<藤原氏>北家 兼通流

F521:藤原師輔  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原兼通 F524:藤原兼通

リンク F525
藤原兼通 藤原顕光

 応和4年(964年)村上天皇に入内した師輔の長女・安子が急死した。その際、最後まで彼女に付き添ったのは2人の兄である伊尹(参議)と兼通(中宮権大夫)であった。なお、安子の弟・兼家(左京大夫)はその場に立ち会うことはなかった。 康保4年(967年)、村上天皇が崩御し、冷泉天皇の即位とともに蔵人頭を弟の兼家と代わる。安和2年(969年)参議に補せられ、従三位に叙す。弟の兼家の出世はこれを上回り、大納言に右近衛大将を兼ねていた。これは息子の正光が源高明の娘・中姫君を娶っていたため、安和の変の際に兄弟の中で唯一高明派とみなされて冷遇されたとする説がある。兼通はこれに失望して出仕を怠るようになる。冷泉天皇に次いで即位していた円融天皇も伯父の兼通を好まなかった。天禄2年(971年)長兄の伊尹は摂政太政大臣に昇る。翌天禄3年(972年)、兼通はようやく権中納言に進んだ。
 天禄3年(972年)、長兄の伊尹が危篤になると、それを知った兼通と兼家は早速天皇の御前で後任を巡って口論を始める有様であった。こうした状況の中で兼通はこれに乗ぜんと参内し、天皇が幼い頃に亡くなった母后・安子の書付を差し出し「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従いなさい」との亡き母の遺命をみる。天皇は従うこととした。兼通を権中納言から一挙に内大臣に引き上げて関白宣下した。藤原済時は大納言を経ないで兼通が内大臣に就任したことやこの人事を行った円融天皇、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している。天延2年(974年)には頼忠に代わって藤氏長者となり正二位に進め、太政大臣に任ずる。貞元元年(976年)内裏で火事があり、天皇は兼通の堀川第に移り、時の人はこれを「今内裏」と呼んだ。
 兼通と兼家は非常に不仲で、兼通の関白就任後兼家の昇進はまったく止められてしまい、異母弟の為光を筆頭大納言として兼家の上位に就ける程であった。さらに、兼通が娘の媓子を円融天皇の後宮に女御として入れ、次いで中宮としていた一方で、兼家は冷泉上皇の女御であった長女超子に次いで、次女の詮子をも円融天皇に入内させようとしていたところ、兼通はこれを激しく非難して妨害した。すると、詮子を入内させないのは、兼家が超子が生んだ子に皇位継承が行われるのを望んでいるのではないかと円融天皇は疑い、兼家を遠ざけ兼通と結ぶようになっていった。超子が冷泉天皇の皇子の居貞親王(後の三条天皇)を生むと、兼通はますます不機嫌になり、円融天皇に讒言する有様であった。また、兼家の東三条第は堀川第に隣接していたが、東三条第に客が来ると兼通はこれを罵り、人々は恐れて夜に忍んで東三条第を訪ねるようになった。
 兼通は右大臣・藤原頼忠と仲がよく、以前藤氏長者を譲って貰ったこともあって、自分の後継にと考えていた。一方、左大臣・源兼明は太政官の筆頭として、兼通と伍する政治力を有していた(太政大臣は太政官の実務に携われない慣例であり、左大臣が事実上の最高責任者)。このため兼通は頼忠を太政官の最高責任者である一上に任じて兼明の政治的権限を剥奪した上で、兼明を親王に復帰させ、空いた左大臣に頼忠を任じた。
 貞元2年(977年)10月、兼通は重い病に伏した。家人が東三条第から車がやって来ると報じた。兼家が見舞いに来るのかと感じ入った兼通は、周囲を片づけさせて来訪を待った。だが、兼家の車は門前を通過して内裏へ行ってしまった。兼家は兼通がもう臨終だと思い、早速天皇に後任を奏請するつもりだったのである。これを知った兼通は激怒して起き上がり、四人に支えられながら病をおして参内した。ちょうど、兼家が天皇に奏請していた最中に兼通が現れ、驚愕した兼家は他所へ逃げてしまった。
 兼通は最後の除目を行うと宣言し、左大臣・頼忠をもって自分の後任の関白とした。その上で、兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格してしまった。天皇もその気魄に逆らうことができなかった。兼通は居並ぶ公卿たちを顧みて、右近衛大将を欲する者はないかと問う。公卿たちは言葉も出なかったが、中納言・藤原済時が進み出て求め、右近衛大将に任じられた。それから程無く、兼通は薨去した。享年53。正一位を贈られ、忠義公と諡された。
 兼家は暫く不遇だったが、やがて政界に復帰して権力を握り、懐仁親王(一条天皇;円融天皇と詮子の子)を即位させて外戚となり摂政に任じられ権勢をふるった。結局、兼家の家系が摂関を独占して最も栄えることになる。

