<皇孫系氏族>神武天皇後裔

OO01:多 稲見  多  稲見 ー 多  近方 OO04:多 近方

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多 近方 多 近久 多 久方

 1100(康和2)年6月、父資忠と兄節方が殺害される。15歳にして父を亡くしたため、右舞は東大寺職事の紀末延から、神楽歌は秘曲も含め、堀河天皇から伝えられた。採桑老は天王寺の楽人である秦公貞が勅定により伝えた。
  1102(康和4)年1月2日の朝覲行幸の際、忠方・近方兄弟二人で納曽利を舞い、10余歳ながら舞体は絶妙で、家風を受け継ぎ、今日初めて奏したが見た人皆感動したとある。1103(康和5)年、内侍所御神楽で初めて拍子を取る。
  1108(天仁元)年11月18日の清書堂御神楽の習礼で、召人に「右近府生近方」とあり、23日に清書堂御神楽は行われ、27日、神楽の師として藤原宗忠が馬を与えたとある。1114(永久2)年12月、右近将曹に任ぜられる。右近府生からの転任である。1123(保安4)年12月1日、上皇たちの前で採桑老を舞い、控えていた師の秦公貞も後で舞った。翌年1月の朝覲行幸でも舞っている。1131(天承元)年1月2日、朝覲行幸での採桑老の勧賞に右将監に任ぜられた。2人が右近将監となった初例であり、楽所に3人の将監が並び立つ初例と『楽所補任』にある。なお、もう一人の右近将監は兄の忠方、左近将監は狛光則。
  1136(保延2)年1月5日、朝覲行幸の時、前年に兄で右一者だった忠方が逝去したため、近方を一者としたとある。同年3月23日の勝光明院供養の日に貴徳で栄爵、10月15日の法金剛院御塔供養の日にも貴徳で賞を得たとある。1139年1月3日、朝覲行幸での貴徳の勧賞に、2月、従五位下に叙せられた。10月26日、成勝寺供養の時に勧賞を得たが、子の右近府生成方に譲り、彼を将曹に任じてもらった。1147(久安3)年8月11日、鳥羽殿御堂供養の日に貴徳の勧賞で、一階を賜る。1152(仁平2)年4月27日、出家し、同年5月4日死亡。65歳。一者17年。

 はじめ、崇徳上皇の武者所におり、保元物語にも名が見える。1158(保元3)年、内舎人となり楽所に補任される。1160(永暦元)年には、右近将曹とある1182(寿永元)年、59歳で右近将監となる。1199(正治元)年11月27日の二条殿への朝覲行幸において、76歳で五位を賜る。
  1211(建暦元)年、父近方の死に伴い、89歳で一者となる。なお、近方の子近節が、近久は舞も神楽も秘曲を知らないので一者はおかしいと訴えたとある。1213(建保元)年3月11日、朝覲行幸で長保楽を舞い、勧賞を得、26日九重塔供養でもまた勧賞を得る。同年10月18日死亡。

 1212(建暦2)年4月9日、34歳で右近将監となる。祖父の近久が将監を退任したためとある。1220(承久2)年9月19日、上皇の臨時舞御覧で、初めて採桑老を舞うが、変なところがあったようで、近久の相承に疑義が出されていたようである。同年同月25日、源定仲から胡飲酒を習い、太上天皇の御前で舞う。その後の29日にも禁裏で内々に舞っている。1222(承久4)年1月25日、持明院において法皇の御前でも胡飲酒を内々に舞い、禄を賜っている。
  1232(貞永元)年の段階で将監とあり、右二者、胡飲酒・採桑老を舞うと注されている。1234(文暦元)年、御隨身の秦久清と争論となり、2月10日の八幡での御楽を欠席したため、朝勘を蒙るが、9月7日、許されている。1236(嘉禎2)年8月頃より、所労により出仕できないとある。1238(暦仁元)年1月22日、従五位下に叙留とある。
  1244(寛元2)年、好氏の死後、右一者となったと思われる。1250(建長2)年10月13日、鳥羽殿への朝覲行幸において、一階を賜る。70歳。『体源鈔』には従五位上は多氏の初例で、退宿徳の賞とある。1261(弘長元)年4月13日、死亡。81歳。右一者18年。