<藤原氏>北家 兼通流

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本多政朝 本多政勝

 慶長4年(1599年)、本多忠勝の長男本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男として生まれる。
 叔父である上総大多喜藩主本多忠朝が慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で討死すると、幼少である忠朝の子・本多政勝に代わって大多喜藩を相続する。元和3年(1617年)に播磨龍野藩5万石に移封される。その後、寛永3年(1626年)に兄であり本多家宗家播磨国姫路藩の嫡子である本多忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。
 寛永8年(1631年)、父の死去により家督を相続して姫路藩主となった。なお、相続前に所有していた5万石は、弟の本多忠義に1万石、従兄弟の本多政勝に4万石を分与した。
 寛永15年(1638年)死去。跡を政勝が養子となって継いだ。

 「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。慶長20年(1615年)、上総大多喜藩主だった父の忠朝が大坂夏の陣で戦死したときはまだ2歳だったため、従兄の政朝が家督を継ぐこととなった。ところが本家を継ぐはずだった政朝の兄の忠刻が早世したため、政朝がその跡を継ぐこととなり、政勝が庶流の家督を継ぐことになったのである。このとき政朝の所領5万石のうち4万石を襲封し、残り1万石は政朝の弟・忠義に分与された。
 その後の寛永14年(1637年)、今度はその政朝が病に倒れた。政朝の息子に政長がいたが、本多氏は幼少の子を当主としてはならないという忠勝以来の掟があった。そのため、従弟に当たる政勝に本家の家督を譲り、政長が成長したら家督を譲るようにと遺言を遺して死去した。こうして本家の家督を継いだ政勝は、翌年には松平忠明と入れ替わりで大和郡山に移封された。なお、本家相続前の所領4万石は長男の勝行が襲封した。
 ところが年が経つにつれて、政勝は養子の政長より実子の政利に譲りたいと画策し始めたため、これが後の九・六騒動の遠因となった。寛文元年(1671年)10月晦日、江戸柳原屋敷にて死去した。享年58。

本多政利  本多政長

 父・政勝は、本多家宗家である従兄の大和郡山藩主・本多政朝の跡を相続し襲封した。これは政朝の実子・政長が、わずか6歳という幼少であったために襲封したもので、政勝の跡は政長と定められていた。しかし、実子の政利に家督を相続させようと考えた政勝は大老・酒井忠清に取り入ろうとするが、家臣の都築云成の忠言により、政長が養嗣子と定められた。
 寛文11年(1671年)に政勝が死去すると、政利は即座に酒井忠清に裏工作し、政勝の遺領15万石のうち9万石を政長に、6万石を政利に相続させる幕府の裁定が下った(九・六騒動)。この騒動はこれで終わらず、15万石全てを相続できなかった不満で、政利は延宝7年(1679年)夏に政長を毒殺したと伝えられている。結局、政長の後は養嗣子の忠国が相続し、忠国は相続と同時に陸奥福島へ転封となり、政利も延宝7年(1679年)6月26日に播磨明石へ転封となった。このとき、6万石のうち3万石を宗家の忠国に返還し、新たに3万石を与えられている。
 その後、政利は過酷な政策を強いた罪により、天和2年(1682年)2月22日に陸奥大久保(岩瀬藩)に1万石に減封の上、転封となった。さらに、侍女の殺害や領民に過剰な使役を科すなどの不行状が幕府の耳に入るところとなり、元禄6年(1693年)6月に除封となり、出羽庄内藩主・酒井忠真の預かりの身となった。しかし、ここでも政利は粗暴な振る舞いを見せたため、同年8月8日に三河岡崎藩主・水野忠之の預かりに変えられ、岡崎城の一室に幽閉された。宝永4年(1707年)12月8日、同地で死去した。享年67。

 父・政朝が病に倒れたときはわずか6歳であり、このため本多家の家訓(幼君に家督を継がせてはならぬという掟)により、従兄の政勝が家督を継いだ。
 承応2年(1653年)、一族の大和郡山新田藩主本多勝行が世嗣断絶になると、その遺領4万石のうち3万石を大和国内で相続した(残り1万石は弟の政信が相続した)。そもそも、大和郡山藩は政長が襲封する予定であったが、前述のように幼少という理由で政勝が襲封した。政朝は政長が成長した後は政長に譲るよう遺言を残していたが、政勝は次第に実子の政利に郡山を襲封させようと画策し、これが後のお家騒動につながる。
 寛文11年(1671年)に政勝が死ぬと、大和郡山15万石は、政長の9万石と政利の6万石に分割され、政長は襲封前に所有していた新田3万石と合わせ計12万石となった(九・六騒動)。
 延宝7年(1679年)夏、15万石全てを相続できなかったことを恨みに思った政利によって毒殺されたとされる。政長の後は養嗣子の忠国が襲封した。

