<藤原氏>南家

F061:藤原巨勢麻呂  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原巨勢麻呂 ー 藤原真作 F065:藤原真作

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藤原富士麻呂 藤原敏行

 淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇)に伴い、従五位下・右近衛少将に叙任された。承和4年(837年)阿波介を兼ねる。
 承和9年(842年)正月に従五位上に昇叙される。同年9月には伴健岑と橘逸勢が謀反を起こすが、右馬助・佐伯宮成と共に近衛兵を率いて、謀反人を包囲して捕縛に成功(承和の変)。この功労により、富士麻呂は正五位下・右近衛中将に昇進する。承和12年(845年)従四位下。
 承和13年(846年)に陸奧出羽按察使として東北地方に下向するが、赴任にあたり清涼殿に招かれ仁明天皇から鄭重な恩詔を受け、被衣と綵帛を賜与された。嘉祥2年(849年)冬に平安京に帰還するが、翌嘉祥3年(850年)春に背中に悪瘡を患い、2月16日に卒去。享年47。
 若い頃から大学で学び、広く史漢に通じた一方、弓馬にも秀でた。性格は温雅であった。長く近衛府の武官を務めたが、よく士卒の歓心を得ることができ、仁明天皇から将軍としての才があると評された。死去の際、人々はみな悲しみ惜しんだという。

 

 三十六歌仙の一人。貞観8年(866年)少内記。大内記,蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。
 宇多朝に入ると、仁和4年(888年)五位蔵人に任ぜられるが1年ほどで病気により辞任している。寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭も半年ほどで辞任した。またこの間、春宮大進/亮として春宮・敦仁親王にも仕えている。
 寛平9年(897年)7月に敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。昌泰4年(901年)または延喜7年(907年)卒去。
 小野道風が古今最高の能書家として空海と共に名を挙げ、明治の三筆の一人である中林梧竹も常日頃から空海と敏行の書跡を携帯していたという。
 神護寺鐘銘は、隷書をよくした小野篁および紀夏井の流れを汲んだ勁健な書法である。なお、この銘文の序は橘広相、銘は菅原是善、書は敏行と、当時の三名家がそれぞれ成したので、古来「三絶の鐘」と呼ばれている。この神護寺の梵鐘は国宝。

藤原伊衡 藤原興世

 宇多朝において春宮帯刀舎人を務め、春宮大進次いで春宮亮を務めた父・敏行と共に皇太子・敦仁親王に仕える。寛平9年(897年)7月に敦仁親王が践祚(醍醐天皇)すると、帯刀舎人としての功労により右兵衛少尉に任ぜられるが、9月に敏行が右兵衛督となったため、伊衡は左衛門権少尉に遷る。のち、六位蔵人も歴任した。
 順調に昇進し、承平4年12月(935年1月)参議に任ぜられて公卿に列す。のち議政官として、承平6年(936年)刑部卿、承平7年(937年)左兵衛督を兼帯した。天慶元年12月17日(939年1月)卒去。享年63。
 勅撰歌人として『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に11首が入首している。酒豪としての話も残る。延喜11年(911年)6月15日に宇多上皇の主催で行われた酒合戦に酒豪として招聘され参加した際、他の参加者が泥酔・嘔吐する中、伊衡がただ一人乱れることなく10杯を呑んだところで止められ優勝。賞として駿馬を与えられたという。

 元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介・良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守・藤原興世も逃亡してしまう。

 

 

藤原三成 藤原岳守

 弘仁11年(820年)従五位下に叙爵し、まもなく主殿頭に任ぜられる。淳和朝では春宮亮として皇太子・正良親王(のち仁明天皇)に仕える一方、天長2年(825年)従五位上次いで正五位下、天長7年(830年)従四位下に叙せられるなど順調に昇進した。しかし、正良親王の即位を見ることなく、同年4月30日卒去。享年45。
 人物として、生まれつき慎み深くよく注意の行き届く性格で、誤解を受ける言動をすることはなかった。当時の琴の名手であり、三成の没後に誰もその後を継ぐことができないほどと評されたという。また、漢詩人として『経国集』に漢詩作品が採録されている。

 若くして大学で学ぶが、史伝を読み漁り、たいそう草隷も習ったという。天長元年(824年)より皇太子・正良親王の身近に仕えるが、物事に応対する際の立ち居振る舞いが優雅であるとして、正良親王に重んじられたという。天長3年(826年)内舎人に任ぜられる。
 天長10年(833年)正良親王が即位(仁明天皇)すると、右近衛将監次いで内蔵助を務め、讃岐介,左馬助を経て、承和5年(838年)左少弁に任ぜられるが、耳の不具合で朝議の聴受ができず、弁官の業務遂行が困難となったため、まもなく大宰少弐に転任する。大宰府に赴任中に、唐人の貨物の内容を調査した際に得た元稹と白居易の詩筆を天皇に献上したところ、天皇は非常に喜び、承和6年(839年)従五位上に昇叙された。
 その後、左兵衛佐,左近衛少将,右近衛中将と昇進するが、承和15年(848年)近江守として地方官に転じる。地方官として任地の人々に慕われ、任期を終えたのちも栄達を望まなかったことから、当時の論者に賞賛されたという。仁寿元年(851年)9月26日卒去。享年44。

