<藤原氏>北家 長良流

F401:藤原冬嗣  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 F405:藤原長良

リンク F406F409F415
藤原長良 藤原元方

 仁明天皇が東宮(皇太子)であった頃より信頼が篤く常に近侍していたという。一方で仁明天皇即位後には急速に昇進した次弟・良房に官途で先を越されている。仁明朝では蔵人頭,左兵衛督を歴任し、承和11年(844年)良房に遅れること10年にして参議として公卿に列す。 嘉祥3年(850年)甥の文徳天皇が即位すると正四位下次いで従三位、翌仁寿元年(851年)には正三位と続けて昇叙されるが、同年10歳以上年少の同母弟・良相が先に権中納言に任ぜられ、その後塵を許す。仁寿4年(854年)権大納言に昇進した良相の後任として権中納言に昇進、斉衡3年(856年)には従二位に叙せられるが、まもなく没した。享年55。
 死後、娘の高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したことに伴い、元慶元年(877年)に正一位・左大臣、ついで元慶3年(879年)に太政大臣を追贈された。
 昇進は弟の良房や良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に3男の基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。
 高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟たちに官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。

 中古三十六歌仙の一人。歌人として、勅撰和歌集では『古今和歌集』に14首、『後撰和歌集』に8首、『拾遺和歌集』に2首が入集し、以後『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも9首が採録されている。また、和歌作品が『古今和歌集』の巻頭の歌に採られている。家集に『元方集』があるが、断片的に伝わるのみである。
藤原弘経 藤原高子
 貞観3年(861年)讃岐権掾に任ぜられる。貞観6年(864年)正月に従五位下に叙せられ、同年6月には讃岐権介に昇進する。のち貞観8年(866年)侍従、貞観12年(870年)加賀権守、貞観15年(873年)には讃岐権介に再任、貞観17年(875年)には左衛門佐に任ぜられている。 元慶元年(877年)陽成天皇践祚に伴い、従五位上に昇叙される。元慶3年(879年)には正五位下・加賀権守に叙任される。元慶6年(882年)頃から病に伏せる。陽成天皇の母方の伯父にあたることから天皇が特に憐れみ、病床にもかかわらず同年12月31日に従四位下に叙される。翌元慶7年(883年)正月には越前権守に任ぜられるが、任官の4日後に卒去した。享年45。

 清和天皇が東宮であった頃、天皇の祖母である皇太后・藤原順子の邸にて出仕か。貞観元年(859年)9歳の清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫をつとめ従五位下に叙された。清和天皇元服の2年後の貞観8年(866年)、25歳で入内し女御となり貞明親王(後の陽成天皇)を産む。貞観18年(876年)の陽成天皇の即位にともない、元慶元年(877年)皇太夫人となり中宮職が付与され、さらに元慶6年(882年)には皇太后の尊称を受けた。寛平8年(896年)宇多天皇の時、元慶年代に自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃されたが、没後の天慶6年(943年)に復位されている。 伊勢物語,大和物語などからは入内する以前、在原業平と恋愛関係があったと推測される。
 清和天皇との間に陽成天皇,貞保親王,敦子内親王の3人の子がいる。

藤原淑子
 父長良の没後宮廷に出仕し、藤原氏宗の後妻となり、また光孝天皇の皇子・源定省(後の宇多天皇)を猶子とした。後に光孝天皇崩御で定省が急遽皇族に復帰・即位した背景にも、淑子の力が大きかったとされる。元慶8年(884年)尚侍、仁和3年(887年)女官では異例の従一位に至る。尚侍として内侍宣を扱い、基経と宮廷の連絡役を務めたほか、宇多天皇のために阿衡事件の収拾にも尽力したと言われている。延喜6年5月28日に69歳で薨去、同月30日正一位を贈られた。