宿奈麻呂)

 霊亀2年(716年)8月遣唐副使に任ぜられるが、これが史料の初見である。養老元年(717年)入唐し翌年10月に帰国する。初名は「馬養」であったが遣唐使の副使として入唐後「宇合」に改める。養老3年(719年)正月には遣唐副使の功により正五位下から正五位上となる。同年7月の按察使設置時に常陸守として安房、上総及び下総3国の按察使に任命される。養老5年(721年)に四階進んで正四位上に昇叙される。
 神亀元年(724年)4月式部卿の官職にあったが、持節大将軍に任命され出兵、蝦夷の反乱を平定し11月帰還。この功により翌年位階勲等を進められ従三位勲二等となる。神亀3年(726年)式部卿のまま知造難波宮事に任ぜられ後期難波宮造営の責任者となる。  この後天平元年(729年)の長屋王の変の時も式部卿として対応。天平4年(732年)には、参議・式部卿として西海道節度使となる。この時の詩が『懐風藻』にあり、高橋虫麻呂の見送る歌が『万葉集』に残る。なお宝亀11年(780年)に宇合の時の警固式を用いるようにとの命令が出ている。
 天平9年(737年)8月5日薨去。最終官位は参議式部卿兼大宰帥正三位。

 聖武天皇の時代に朝廷において藤原四兄弟が相次いで亡くなった天平9年(737年)の9月28日に従六位上から従五位下に昇叙される。天平10年(738年)4月22日、大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降に式部少輔に任官されている。朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。
 広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。
 広嗣は勅に従わず、天平12年(740年)弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。これによって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった。
 広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する鏡神社はその勧請を受けたものである。

 父の死後、天平12年(740年)に発生した兄・広嗣の反乱(藤原広嗣の乱)に連座して伊豆へと流罪となる。天平14年(742年)に罪を赦され少判事に任ぜられ、天平18年(746年)正六位下から従五位下に叙せられる。
 その後、越前守,上総守,相模守,上野守と地方官や、民部少輔,右中弁,造宮大輔と京官を歴任するが実績を上げることができなかった。加えて、南家・北家に比べると式家の衰退振りは著しく、宿奈麻呂は不遇の日々を送っていた。当時は南家の藤原仲麻呂の絶頂期であり、天平宝字6年(762年)には仲麻呂の3人の息子(真先・訓儒麻呂・朝狩)が参議となる一方、宿奈麻呂は47歳にして未だに従五位上の位階に甘んじていた。そのような状況の中、宿奈麻呂は佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも計画は仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763年)4人は逮捕されるが、宿奈麻呂は単独犯行を主張、八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪された。
天平宝字8年(764年)9月に仲麻呂が反乱を起こすと(藤原仲麻呂の乱)、宿奈麻呂は詔勅を受け兵数百人を率いてこれを討ち、従五位上から従四位下に昇叙されるとともに勲四等を叙勲され、さらに同年10月には正四位上・大宰帥に叙任された。天平神護2年(766年)には従三位に昇進。参議に任ぜられた石上宅嗣とともに公卿に列す。
 神護景雲4年(770年)参議に昇進してまもなく称徳天皇が崩御、皇嗣選定にあたっては藤原北家の永手らとともに白壁王(光仁天皇)の擁立に尽力し、正三位・中納言に叙任された。同年良継に改名。宝亀2年(771年)左大臣・藤原永手が死去すると光仁天皇擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣・大中臣清麻呂に次いで、太政官の次席の座を占める。この頃になると権力を一手に握って思いのままに政治を行い、官人の人事も自由にしたという。宝亀8年(777年)内大臣に任ぜられるがまもなく没し、即日従一位の位階を贈られた。

藤原縄手(綱手) 藤原菅継 藤原田麻呂
 生年は霊亀2年(716年)~ 養老6年(722年)頃と推測されている。天平12年(740年)北九州において長兄藤原広嗣の反乱に加わり、5000の兵を率いて豊後国から進軍する。しかし乱は大野東人率いる官軍によって敢えなく鎮圧され、捕虜となった綱手は、同年11月1日に肥前国松浦にて広嗣ともども誅殺された(藤原広嗣の乱)。

 宝亀4年(773年)従六位下から一挙に4階級昇進し従五位下に叙せられ、翌宝亀5年(774年)常陸介に任ぜられる。宝亀8年(777年)兵部少輔。天応元年(781年)4月光仁天皇が危篤に陥ると、固関のために越前国愛発関に遣わされた。
 桓武朝に入り、延暦2年(783年)従五位上に叙せられると、同年主計頭次いで右大舎人頭、翌延暦3年(784年)治部大輔次いで大宰少弐と、短期間の内に内外の官職を転々とする。こののち、延暦5年(786年)正五位下,延暦8年(789年)従四位下・右京大夫に叙任されるなど順調に昇進する一方、同年12月の皇太后・高野新笠の葬儀の御葬司を、延暦9年(790年)皇后・藤原乙牟漏の葬儀の御葬司をそれぞれ務めた。
 延暦10年(791年)5月20日卒去。最終官位は右京大夫従四位下。

 天平12年(740年)長兄が起こした藤原広嗣の乱に連座して隠岐国に配流。天平14年(742年)罪を赦されて帰京するが、政治とは関わることなく、蜷淵(明日香村稲淵)の山中に隠棲する。仏教への信仰心が厚く修行に努めた。
 天平宝字5年(761年)従五位下次いで従五位上・南海道節度使副に叙任され、天平宝字7年(763年)美濃守次いで陸奥出羽按察使と藤原仲麻呂政権下では主に地方官を務める。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱ののちは、右中弁,外衛中/大将,大宰大弐,兵部卿と要職を歴任。天平神護2年(766年)には従四位上・参議に叙任され、公卿に列した。
 その後、称徳天皇の崩御に伴う天智系の光仁天皇の即位と道鏡の失脚や、皇太子・他戸親王の廃太子事件が発生するも、政争に巻き込まれることもなく、光仁朝末の宝亀11年(780年)に正三位・中納言、桓武天皇が即位した翌天応元年(781年)には、右大臣の大中臣清麻呂,大納言の石上宅嗣の死去に伴い、大納言兼近衛大将へと順調に昇進する。
 天応2年(782年)左大臣・藤原魚名の失脚に伴い、従二位・右大臣として太政官の首班に立つが、翌延暦2年(783年)3月19日薨去。享年62。
 藤原田麻呂の長男は田上二十七代と称され、正五位下に叙されている。よって、藤原田麻呂の子孫は“田上”という姓名になった。