<藤原氏>南家

F077:藤原季綱  藤原武智麻呂 ― 藤原巨勢麻呂 ― 藤原貞嗣 ― 藤原道明 ― 藤原永頼 ― 藤原季綱 ― 藤原通憲 F081:藤原通憲


リンク F082F083・{F309
藤原通憲 藤原貞憲

 通憲の家系は曾祖父の藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げていった。保安2年(1121年)頃には、高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。
 通憲の官位の初見は天治元年(1124年)の中宮少進(中宮・藤原璋子)であり、同年11月の璋子の院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補された。璋子の子である崇徳天皇の六位蔵人も務めたが、大治2年(1127年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。この年、2人目の妻である藤原朝子が、鳥羽上皇の第四皇子の雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている。
 散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人,院判官代とその地位を上昇させていった。その後、日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。
 通憲の願いは曾祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。
 これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した。
 鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと、康治2年(1143年)に正五位下、天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子の俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。
 出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼が久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
 そのような中で久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御し、雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位(後白河天皇)することになったが、その背景には、雅仁親王を養育していた信西の策動があったと推測される。保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇が崩御すると信西はその葬儀を取り仕切り、直後の保元の乱では対立勢力である崇徳上皇,藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした(保元の乱)。
 乱後、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処刑した。また、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。この政策を行なう上で、信西は自分の息子たちを要職に就けたが、旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方、保元3年(1158年)8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣,天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。
 やがて院政派の藤原信頼、親政派の大炊御門経宗・葉室惟方らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出す。信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は、信西・信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派・院政派とも距離を置いていた。
 平治元年(1159年)12月、平清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する。信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、郎党を尋問した追手に発見された。掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。享年55。掘り起こした時には、目が動き息もしていたという。追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた。また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された(平治の乱)。
 学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『今鏡』でもその才能を絶賛する一方で、陰陽道の家の出の者でもないのに天文に通じたがために災いを受けたと評されている。 

 対策に及第したのち、少納言や飛騨守を歴任する。正五位下・右衛門権佐に叙任されたのち、後白河院政期初頭の保元3年(1158年)、保元の乱後に権力を握っていた父・信西の差配により右少弁に五位蔵人を兼ね三事兼帯の栄誉に浴す。
 平治元年(1159年)5月に従四位下・権左少弁に叙任され、閏5月には上﨟の左少弁・藤原朝方を越えて権右中弁に昇任される。しかし、同年12月に平治の乱が発生して信西が敗死すると、信西の子息は流罪となり、貞憲は土佐国への配流に処された。一説では、出家するもまもなく追っ手の兵士の手で殺害されたともいう。いずれにしても、翌永暦元年(1160年)には兄弟の俊憲・成憲らが平安京に召し返されている一方で、貞憲にそのような形跡はなく、乱後まもなく没したとも考えられる。
 勅撰歌人として『千載和歌集』に和歌作品1首が採録されている。 

貞慶 藤原成範

 号は解脱房。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。
 祖父・信西は保元の乱(1156年)の功により一時権勢を得たが、平治の乱(1159年)では自害させられ、また父・藤原貞憲も 配流された。 生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り11歳で出家、叔父・覚憲に師事して法相・律を学んだ。
 1182年(寿永元年)維摩会竪義を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って1193年(建久4年)、以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後、般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰をいっそう深めていった。1205年(元久2年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。1208年(承元2年)、海住山寺に移り観音信仰にも関心を寄せた。
 建長5年(1253年)に書かれた『三輪上人行状記』に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作の薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように慶円三輪上人とは無二の親友であった。

 保元の乱を経て父の信西が権勢を握るとともに昇進し、遠江国,播磨国の国司などを経て左中将となる。平清盛の娘と婚約し、その前途は磐石であるかに見えたが、平治元年(1159年)の平治の乱において信西が殺害されると状況は暗転。戦後、戦乱を招いた一方の当事者として信西の罪状が問われることになり、それに連座する形で子息達は悉く流罪となり、成憲も下野国に流された。これを機に、諱を成範と改めたとされる。
 永暦元年(1160年)には赦免され、承安4年(1174年)には参議、寿永2年(1183年)には中納言と昇進。この間、後白河法皇の側近として仕え、治承三年の政変で法皇が鳥羽殿に幽閉された際にも、兄弟の脩範・静賢らとともにその傍に出入りすることを許された。
 文治元年(1185年)に源義経が兄・頼朝から離反した際には、義経と同心している嫌疑をかけられたこともあったが、概して政治的な足跡には乏しく、専ら和歌などの文化面での活動が目立った。『千載集』『新古今集』にその作が入選しており、また『唐物語』の作者である可能性も高いとされる。桜を愛し、自邸に多く植えたことにより、「桜町中納言」の名で呼ばれたともいう。 

