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| 源 頼政 | 源 仲綱 |
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平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政ともいう。 |
久寿2年(1155年)、守仁親王(後の二条天皇)が立太子されると蔵人に補され、東宮に仕えた。平治元年(1159年)、父・頼政は平治の乱で平清盛に味方し、その結果、源義朝の河内源氏は没落するが、摂津源氏は平氏政権下の中央に留まることになった。 |
| 源 宗綱 | 源 頼成 |
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治承4年(1180年)5月、祖父・頼政、父・仲綱らは以仁王を擁して平家に叛旗を翻す。宗綱はこの戦いに一家の嫡男として参加し奮戦するが、やがて衆寡敵せず敗北し、宇治平等院にて一族もろとも自害して果てた。 |
六条天皇の頃(1165~68年)、美濃国嶋田村(岐阜県養老町)に移住。御田代(神田)を備えた國津明神(田代神社)を深く崇敬し、「田代冠者頼成」と自称した。 |
| 大河内有綱 | 源 広綱 |
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治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の際には、弟の成綱とともに祖父の知行国であった伊豆に滞在しており難を逃れた。直後に同地で配流の身であった同族の源頼朝が挙兵するとその麾下に入り、父祖の仇敵である平家討滅を目指すことになる。 |
頼政,仲綱らが以仁王と共に挙兵し討ち死にした時、仲綱の次子・有綱と共に知行国の伊豆におり、伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に加わる。寿永3年(1184年)6月5日、小除目により一ノ谷の合戦の褒章として頼朝の推挙に基づいて従五位下駿河守に叙任される。頼朝は同じ清和源氏の一門には冷たく当たる傾向があったが、その一方でこの広綱や足利義兼(源義兼),平賀義信(源義信)などは厚遇し、あえて格差をつけるようなことも行った。 |
| 源 兼綱 | 木山正親 |
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父・頼行が若くして自害したため兄弟と共に伯父・頼政の養子となり、平氏政権下の都で検非違使を務めた。治承4年(1180年)5月に養父・頼政が以仁王を奉じて打倒平家の兵を挙げると、当初平家方は乱の首謀者が頼政であることを把握しておらず、以仁王追捕のために招集した検非違使の中に兼綱を含めていた。兼綱は頼政にこの動きを急報。これを受けた頼政は至急以仁王を園城寺に移し、事件は一気に急展開を見ることになる。 |
阿蘇氏の客将として生まれる。生誕した場所は分かっていない。どもり癖(吃音症)であったため、「どもり弾正」とも呼ばれた。近隣に知れ渡る程の剛勇の士であったと伝えられる。龍造寺隆信の跡を継いだ龍造寺政家との関係が悪化したために、縁戚である天草種元に客将として迎えられた。 |
| 源 頼兼 | 源 頼茂 |
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安元2年(1176年)6月に大番役をしていた郎従が窃盗事件を起こし京中で騒ぎとなるが、『玉葉』に見えているこの記事の中で頼兼は「美乃源氏頼光末葉」と記され、また九条院の非蔵人を務め五位となっていたことが確認できる。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵における動向は詳らかでなく、寿永2年(1183年)7月の木曾義仲入京後に行われた源氏諸将を中心とする京中守護軍の編成において「源三位入道子息」として大内裏の警護を命ぜられる。 |
父・頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、承久元年(1219年)7月13日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃される。頼茂は応戦し抵抗するものの仁寿殿に篭り火を掛け自害し、子の頼氏は捕縛された。 |
| 鵺代清政 | 浜名政明 |
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清政の代は南北朝の争乱期にあたり、清政は足利尊氏に加担したことで、一時、遠江を逃れるという事態となった。 |
長享元年(1487年)、将軍・足利義尚が近江の六角高頼を親征したとき、政明が参陣し五番に着到している。その後、永正3年(1506年)に今川氏親の客将・伊勢長氏に属して、三河に入り松平長親の軍と戦っている。大永2年(1522年)には、連歌師・柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催している。 |
| 浜名正国 | 浜名頼広 |
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正国は今川義元に属して、永禄3年(1560年)、義元の上洛軍に加わり、桶狭間において義元が織田信長の奇襲によって討死すると、軍を徹して帰国したと伝えられている。 |
頼広の妻は今川氏に最期まで誠忠を尽した掛川城主の朝比奈泰能の女であり、浜松城主・飯尾乗連は甥に当たるといわれ、今川氏とは強い因縁で結ばれていた。それゆえに、今川氏を見限ることのできない立場にあった。 |