<藤原氏>南家

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藤原三守 藤原仲統

 後山科大臣と号す。延暦25年(806年)桓武天皇が崩御後、平城天皇が即位し、その弟・神野親王が春宮に立てられる。三守は東宮主蔵正として神野親王に仕えて側近として重用される。大同4年(809年)神野親王の即位(嵯峨天皇)後まもなく従六位下から四階昇進されて従五位下に叙爵し、右近衛少将に任官。嵯峨朝では、順調に昇進し若干32歳で参議に任ぜられ公卿に列す。
 弘仁年間中盤に右大臣の藤原園人や中納言の藤原縄主,藤原葛野麻呂ら大官が相次いで没し、中納言以上の公卿がわずか3名(藤原冬嗣・藤原緒嗣・文室綿麻呂)になっていたことから、弘仁12年(821年)正月に参議から中納言への登用が行われ、中納言に昇進した良岑安世,藤原貞嗣に次いで、三守は従三位・権中納言に昇進した。
 弘仁14年(823年)4月に嵯峨天皇が退位し、かつて三守が春宮亮次いで大夫として仕えていた大伴親王が即位(淳和天皇)する。ここで三守は一院に閑居して、嵯峨上皇の春宮時代からの旧臣として上皇と外部との取り次ぎ役を務める一方、これまで務めていた武官(左兵衛督)を固辞して、殿上で帯剣を取り止めてしまった。この辞官の決意の固さに対して、見る者は落涙し、識者は三守の奥ゆかしさに恥じ入ったという。淳和天皇は三守の決意を覆すことが難しいことを悟り、権中納言の官職を帯びたまま後院に出仕し、引き続き退位した嵯峨上皇に近侍することを命じたという。また、嵯峨上皇の皇子で新たに春宮となった正良親王の春宮大夫を兼帯している。この状況の中で三守は淳和天皇に対して辞官を上表するが、許されずに逆に正三位・中納言へ昇進する。その後、数度の辞官上表を経て、11月にようやく認められて中納言を辞した。嵯峨朝における異例の昇進と、嵯峨天皇の退位に伴う辞官については、妹の藤原美都子が嵯峨朝で尚侍を務め、妻の橘安万子が嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子の姉で同じく典侍を務めたという、嵯峨朝後宮との強い繋がりも関係したと考えられる。
 淳和朝では前中納言のまま宮内卿,刑部卿を歴任する。天長5年(828年)淳和天皇の要請を受けて前中納言から直接大納言に昇進し、一挙に右大臣・藤原緒嗣、大納言・良岑安世に次ぐ太政官の第三位の席次に昇る。この人事の背景には、天長3年(826年)に皇太子正良親王(後の仁明天皇)の後ろ盾として期待されていた藤原冬嗣が病死したことで、その代わりとなったとする指摘もある。
 天長7年(830年)嵯峨朝から引き続き修訂が進められていた『弘仁格式』を撰上。
 天長10年(833年)仁明天皇即位後に従二位、承和5年(838年)には右大臣に昇進し、太政官では式家の左大臣・藤原緒嗣に次ぐ地位にまで昇った。承和7年(840年)7月7日薨御。享年56。即日、従一位が追贈された。
 人物としては温和で慎み深い性格の一方、決断力もあった。詩人を招いて親しく酒杯を交わしたり、参朝の途中で学者に会った際は必ず下馬して通り過ぎるのを待ったといい、これらのことは当時の人々に評判となった。また、仏教を厚く信仰しており、特に天台,真言両宗の熱心な後援者であった。僧綱の強硬な反対に遭って難航していた最澄の大乗戒壇設立構想が、弘仁13年(822年)6月に勅許を得るに至ったのは、三守および藤原冬嗣,良峯安世,大伴国道らの尽力によるといわれ、この4名は天台宗を支える四賢臣として最澄から厚い信頼を受けていた。また、嵯峨天皇のサロンへの出入りを通じて空海との親交を深めるうちに、真言宗の壇越にまでなったと見られる。三守は左九条の私邸を空海に提供し、天長5年(828年)12月には空海がその場所に綜芸種智院を設置している。
 藤原南家出身ではあるが、嵯峨・仁明両天皇や藤原北家の冬嗣とも婚姻関係で結ばれていた三守の存在は冬嗣の後継者となった藤原良房と共に仁明天皇を支える存在であった。しかし、彼の死によって仁明天皇の立場が動揺して、仁明天皇周辺(嵯峨上皇側近)と皇太子・恒貞親王周辺(淳和上皇側近)の対立が激化し、承和の変の一因になったとする説もある。

 天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い蔵人に任ぜられ、承和2年(835年)従五位下、承和4年(837年)侍従に叙任される。のち、承和7年(840年)右兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将と仁明朝の半ば以降は武官を務める一方、伊勢介次いで伊勢守と伊勢国司を兼ねる。またこの間の承和14年(847年)従五位上に叙せられている。
 文徳朝では引き続き左近衛少将を務めながら、仁寿3年(853年)正五位下、斉衡2年(855年)従四位下と順調に昇進する。文徳朝末の天安元年(857年)9月に民部大輔に遷る。また、天安2年(858年)8月の文徳天皇の崩御にあたっては、装束司を務めている。
 同年、清和天皇が即位すると兵部大輔に転じる。清和朝前半は兵部大輔を務め、この間の貞観4年(862年)に従四位上に叙せられている。貞観12年(870年)蔵人頭、貞観13年(871年)治部卿と叙任され、貞観14年(872年)参議に任ぜられて公卿に列した。貞観16年(874年)正四位下に昇叙され、貞観17年(875年)正月に右兵衛督を兼ねるが、同年6月6日卒去。一説では病の無いまま夜中に卒したという。享年58。