成賢 定範

 遍智院僧正,宰相僧正と称された。
 若くして醍醐寺の叔父・勝賢に師事して諸経論を学び、文治元年(1185年)に三宝院に入り、11月に勝賢より灌頂を受ける。建久4年(1193年)、勝賢の権僧正辞退にかわり権律師に任ぜられ、正治2年(1200年)には権少僧都に進む。建仁3年(1203年)に醍醐寺座主に補任された。元久2年(1205年)に座主を辞して良海に譲るが、翌年再び座主に復任して、建永2年(1207年)に祈雨の功で法印に叙せられた。承元2年(1208年)に大僧都、承元4年(1210年)3月に東寺三長者に任ぜられる。建暦元年(1211年)、再び祈雨の功で権僧正となるなど、祈雨に長じたようである。建保6年(1218年)、座主を弟子の光宝に譲りまた諸職を辞任した。
 成賢は生涯に御修法を39度にわたって行い、秘法を修すれば常に法験を示したという。門弟らもその褒賞により僧官を与えられた。寛喜3年9月19日(1231年10月16日)、遍智院で入寂。享年70。藤原定家は成賢を「天下の富人」と評している。著作に、『薄双紙』『遍口鈔』『結縁灌頂私記』などがある。
 四十人あまりの弟子があったが、特に道教,深賢,憲深,慈教は四傑と呼ばれてそれぞれ家風を起こし、これらは総じて成賢流と称された。

 真言宗・三論宗兼学の僧。通称は民部卿法印。
 初め醍醐寺にいた叔父の勝賢に真言宗を、後に東大寺にいた叔父の明遍に三論宗を学んだ。建久元年6月7日(1190年7月11日)、東大寺東南院の院主であった勝賢の譲状を受けて院主となった。建保元年(1213年)に東大寺別当に就任し、承久3年(1221年)3月に辞任、同年7月には醍醐寺座主に就任し、没するまでその地位にあった。また、この年には法印・権大僧都に叙せられている。
 なお、東南院院主の地位は没するまで保持しており、没後に生前の定範と亡くなった後高倉院との間で仁和寺の道深法親王(後高倉院の子)に東南院院主を譲る約束をしたことが発覚して東大寺の反感を買っているが、定範の死去から8か月後の嘉禄元年11月5日(1225年12月6日)には東大寺に対して道深への東南院譲渡を命じる官宣旨が出され、これに反発した東大寺と興福寺の衆徒による強訴に発展する。翌年になって道深は東南院の院主を辞退するが、この問題は定範個人の問題というよりは承久の乱後に行われた後鳥羽院系の皇族に対する処分(その欠を後高倉院系の皇族が占める措置)に連動した政治的な流れの一環であった。