藤原岳雄 藤原正範

 承和8年(841年)従五位下に叙爵し、のち左衛門権佐に任ぜられる。
 承和9年(842年)に発生した承和の変では、右馬助・佐伯宮成らと共に近衛兵を率いて、大納言・藤原愛発、中納言・藤原吉野、参議・文室秋津を呼び出して拘束し幽閉する役目を果たしている。
 承和10年(843年)には従者から謀反を企んでいると告発されて左衛門府に拘禁されていた文室宮田麻呂の尋問を担当し、宮田麻呂は伊豆国への流罪となった。
 その後、左少弁を兼ねる。承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善愷による同寺壇越の少納言・登美直名に対する告訴を他の弁官と共に審理し、直名を遠流とする。この訴訟の手続きを巡って、翌承和13年(846年)になってから審理に参加しなかった右少弁・伴善男が審理を行った5名の弁官を弾劾する。結局この弾劾は認められ、岳雄は他の弁官と共に私罪にあたるとして解官の上で贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件))。さらに承和14年(847年)には弾劾された4人の元弁官と共に位記を破毀されている。
 翌嘉祥元年12月(849年1月)には事件で位記を破毀された元弁官が本位より一階降格した上で再叙されているが、『続日本後紀』に岳雄に関する記述はなく、また『尊卑分脈』でもこの事件で官位を剥奪されて間もなく卒したとの記述があり、これまでには没していたと考えられる。

 美濃国と信濃国は古来より国境を相争って確定していなかった。そこで、貞観年間に従六位上・左馬権少允の官位にあった正範は刑部少録・靫負継雄と共に国へ派遣され、両国の国司と共に美濃恵那郡と信濃筑摩郡の間にある県坂山岑を国境にすべきとした。その際、正範は古記録を確認した上で、国境を確定した。
 右衛門大尉を経て、元慶5年(881年)従五位下に叙爵する。その後、上総介に任ぜられる。元慶7年(883年)2月初旬に上総国市原郡の俘囚40数名が反乱を起こし、官物を盗取して人民数名を殺害する。このため同国の兵士1000名により追討を行ったところ、反乱を起こした俘囚は俘囚民用の廬舎を焼いて山中に逃亡してしまった。ここで正範は討伐のために数千名の兵士が必要である旨、飛駅を用いて奏言した。これに対して40名ほどの盗人に関して飛駅を用いてまで奏言する必要はないこと、直ちに太政官符を下して人夫を徴発して追捕せよとの勅が下された。10日ほどで反乱は鎮圧され、正範と上総大掾・文室善友らはその勇略を賞されるが、妄りに飛駅を用いてまで奏言することを禁じられている。

 

 

藤原季縄 右近

 前半生は不詳の点が多いが、『大和物語』101段によると、延喜19年(919年)右近衛少将を務めているときに病に冒される。季縄は病をおして出仕した際、当時掃部助,蔵人を務めていた源公忠に対して、「体調は良くないが、仕事をしないと心地悪いので出仕しました。ひとまず出仕したまでなので本日は退出しますが、明後日には正式に出仕するので帝にもお伝えください。」と伝えて退出した。
 しかし、3日後公忠の許に「くやしくぞ のちにあはむと 契りける 今日をかぎりと 言はましものを」という和歌が季縄から送られてくる。公忠は使者から季縄の様子を訊くも「大変弱っています。」と言って泣き出し、これ以上聞き出すことができなかった。公忠は落ち着いていられず近衛府の門まで出て待ち、車を取り寄せて五条にある季縄の家まで走らせた。
 季縄の家に到着すると、門の前がひどく騒がしく門は閉ざされている。季縄はすでに亡くなっていたのだ。季縄のことを尋ねても誰も取り合わず、公忠はひどく落胆し涙ながらに帰宅し、後にこの顛末を帝に一通りお伝えするとたいそう哀れな気持ちにとらわれたという。また、先述の季縄の和歌は、『新古今和歌集』に収録されている。
 世間には片野羽林と称されており、鷹飼の名手として知られていた。

平安時代中期の女流歌人。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王,藤原敦忠,藤原師輔,藤原朝忠,源順などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。
『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。

藤原美都子

 平安時代初期の貴族女性、女官。幼少期は斜陽の一族に産まれ不遇であったと推測されるが、藤原冬嗣の妻となり、3男1女を儲けると共に、自らの親族関係をももって冬嗣の政界工作に貢献したと考えられている。弘仁5年(814年)4月28日、冬嗣・美都子夫妻の邸宅である閑院第に嵯峨天皇が訪問し、その時に無位から従五位下に任官される。後、尚侍となり、嵯峨天皇,淳和天皇の2代の天皇に仕え、後宮で権勢を振るった。冬嗣は艶福家であったが夫婦仲は良かったらしく、死後、美都子の遺言によりこの時代には珍しく冬嗣の墓に夫婦合葬された。後に従一位を贈られる。