 父の兼通が関白になると顕光も引き立てられ、天延3年(975年)に参議となり公卿に列したが、既にこの時点で権中納言となっていた弟・朝光には昇進を越されていた。貞元2年(977年)には顕光も権中納言へ順調に昇進したものの、同年、兼通は病に倒れ死去してしまう。やがて、政界の主導権は兼家が握ったことで顕光の昇進は止まり、兼家の子たち(道隆,道兼,道長)にたちまち追い抜かれるようになる。
 長徳元年(995年)、都で疫病が広まると公卿が次々と罹患して死に、朝光も病没した。関白・道隆も普段の大酒がもとで病死してしまう。代わってその弟の道兼が関白になるが、やはり病に倒れ数日で死去。この疫病により公卿に多くの空席が生じたために、顕光は幸運にも権大納言に昇進した。
 道兼の後継を巡って内覧の宣旨を受けた右大臣・道長と内大臣・伊周(道隆の嫡男)が争うが、同2年(996年)に伊周とその弟の隆家が花山法皇に矢を射かけるという事件を起こして失脚。道長は左大臣に進み、右大臣には従兄にあたる顕光が任じられる。顕光は形式的にはナンバー2となるが、実権は完全に道長のものだった。その上に顕光はかねてから無能で知られていた。同年、顕光は娘の元子を一条天皇に女御として入内させた。中宮の定子は先に失脚した伊周の妹であり、しかも、道長の娘は幼くまだ入内していない。このような状況で元子が第一皇子を産めば顕光は将来の外戚となりうる可能性があった。そして、翌同3年(997年)に元子は懐妊する。元子は堀川第に里下りして出産に備え、顕光は僧侶を集めて男子出産を加持祈祷させた。ところが、元子は産み月になっても一向に産気づかない、顕光は寺へ連れてゆき安産の祈祷をさせ、ようやく産気づくが不思議なことに水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。この騒ぎで顕光と元子は世間の嘲笑を受けた。
 長保元年(999年)道長は長女・彰子を女御として入内させた。同2年(1000年)道長は彰子を中宮となし、定子を皇后にさせた。一帝に二后が立つ異例の事態だが、道長は権勢で押し通した。彰子は幼く、まだ元子が第一皇子を産む可能性もあったが、元子が再び懐妊することはなく、結局、寛弘5年(1008年)に彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を生み、続いて敦良親王(後の後朱雀天皇)も生んだ。これで、道長との権勢の隔絶からも顕光が外戚となる可能性はほとんどなくなった。
 長和5年(1016年)、三条天皇は眼病を理由に道長から強く退位を迫られ、自らの第一皇子の敦明親王を東宮とすることを条件に譲位した。道長はこれを受け入れた。敦明親王には顕光の娘の延子が嫁して男子(敦貞親王)も生んでおり、再び外戚となる可能性が出てきた。もっとも、この時点で顕光はすでに70歳を超えており、息子の重家も思うところあって既に出家していた。
 三条天皇の譲位に伴う固関・警固の儀式が行われ、顕光は自らこれを買って出た。道長は老齢な上に無能な顕光が儀式を取り仕切っては不安なので婉曲に断ったが、顕光は押し切って引き受けた。顕光は式次第を書き付けた草紙を持って儀式に臨んだが、結果は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿たちの嘲笑を買うことになり、実資は『小右記』に「(失態を)いちいち書いていては筆がすり切れる」と書き残している。これには道長も怒り日記で「至愚之又至愚」と罵倒している。この時代は典礼儀式が最も重んじられ、それをこなせない顕光は無能者とされ公家社会から軽んじられた。
 敦成親王が即位して後一条天皇となると、東宮には約束通り敦明親王が立てられた。しかしながら、道長とは外戚関係がない上に、舅の顕光は頼りにならず、全く不安定な立場だった。
 翌寛仁元年(1017年)3月、道長が左大臣を辞し、代わって顕光が左大臣に昇った。同年5月に失意の三条上皇が崩御すると、その3ヶ月後の8月に敦明親王は自ら東宮の辞退を申し出た。しかも、道長は敦明親王に報いるとして上皇待遇の小一条院の称号を与え、さらに娘の寛子を娶らせた。敦明親王は延子と幼い敦貞親王を捨てて、寛子の元へ去ってしまう。夫を奪われた延子は絶望してほどなく病死する。『十訓抄』によると、この事件のために顕光は一夜にして白髪になってしまい、さらに道長を怨んで道摩法師(蘆屋道満)に呪詛させたという。
 老齢の顕光はそれでも左大臣として数年出仕を続けた。寛仁2年(1018年)道長は後一条天皇に娘の威子を入内させ、その中宮への立后の儀式のときに顕光はまたも失態を犯し、道長から罵倒されている。治安元年(1021年)、78歳で死去。
 顕光の死後、万寿2年(1025年)に延子から敦明親王を奪った寛子が病死、続いて同年に東宮(敦良親王)妃・嬉子が出産直後に急死。さらに2年後、三条天皇の中宮だった皇太后妍子も崩御した。これらの道長の娘の続けての死は顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられた。それにより、顕光は悪霊左府と呼ばれるようになった。