本多忠国 本多忠良

 陸奥守山藩主・松平頼元の次男に生まれる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。大和郡山藩主・本多政長の養子となり、政長死後、家督相続と同時に福島15万石に転封、その後姫路15万石に転封となる。
 赤穂浪士吉田兼亮の娘婿伊藤治興が家臣にいるためか、1703年(元禄16年)に吉田兼亮の遺児吉田兼直が連座して伊豆大島へ遠島となると、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に贈って支援している。藩主在任中に死去し、家督は3男の忠孝が継いだ。

 本多平八郎家の分家筋にあたる播磨山崎藩主・本多忠英の長男として生まれる。宝永7年(1710年)、15万石の本家当主・本多忠孝が7歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている。
 幕府では宝永7年(1710年)に第6代将軍家宣より側用人に抜擢され、翌年には侍従に上げられて席次は老中に次ぐと定められた。正徳2年(1712年)に同じ5万石で三河刈谷から下総古河に移封となる。第7代将軍家継が死去し、享保元年(1716年)に紀州藩から徳川吉宗が第8代将軍に就任すると側用人を解職されて帝鑑間席に戻ったが、忠良は平八郎家の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された。
 享保19年(1734年)には西の丸老中、翌年には本丸老中となり再び国政の表舞台に復帰した。延享3年(1746年)に老中職を退き、宝暦元年(1751年)に古河藩主在任のまま死去した。

本多忠典 本多忠顕

 宝暦14年(1764年)1月24日、石見浜田藩主・本多忠盈の次男として石見浜田で生まれる。安永6年(1777年)に岡崎藩主本多忠粛が死去したため、その養子として家督を継ぐ。しかし本多氏は、相次ぐ移封で財政難となる。そのため、幕府に豊かな土地への移封を願い出るが許されず、代わって安永7年(1778年)に1万両を10年かけて与えられることとなり、諸役も免除されることとなった。天明3年(1783年)には預かり地を与えてもらうように幕府に願い出るが、これも許されなかった。
 寛政2年(1790年)8月26日、江戸で死去した。享年27。跡を養子の忠顕が継いだが、相次ぐ藩主の早世と養子問題から、死後に藩内で家督抗争が起こった。

 安永5年(1776年)4月16日、伊予国西条藩第6代藩主松平頼謙の次男として江戸で生まれる。幼名は敬次郎。寛政2年(1790年)に岡崎藩主本多忠典が早世したため、その養子として家督を継ぐことになるが、藩内で相次ぐ養子問題から家督抗争が起こる。しかし、幕府の老中松平定信と本多一族の本多忠籌の調停により、抗争は鎮められた。
 若年のため、藩政は家老の中根忠容と服部平兵衛、商人の三谷喜三郎らによって行われた。彼らは32万両にまで膨れ上がった借金を抱える藩の財政を再建するため、財政改革に着手する。その結果、寛政9年(1797年)までに改革の効果が現れて24万両にまで借金を減らすことができた。ところが、成長した忠顕が改革反対派と結託して改革派の排斥に乗り出し、寛政8年(1796年)に服部平兵衛が、寛政11年(1799年)に中根忠容がそれぞれ失脚に追い込まれた。
 その後は忠顕の親政が行われたが、遊興に耽って藩政を顧みなかった。このため、藩の財政難がさらに促進されたという。この頃の岡崎藩の衰退を示す逸話として、武士が着けるための武具はほとんどなく、馬に至っては厩舎に1頭しかいないという有様だったとまでいわれている。
 文政4年(1821年)2月9日、病を理由に4男の忠考に家督を譲って隠居しようとするが、このときには忠考を廃して親藩から養子を迎えようという動きもあるほどだった(忠顕も親藩の出身である)。しかし結局は、忠考が家督を継いでいる。天保9年(1838年)3月4日、死去した。享年63。

本多忠考 本多忠民

 文化2年(1805年)、第3代藩主本多忠顕の四男として生まれる。4男のため、はじめ母方の姓で乙見敬次郎を名乗っていた。文化11年(1814年)に本多姓に復し、本多忠祥と名乗る(のちに忠考と改名)。
 文政4年(1821年)2月9日、父が隠居したとき、親藩から養子を迎えようという動きもあったが、家督抗争の末に忠考が家督を継いだ。このとき、従五位下・中務大輔に叙位・任官する。しかし文政11年(1828年)の矢作川洪水で2万石の損害と70人余りの死者を出すなど、藩財政の困難はさらに促進される。しかもこのような中で忠考は病弱で藩政が執れず、とても藩の窮境を打開できるような人物ではなかった。
 また、実子の忠胤も病弱だったため、親藩高松松平家から忠民を婿養子として迎え、天保6年(1835年)5月24日に忠民に家督を譲って隠居した。明治12年(1879年)11月21日に死去した。享年75。