小督局 覚憲

本名は不明。高倉天皇の後宮。類稀な美貌の箏の名手だったと伝わる。始め冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年11月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。
 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられている。
 時は平氏全盛の平安朝最末期、時の帝であった高倉天皇は最愛の寵姫を亡くし悲嘆に暮れていた。見かねた中宮(清盛の娘である建礼門院徳子)は天皇を慰めようと、美貌と音楽の才能で名高かった中納言・藤原成範の娘を紹介する。宮中に上がった成範の娘は小督局と呼ばれ、天皇の寵愛を一身に受けた。
 しかし、中宮の父である平清盛は、天皇が中宮である娘を差し置いて小督に溺れることに怒り狂い、小督を宮中から追い出してしまった。小督は清盛を恐れて嵯峨に身を隠し、天皇とも音信不通となってしまう。天皇の嘆きは深く、密かに腹心の源仲国(宇多源氏・源仲章の兄)を呼び出して小督を秘密裏に宮中に呼び戻すよう勅を賜った。
 ちょうど仲秋の夜のこと、月が照る中を嵯峨野に出かけた仲国は、小督が応えることを期待して得意の笛を吹いた。すると、見事な「想夫恋」の調べがかすかに聞こえてくるので、音のするほうに向かうと、果たして粗末な小屋に小督が隠れ住んでいた。最初、小督は清盛を恐れて宮中に帰るのをしぶるが、「想夫恋」の曲で彼女の真意を悟っていた仲国に押し切られこっそりと天皇の元に帰ってきた。2人はひっそりと逢瀬を重ねるが、清盛におもねる者から秘密が漏れて、小督は無理やり出家させられてしまう。
 能の『小督』はこのうち嵯峨野の場面に取材したもので、伝金春禅竹作の四番目物。現在も比較的盛んに上演される、美しくも哀切な名作である。

 法相宗の僧。宝積院僧正,壺坂僧正とも称される。
 興福寺に入り蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。平治の乱の後、父に連座し伊豆国(一説によれば伊予国)に配流となったが、1175年(安元元年)には奈良大安寺の別当に任じられた。その後、1180年(治承4年)に興福寺権別当、1189年(文治5年)に同寺別当に任じられ、興福寺の復興に努めた。1190年(建久元年)権僧正となったが、1195年(建久6年)壺坂寺に隠棲した。唯識論の注釈に大きな功績を残した。特に因明に造詣が深かったことで知られ、『因明抄』など多くの著作がある。
なお、『興福寺奏状』を起草した解脱上人貞慶は覚憲の門弟であり、甥にあたる。 

勝賢 静賢

 真言宗の僧。通り名を侍従僧正,覚洞院権僧正。
 忍辱仙流の祖である寛遍に師事し、1158年(保元3年)権律師に任じられる。翌1159年(保元4年)醍醐寺の実運に灌頂を受け、また常喜院の心覚からも法を受けた。1160年(永暦元年)以降、醍醐寺座主に3度(18・20・22世座主)任じられたが、一時期同門の乗海の反対により高野山へ逃れた時期もある。父・信西の関係で後白河法皇との結びつきは強く、木曾義仲の上洛の際に法皇の安穏と天下泰平を祈祷したり、祈雨のために孔雀経法を修すなどした。
 東寺二長者,東大寺87世別当,東大寺東南院院主を歴任。1185年(文治元年)8月10日には権僧正に任じられた。弟子に仁和寺の守覚法親王がいる。著書に『灌頂秘訣』1巻・『六月抄』『勝賢日記』『祈雨法日記』『御修法記』などがある。 

 父の信西が政治的に台頭した保元年間に急速に名をあらわし、保元2年(1157年)に法橋に叙され、法勝寺執行,最勝寺上座などの御願寺の要職を歴任する。
 その後、父は平治の乱で討たれるが、争乱を招いた一方の当事者としてその遺族が処罰されることになり、静憲もその一人として安房国(一説には丹波国)へと配流される。この際に父の俗名の片諱である「憲」の字を避け、静賢と改名する。ほどなくして赦免され京に戻り、後白河法皇の側近となる。承安元年(1171年)、後白河院の命により『後三年合戦絵詞』を作成する。
 安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀で謀議が行われた山荘は、『平家物語』では俊寛のものとされるが、『愚管抄』では静賢のものとされる。この事件では院近臣の多くが処罰されたが、静賢は関与責任を問われることはなかった。その後、治承3年(1179年)4月に平清盛の命令によって法勝寺執行を解任されているが、鹿ケ谷の陰謀との関連は不詳。同年11月の治承三年の政変では、クーデターを起こした平清盛の元へ、使者として後白河院が今後政務に介入しない旨を伝えに赴いている。院が鳥羽殿に幽閉されると、兄弟の成範・脩範らとともに、その身辺への出入りを許された数少ない側近の一人となった。
 治承・寿永の乱においては、後白河院と武士との連絡役となり、平宗盛や源義仲との交渉、一ノ谷の戦いなどに派遣されている。建仁元年(1201年)8月における和歌所初度影供歌合までその名を見ることができるが、没年は不明である。