<藤原氏>北家 魚名流

F801:藤原魚名  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原鷲取 F802:藤原鷲取

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藤原鷲取 藤原藤嗣

 宝亀2年(771年)従五位下・伊勢員外介に叙任されると、翌宝亀3年(772年)伊勢介、宝亀5年(774年)伊勢守と伊勢国司として順調に昇進し、宝亀6年(775年)には従五位上に昇叙されている。宝亀7年(776年)造宮少輔に転じると、のち造宮大輔,中務大輔と光仁朝の後半は京官を歴任する一方、この間の宝亀10年(779年)上野守を兼ねている。
 延暦元年(782年)父の左大臣・藤原魚名の失脚に伴い、他の魚名の子息が左遷された際に、鷲取の名前が挙がっていないことから、これまでに没したと考えられる。

  延暦12年(793年)常陸掾に任ぜられると、中務少丞,式部大丞を経て、延暦18年(799年)従五位下に叙爵される。のち、権右少弁,大宰少弐を歴任する。延暦25年(806年)4月に平城天皇が即位すると、5月に従五位上、6月に従四位下と1年間で4階級の昇叙を受けるなど、平城朝で急速に昇進するとともに、右京大夫,兵部大輔を歴任した。
 大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い従四位上に叙せられて、皇太子・高丘親王(平城上皇の皇子)の春宮大夫に任ぜられる。また、右大弁,陸奥出羽按察使も務める。翌大同5年(810年)に発生した薬子の変では嵯峨天皇側に付いて右近衛中将を兼ね、変後は摂津守を兼ねた。弘仁3年(812年)参議兼大宰大弐に任ぜられ公卿に列す。のち右衛門督を兼ねた。弘仁8年(817年)3月25日薨去。享年45。

藤原高房 藤原国風

  弘仁13年(822年)右京少進、天長3年(826年)式部大丞。天長4年(827年)従五位下に叙位、美濃介に任ぜられて現地に下向。その後も、備後,肥後,越前等の守に任ぜられ、地方官として治績を上げるが、位階は嘉祥3年(850年)に叙せられた正五位下に留まった。仁寿2年(852年)背中にできた悪性の腫瘍により没した。
 身長が6尺(約180cm)という長身で、人並み外れた膂力の持ち主であった。また、意気が盛んで、細かいことには拘らない性格であったという。
 美濃介に任ぜられ現地に下向した際の治績として、以下の話が伝わっている。安八郡では、貯水用の渠の堤防が決壊しており農業用水を蓄えることができない状況であったため、高房は堤防の修理を行おうとした。しかしながら、渠の神が渇水を欲しており逆らう者は死ぬとの祟りがあり、前の国司は堤防の修理をしなかったことを、現地の民が訴えた。高房は、いやしくも民に利益があることであれば、たとえ祟りで死んでも恨むところはないと言い、農民を駆り出して堤を築かせ、用水の灌漑を行った。
 席田郡では、妖しい巫女がおり人心を惑わせていたが、官人は恐れてその土地に入ることができなかった。そこへ高房は単騎で乗り込み、巫女の一味を追捕、厳しく罰し、人心を安定させた。

 

  最初は海賊を取り締まるはずの純友であったが、その任期を終えた後も居残り、ついには自らが海賊の大将となった。折から東国では、平将門が朝廷に対し関八州を手中に収めようと反乱を起こしていた。この二人は決して意思統一をしていたとは思えないが、関東,瀬戸内海と、京都を挟んでほぼ同時期に起きた、反乱は朝廷を大いに慌てさせた。一時期は純友懐柔策として五位の昇叙しているが一時の策にすぎなかった。当時瀬戸内海は物資の往来が盛んで、陸上輸送に比べ、船での海上輸送は効率的であった。それが海賊を生じる要素にもなっていた。
 純友がしばらく態度を軟化させているとき、その部下の海賊は天慶2年(939)12月、海賊の情報を京に報告に行く途中の備前介・藤原子高を摂津国で捕らえてその子を殺し、また播磨介・島田惟幹を捕らえている。翌3年2月には備中の官軍を破り、淡路を襲って兵器を奪っている。
 また、海賊は淀川をさかのぼり、京都に潜入放火し、住民は朝夕純友が海路を伝って上京するとの噂に脅かされた。8月には純友の動きは活発になり、400余艘の賊船に襲われた伊予国についで、讃岐国が荒らされ、合戦に敗れた讃岐介・藤原国風は一時阿波国に逃れている。また、備前・備後の兵船100余艘も焼かれている。10月から12月にかけては、九州太宰府の兵が打ち破られ、周防では鋳銭司が焼かれ、紀伊国についで土佐国までもが海賊の侵略を受けている。
 これに対し、追討軍は、播磨・讃岐両国で200余艘の船を造り、兵を集めて讃岐に帰っていた、藤原国風とともに伊予に追撃しようとしたが、このとき純友の軍勢は1500艘にもふくれあがっていた。だが、純友の腹心の部下・藤原恒利が、賊陣から抜け出て国風のもとに投降していたため、追討軍は純友らの情報を得ることができた。隠れ家,海路などを詳しく知って、天慶4年2月、純友を裏切った恒利を先導として伊予を襲い、純友は大敗する。その後起死回生を計ったか、5月、純友は体制を立て直し、太宰府を襲うが、追討軍・小野好古らの攻撃を受け筑前博多津に追いつめられ、ここで純友軍は壊滅状態になる。
 かろうじて日振島に逃れ帰った純友であるが、伊予警固使・橘遠保に捕らえられ、天慶4年7月その首は京都に送られた。

藤原元命 藤原春岡
  寛和2(986)年,尾張守に任じられて赴任したが、租税調庸の不法な増徴をはじめ、公費の横領,息頼方や一族郎等による狼藉,官物の京宅への運送など、苛斂誅求の限りを尽くしたとして、永延2(988)年11月8日、郡司,百姓らから31カ条にわたる罪状を訴えられた。悪徳受領の典型とされる。その結果、翌永祚1(989)年4月5日の除目で罷免されたが(代わって藤原文信が任命)、長徳1(998)年4月、吉田祭の上卿(行事の責任者)が不参のため散位の元命が代わりにこれを勤めており、罷免は当面のトラブルを避けるための糊塗策であったか。もっとも『尾州鳴海地蔵縁起』には、元命は解任されたあと「術ツキテ東寺門ニテ乞食ケルガ、終ニハ飢死タリケリ」とあって、史実ではないが、その暴政ぶりが語りつがれ説話になったことが知られる。

 承和7年(840年)従五位下に叙爵し、翌承和8年(841年)常陸介に任ぜられる。承和13年(846年)宮内少輔に任ぜられると、右衛門権佐,少納言と、仁明朝末から文徳朝初頭にかけて京官を歴任する。この間の嘉祥3年(850年)3月の仁明天皇の崩御に際して伊勢国の固関使を務め、同年4月の文徳天皇の即位に伴って従五位上に叙せられている。仁寿2年(852年)大宰少弐に任ぜられると、越中守,大和権守と、文徳朝から清和朝にかけて地方官を歴任し、この間の貞観4年(862年)には正五位下に昇叙された。