藤原重家 藤原元子

 容姿に優れ光少将とうたわれた。左近衛少将を経て、長徳元年(995年)五位蔵人、翌長徳2年(996年)には従四位下に叙任した。
 長保3年(1001年)には美作守に補任されるが、同年いわゆる「寛弘の四納言」(藤原公任,藤原斉信,藤原行成,源俊賢の4名)が陣座で朝政の議論をしている様子を目にして自らの非才を覚り、親友の源成信とともに園城寺にて出家して遁世する。この報に接し、父の顕光は悲嘆に暮れたという。同じく近衛少将を務めて出家した寂源の弟子となった。没年含め、以後の消息は定かではない。

 承香殿女御といわれた。長徳2年(996年)11月14日一条天皇に入内、同年12月2日女御宣下を受ける。長保2年(1000年)8月20日従三位、寛弘2年(1005年)1月13日従二位に叙任される。
 長徳3年(997年)10月、懐妊の兆候が見られたため、同年暮れに堀河院へ退出。このとき退出の一行が弘徽殿の細殿を通るのを、弘徽殿女御である藤原義子(藤原公季の娘)の女房達が群がり、御簾越しに見物していた。元子の女童がこれを見て、「簾のみ孕みたるか」(女御は懐妊せず、簾のみが膨らんでいる)と言って嘲弄した。弘徽殿の女房達はこれを聞き、悔しい思いをしたという。しかし翌長徳4年(998年)6月、体内から水のみが出てきただけでこの妊娠は終わった。
 元子はその後しばらく内裏には入らず、ようやく翌長保元年(999年)9月7日に一条院の天皇のもとに参入したが、再び長保2年(1000年)には堀河院に戻っている。長保3年(1001年)2月には同母兄・重家が突然出家するということが起こっている。
 寛弘8年(1011年)6月22日の一条天皇の死後、為平親王の次男である源頼定と通じた。父である顕光が元子と一緒にいる頼定を見つけたことで発覚、顕光は激怒し元子の髪を切り出家させてしまった。その後も元子と頼定の関係は続いたため、ついに顕光が「いづちもいづちもおはしね」(どこへでも出ていけ)といい、元子は実誓律師の車宿に移った。頼定との間には2女が生まれた。
 寛仁2年(1018年)に元子は堀河院に戻ったが、翌年、妹で小一条院妃であった延子が死去した際、再び堀河院を出ている。翌寛仁4年(1020年)には堀河院に戻り、頼定もここに住んだが、頼定は同年6月11日に死去し、元子は出家した。その後の元子については不明であるが、娘の一人は後朱雀天皇の中宮である嫄子女王(敦康親王女、藤原頼通養女)の御匣殿別当となった。

