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石谷氏は美濃国方県郡石谷村を本貫地とし、土岐氏の支流で清和源氏の流れを汲む。石谷氏はもともと足利将軍家に代々仕えた奉公衆の1つである(光政が13代将軍・足利義輝の庶子であるともされるが、年代からは誤伝とされる)。 光政は男子に恵まれなかったので、同族の土岐氏支流の明智氏の縁者である斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として迎えて、長女を娶らせた。永禄6年(1563年) には蜷川親長の仲介で、次女を土佐国の戦国大名・長宗我部元親に嫁がせた。 永禄8年(1565年)、義輝が松永久秀,三好三人衆に暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。以後、娘婿である元親に仕え、実家の斎藤氏を頼って明智光秀の家臣となった頼辰を介して、織田信長との取次役を務めた。 没年も不明だが、『石谷家文書』にある天正12年(1584年)付けの細川信良の書状が空然・頼辰の連名の宛名であることから、この頃までは生存していたようだ。
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美濃国の斎藤利賢の長男として誕生した。初め孫九郎と名乗る。実母の再婚相手である石谷光政(空然)の養嗣子となって、その娘を娶る。その後、奉公衆であった義父の光政の後を継いで、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた。なお、母方の家で、妹の嫁ぎ先でもある蜷川家は室町幕府政所代を世襲した一族である。 義昭が織田信長に京都を追われると、織田氏家臣の明智光秀に仕えた。信長と土佐国の戦国大名・長宗我部元親が四国の領有を巡って対立すると、光秀の使者として義弟の元親の説得に赴いたが、成功しなかった。その後、主君・光秀が本能寺の変を起こし山崎の戦いにて敗死したため、頼辰は妹の嫁ぎ先である土佐へ落ち延びた。長宗我部氏に仕え、中央での経験を買われて重用されて、その給地は四十四町にのぼり、娘は従兄にあたる元親の子・長宗我部信親(頼辰の甥)に嫁いだ。しかし天正14年(1587年)12月12日、戸次川の戦いで女婿・信親と共に戦死した。
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