<藤原氏>南家

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藤原有貞 藤原興方

 姉の貞子が仁明天皇の女御であったことから幼少時から天皇に近侍し、その寵幸を蒙った。承和11年(844年)若くして従五位下に叙爵、丹波介に任ぜられ遙任で務めるが、翌承和12年(845年)後宮の寵姫との密通を疑われ常陸権介に左遷された。 文徳朝に入ると、仁寿2年(852年)縫殿頭として再び京官に復帰し、のち斉衡3年(856年)右兵衛佐、斉衡4年(857年)左兵衛佐、天安2年(858年)従五位上・右近衛少将に叙任されるなど武官を歴任する。
 清和朝でも引き続き右近衛少将を務める一方、伊勢権介,阿波権介,因幡守,讃岐権介と地方官も兼務した。また、この間の貞観6年(864年)正五位下に昇叙されている。貞観8年(866年)従四位下・備中,讃岐守に叙任されて地方官に転任し、貞観10年(868年)近江権守に任ぜられた。貞観15年(873年)3月26日死去。享年47。

 初め醍醐天皇の六位蔵人に補され、延長8年(930年)4月には穢による賀茂祭の停止を奏上する。朱雀朝の天慶元年(938年)主殿助を兼ねる。従五位下に叙爵後、天慶6年(943年)尾張守に任ぜられて地方官に転じる。少なくとも天慶9年(946年)まではこれを務めている。 村上朝の天暦4年(950年)頃には美濃権守を務め、時期は不明ながら大和守にも任ぜられている。天徳4年(960年)3月29日前に卒去。
 右大臣・藤原師輔の正室・盛子は姉妹にあたるため、興方は兼家や中宮安子からみて伯(叔)父にあたる。興方が卒去した際に安子が喪服を着した。

藤原登任

 長和2年(1013年)六位蔵人、のち主殿頭,出雲守などを歴任する。また、『栄花物語』において、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っていたとの記載があり、公任に家人として仕えていたとも考えられる。 永承5年(1050年)に陸奥守として下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、陸奥守であった登任は、秋田城介平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするが、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。
 康平2年(1059年)3月29日出家。