藤原延子 藤原朝光

 三条天皇の第一皇子である敦明親王と婚姻し、敦貞親王,敦昌親王,栄子内親王の2男1女をもうけた。
 長和5年(1016年)後一条天皇の即位により、敦明親王は皇太子にたてられるも、寛仁元年(1017年)皇太子を辞退、小一条院となった。これにより自らの孫である敦良親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子につけることができた藤原道長は、小一条院を娘・寛子の婿として迎え厚遇した。小一条院は寛子の住む高松殿に移り、堀河殿の延子のことを顧みなくなり、延子は悲嘆のあまり健康を損ね、寛仁3年(1019年)寂しく世を去った。
 小一条院が東宮を辞退した時、延子は悲しんで「雲ゐまでたち上るべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな」と詠んだ。

 若くしてその才覚を認められ、天延2年(974年)に24歳で参議として兄弟の中でいち早く公卿に列せられると、翌年に上位者5人を超えて権中納言、貞元2年(977年)には27歳で権大納言兼左近衛大将と、父の関白・兼通の後押しも受け順調に昇進する。酒を通じて藤原道隆,済時と格別に親しく交わり、道隆執政下の宮廷に自由な気風をもたらした。永延元年(987年)には大納言に昇任、なおも前途を期待されたが、長徳元年(995年)の疱瘡の大流行により、道隆,済時らと相前後して世を去った。
 社交家で華美を好み、矢の筈を水晶で製することを考案し流行させたという。歌才もあり、『拾遺和歌集』(4首)を初めとする勅撰和歌集に27首が入首、小大君や馬内侍といった同時代の女流歌人達と恋愛関係を持ったことでも知られる。家集に『朝光集』を残している。
 当初、重明親王の娘を妻としたがのち離縁し、親くらい年上で年齢の離れた未亡人を後妻とした。この理由について、前妻が貧乏であった一方で後妻が裕福であったとする話と、前妻の性格は子供っぽいが後妻は才知に優れていたとする話がある。

藤原朝経 藤原正光

 関白・藤原兼通の後継者と目されていた藤原朝光の長男として生まれた。当時、一家が最も華やかな頃に生まれている。しかし、貞元2年(977年)に兼通が死去すると、政権は藤原頼忠、ついで兼家へと移り、一家はしだいに政権中枢から外れていく。そのような中、朝光は藤原済時とともに、兼家の長男で後に関白,摂政となった藤原道隆の飲み友達として親密な仲であったため、他の兄弟よりは順調に昇進し大納言に至った。
 朝経は寛和2年(986年)に14歳で叙爵ののち、永延2年(988年)には右馬助に任官し官途を始めた。当時は一条天皇の即位とともに、兼家が摂政となった時期で、朝光も永延3年(989年)には権大納言から大納言へ転じるなど、兼家派の人材として、それなりの処遇を得ており、朝経の前途もそれほど暗いものではなかった。
 ところが、関白が兼家の長男で、朝光と仲の良い道隆に代わった5年後の長徳元年(995年)に、折からの流行病で父の朝光が死去すると、藤原道長派の人物が次々と抜擢され、朝経の置かれた環境がやや厳しくなっている状況が推察される。その後は、寛弘9年(1012年)に右大弁になるまで弁官を歴任している。寛弘8年(1011年)に三条天皇が即位すると、天皇と政権首班の道長との確執から人事が対立する中、天皇と縁の深い小一条流や小野宮流ではなく、道長派というほど近くもない位置から、妥協人事として朝経を用いる場面が増え、長和3年(1014年)には大蔵卿を兼ね、翌長和4年(1015年)についに公卿である参議に就任した。
 長和5年(1016年)には、三条天皇は譲位したため、以後の昇進は急速ではなくなるが、弁官として養った実務官人としての経験を重宝され、右大弁大蔵卿を兼ねたまま、寛仁2年(1018年)には勘解由長官を兼ね、さらに造宮の功で従三位に昇任、寛仁4年(1020年)には大蔵卿と勘解由長官は辞職したものの、左大弁に転じるなど、公卿による陣定などの政権運営の事務方の中心となっていたことがうかがえる。同年には備前守に補任。また、一連の昇任の過程で朝経は道長に接近する機会を得たようで、万寿4年(1027年)の道長の葬送では、参集した公卿の一人として、『小右記』に記載されており、治安3年(1023年)の権中納言任官や正三位への昇叙なども、当時中納言以上はほとんどが道長の縁者か、道長政権の協力者であったことから、道長派の公卿としての処遇と考えられる。
 長元2年(1029年)1月24日に権中納言を辞任したのち、7月4日に死去した。享年57。