 岡崎藩主・本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日将軍・徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、養父・忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。
 弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下ったときは一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。
 明治2年(1869年)2月20日、隠居して婿養子の忠直に家督を譲った。明治16年(1883年)に死去した。

本多忠直 本多忠敬

 天保15年(1844年)、信濃小諸藩の第9代藩主・牧野康哉の5男として生まれる。慶応3年(1867年)10月25日、岡崎藩の第5代藩主・本多忠民の養子忠肇が早世したため、代わって養嗣子となる。幕末期には忠民と共に協力して藩政を行なった。慶応4年(1868年)3月12日、養父・忠民に代わって上京し、新政府に恭順の意思を示した。4月には駿府城の警備を務めている。
 明治2年(1869年)1月、再び上洛する。2月10日、養父・忠民の隠居により家督を継ぎ、従五位下・中務大輔に叙位・任官する。2月17日、和宮親子内親王邸の警備を命じられる。6月には版籍奉還で岡崎藩知事に任じられた。その後は貧民救済、允文館・允武館創設による文武の奨励に努めている。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。
 明治5年(1872年)5月からはヨーロッパへ留学し、明治11年(1878年)11月に帰国する。明治13年(1880年)4月29日、東京都森川邸で死去した。享年37。本多家家督は4代藩主・本多忠考の長男・忠胤の子の忠敬が継いでいる。

 文久3年10月14日(1863年11月24日)、本多忠胤の長男として生まれる。弟は第2代岡崎市長の本多敏樹。
 1880年(明治13年)4月29日、最後の岡崎藩主・本多忠直が35歳で死去した。忠敬は本多家の家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を授けられる。宮内省式部官に就任。
 1869年(明治2年)9月に設立されたものの、廃藩置県に伴い2年で廃止された岡崎藩の藩校の允文館と允武館の遺志を継ぐべく、教育事業に力を注いだ。本多賞を創設し小中学生の勉学を奨励。1901年(明治34年)4月、東京遊学の子弟のために、本郷森川町の旧藩邸に宿舎「龍城館」と三河郷友会の学生寮舎(三河郷友会学生会館)を提供した。同郷子弟に対し物心両面から援助の功を尽くした。1904年(明治37年)7月10日からその死去まで貴族院議員を務めた。
 1915年(大正4年)4月16日から「家康忠勝両公三百年祭」が開かれる。忠敬は三百年祭の祭主を務め、祭典後に本多忠勝出生の地とされる岩津村大字西蔵前に碑を建立した。1919年(大正8年)、旧岡崎城跡一円を市民憩いの場として開放するため岡崎市へ寄付。市は11万円余りを投じ5か年継続事業により整備につとめ、旧城郭区域を岡崎公園として完成させた。
 1920年(大正9年)6月8日、死去。享年56。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。

本多敏樹

 愛知県岡崎市生まれ。学習院,札幌農学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発に取り組む。
 1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中に倒れ、その日49歳で死去。市が設けた協議会や委員会が打診した新市長の候補者はいずれも固辞し、米騒動による混乱をはさみ(岡崎市では8月14日,15日に発生)、選考作業は難航した。結局市内に好適な人物は見あたらず、北海道にいる本多と香川県丸亀高等女学校教諭の岡田辰雄が最終的な候補とされた。11月12日、本多が第2代市長に選任され、12月4日裁可、12月17日市長就任となる。
 1919年(大正8年)3月、六ツ美村の浄妙寺の女性と結婚。1922年(大正11年)、三河郷友会長に就任。3期市長を務め、1930年(昭和5年)12月5日、任期満了で退任した。
 戦後は1947年(昭和22年)4月5日に行われた第1回公選岡崎市長選挙に出馬するも落選。1956年(昭和31年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。1958年(昭和33年)11月2日、4選を狙う竹内京治市長の推薦母体である愛市連盟が発足すると、本多は同団体の名誉会長に就任する。翌年の市長選で竹内は僅差で太田光二に敗れる。
 1968年(昭和43年)2月8日、市内梅園町の自宅で死去。93歳没。
 主な業績としては、土木建築部門では、殿橋の架橋,明代橋の架け替え,明神橋の架橋,図書館新築,下水道工事の着手の建設などが挙げられる。1919年(大正8年)に17代岡崎藩主・本多忠敬から寄付された旧岡崎城跡一円を、5か年継続事業により岡崎公園として完成させた。1922年(大正11年)、岡崎美術展を創設し、市が後援して美術展を行ったが、これは大正期の中小都市において市が後援することはきわめて珍しいことであった。1925年(大正14年)3月、三島尋常小学校の新築移転を行ったが、鉄筋コンクリート2階建校舎は当時、東洋一の校舎と言われた。