<皇孫系氏族>神武天皇後裔

K002:神八井耳命  多  稲見 OO01:多 稲見

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多 品治 太 安万呂

 壬申の乱が勃発したとき、多品治は美濃国の安八磨郡の湯沐令であった。皇子の生計を支えるために設定された一種の封戸を管理する役職である。
  大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依,和珥部君手,身毛広は3人で美濃国に先行するよう命じた。彼らの任務は多品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。
  美濃国に入った大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手に分けて、一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ、もう一軍を直接近江国に入らせることを命じた。多品治は、紀阿閉麻呂,三輪子首,置始菟とともに大和に向かう軍を率いた。この後で品治は別に命令を受け取り、3千の兵とともに莿萩野に駐屯することになった。莿萩野の位置については、伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部との説が有力であるが、いずれにせよ大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃と続く連絡線のうち伊賀を守る位置である。これと別に、田中足麻呂が近江と伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。
   これに対して大友皇子側の将、田辺小隅は、5日に倉歴に夜襲をかけた。守備兵は敗走し、足麻呂は一人逃れた。小隅の軍は翌日莿萩野を襲おうとしたが、多品治はこれを阻止し、精兵をもって追撃した。小隅は一人免れて逃げた。以後大友方の軍勢が来ることはなかった。

 文武朝の大宝4年(704年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵する。
 和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進する。同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した。元明朝末の和銅8年(715年)従四位下に至る。
 元正朝の霊亀2年(716年)太氏(多氏)の氏長となる。またこの間、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったとされる。元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去。最終官位は民部卿従四位下。
 明治44年(1911年)になって従三位に追陞されている。

多 政方

多 資忠

 1017(寛仁元)年9月24日、石清水八幡宮での競馬の後の舞楽で、納曽利を舞い、舞曲神妙として摂政藤原道長から被物をもらっている。
  1021(治安元)年3月29日、無量寿院で百余体の絵仏の供養の際に、関白藤原頼通から単を脱ぎ与えられている。
  1023(治安3)年閏9月23日、太皇太后藤原彰子の母源倫子の60歳の長寿の祝いに関連して、そこで舞われる童舞納曽利の師である舞師右将曹政方に厩馬を給うとある。また、同年10月13日の東寺での諷誦を修した時、一鼓を打ち、童舞納曽利の師として藤原道長から衣を給わっている。
  1040(長久元)年11月16日、内侍所御神楽で秘曲の宮人曲を歌った勧賞として、初めて朝臣を賜った。年月日は不明であるが、周防守に任ぜられている。
  圓融寺供養に好茂が輪台を舞って以降、近くは正方が光高と青海波を舞ったとある。なお、大神公持(多公用の誤りかと思われる)の時より左右の舞を分けたが、重要な胡飲酒・採桑老・輪台・青海波・還城楽なども右の舞人(多氏)が取り込んで、左に渡って舞っていたところ、狛光末(光季)が青海波だけは無理を言って給わるよう言ったため、多正方が光末に伝え、それ以降、左方が舞うとある。また、時期は不明だが、大宮の右大臣(藤原俊家)が殿上人の時、紫宸殿南の右近の桜を眺めながら桜人という催馬楽を歌ったところ、政方も宿直中で地久の破を舞い、その後蓑山の歌で地久の急を舞ったとされる。なお文中に「龍吟抄には堀河右府(藤原)頼宗なり」とある。ただし、『教訓抄』には(藤原)公任大納言と多政資の話とされる。1045(寛徳2)年死亡したとされる。

 伯父の政資の後を継ぐ。実父節資の死後、右一者となったようで一者15年とされる。
  1088(寛治2)年1月19日、大炊殿への朝覲行幸の時に舞を舞い、勧賞として、左将曹を仰せ下されたとある。『中右記』には、本により右近将監または左近将曹とある。『地下家伝』には、同日右近将曹とある。
  1090(寛治4)年1月3日、朝覲行幸の際、納曽利を舞って将監に転任とある。なお、納曽利は(山村)正連と舞ったとある。
  堀河天皇の神楽歌の御師範となり、『古事談』によると、天皇は(清涼殿殿上間の)御椅子にお座りになられ、資忠はすぐ南にある小庭におり、その間の小板敷きに源師時が控えて伝え、秘曲は清涼殿の萩戸において直接奉ったとある。ただし、『体源鈔』に多節茂の話として、資忠が所労のため代わりに子の時方(節方)に楽の拍子を取らせた時、秘説を伝えているのを聞いたが、その後近方が堀河天皇より伝授を賜ったので聞き合わせたところ、以前に聞いたのとは似ていなかった。秘調は天皇にも残して奉らず、秘していたのかともある。
  1100(康和2)年6月15日あるいは16日、山村正連により殺害された。55歳。