 祖父の師輔は当時右大臣であり朝廷の実力者でもあったが、上席には兄の実頼が左大臣として健在であり、また兼通も2男でありこの時点で公卿にもなっておらず、正光の将来は不透明であった。さらに、師輔は天徳4年(960年)には右大臣のまま死去してしまう。
 ところが、安和元年(968年)に摂政となっていた実頼が薨去するとともに兼通の兄・伊尹が代わって摂政となり、さらに安和2年(969年)に円融天皇が即位すると、これらによる大規模な人事異動の中で、正光は新天皇の東宮時代の小舎人であったことも幸いし、13歳にして昇殿を許される。また翌天禄元年(970年)には、従五位下近江少掾となり、兼通の遅くの子であったため、その昇進の余慶を受けて官途の始まりは順調だった。
 伊尹の死を受けて兼通は天禄3年(973年)に、参議任官から4年で関白に就任するという異例の人事となる。このため正光も侍従、ついで左近衛少将に任じられ近江介を兼ねた。さらに、5年で3度の昇叙の結果、位階も従四位下に昇った。しかし、貞元2年(977年)に関白任官後わずか5年で兼通が薨去すると、以後の昇進は滞ることとなった。
 この間に正光は兼通の弟で、兄弟仲の悪かった兼家に接近したらしく、永観2年(984年)に兼家の孫・懐仁親王が東宮となると東宮昇殿を許されており、さらに寛和2年(986年)にその東宮が一条天皇として即位し、母詮子が皇太后となると皇太后宮権亮に就任し、兼家の近臣として認められている様子がうかがえる。同じ年、10年ぶりの昇叙によって従四位上となっているのも、この関係によるものと思われる。この皇太后宮権亮は、5年後の正暦2年(991年)に円融上皇の崩御に伴い詮子が出家するとともに停止となったが、翌年には左近衛中将に任じられている。
 長徳2年(996年)、疫病の流行などで公卿が大幅に入れ替わるとともに、藤原道長が左大臣として首班となると、正光の兄の顕光が次席の右大臣となった。この年の4月には正光は公卿に次いで重要な役職である蔵人頭に任じられ、さらに2年後の長徳4年(998年)には大蔵卿を兼ねた。しかし、人脈としては兄である顕光よりは、兼家から引き続いてその子である道長に近かったようである。
 その後、寛弘元年(1004年)2月には参議となり、同年10月には従三位に昇るなど、上級貴族の一員となった。長和3年に顕光や時光などの兄に先立って58歳で薨去した。なお、『枕草子』には「大蔵卿ばかり耳とき人はなし」で始まる段があるが、これは正光のことを指しているとされ、この中で遠くに座っていた正光が、清少納言が隣にいた人でも聞き返してくるくらいの小声で言ったことを、しっかり聞き逃さなかったことが書かれている。

藤原媓子

 別名は堀河中宮。天禄3年(972年)父・兼通が関白に就任。同4年(973年)2月円融天皇に入内。同年4月女御宣下を受け、さらに7月中宮に冊立される。貞元2年(977年)父・兼通が薨去。天元2年(979年)33歳で崩御。
 『大鏡』によれば、幼少の頃は父・兼通に省みられなかったが優れた人柄であったといい、また兼通には他に適齢の娘もいなかったことから、当時としては遅い27歳で入内した。夫円融天皇より12歳も年上ながら、夫婦仲は睦まじかったらしいが子女には恵まれず、また父兼通の死後は有力な後見を失い、立后からわずか6年で崩御した。その結果空いた中宮位を巡って、藤原頼忠の娘の遵子と藤原兼家の娘の詮子が争うこととなる。