<藤原氏>

NT21:中臣御食子  中臣阿麻毘舎 ― 中臣御食子 ― 藤原鎌足 F001:藤原鎌足

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藤原鎌足 藤原定恵 藤原不比等

 出生地は大和国高市郡藤原とされる。早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
 密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。
645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。647年の新冠位制度では大錦冠を授与された。649年に梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠に昇格した。669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いている。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
なお、鎌足の業績ははっきりしていない。

 飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。出家前の俗名は「中臣真人」。
 653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。665年(天暦年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、同年12月大原(奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。高句麗の僧道賢が誄をつくっている。
 藤原氏の前身である「中臣氏」は神祇に関わり、仏教伝来に際しては中臣鎌子,中臣勝海らの強硬な反対者を出している。しかも鎌足は当時の重臣であり、その長男である人物が出家するというのは、熱心な仏教信者であった蘇我氏においてもなかった前代未聞の事態であった。これに関しては定恵の出生に関わる謎がある。

 文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。
 不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤との説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説を伝える
壬申の乱の後、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。草壁皇子の息子、軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となった。
 不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。
 不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。