<桓武平氏>高望王系

K312:桓武天皇  桓武天皇 ― 平 高望 H101:平 高望

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平 高望 平 良将
 葛原親王の3男・高見王の子・高望王は、寛平元年(889年)5月13日、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った。高望は昌泰元年(898年)に上総介に任じられる。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男・国香、次男・良兼、3男・良将を伴って任地に赴く。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国,下総国,上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成して、その後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。 しかしその後、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する。なお、この間の延喜3年(903年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真も同地で没している。

 寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の高望とともに坂東に下向した。良将の最初の営所は不明であるが、後に犬養春枝の娘を妻とし、下総国,豊田郡を拠点にしたといわれる。 父・高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず、前任の常陸大掾である源護の婿として常陸国に在った長兄の国香や、上総国に在った次兄の良兼とともに、良将は下総国に在って未墾地を開発し、私営田を経営、また鎮守府将軍を勤めるなどし坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
 しかし、子の将門が承平天慶の乱に敗れたため、良将の子孫を称する氏族はあまりない。

平 良広 平 良正

 仁明天皇治世時の承和2年5月6日、桓武天皇第三皇子葛原親王の子・高望王の4男として生まれる。兄に平国香,平良兼,平良将が、弟に平良孫,平良文,平良茂,平良正がいる。 父上総介として、国香,良兼,良将など三人の息子を引き連れて関東に根を張るが、4男の良広は姻戚関係にあった紀家が絡んだ応天門の変に連座して紀夏井とともに土佐に流された。
 その後も土佐に留まり、そのまま生涯を終えたと伝わる。

 筑波山麓の常陸国水守を本拠とし源護の娘を妻とした。護の子・扶らと甥の将門が争い、扶ら兄弟が討ち死し兄の国香が巻き込まれ亡くなった際、父・高望亡き後、上総介を次ぎ一族の長であった良兼は不介入であったが、良正は一族の将門ではなく外縁の源氏に真っ先に加勢して将門と争った。この良正の行動により争いが益々激化する。承平5年(935年)10月、良正は将門追討の兵をあげ、それを察知した将門もすぐさま出陣、21日常陸国新治郡川曲村にて戦闘となる。双方激しく戦った末に良正は敗走、将門は翌日本拠の下総国豊田に引き上げた。 その後、良正は上総の良兼に将門の乱暴を訴える。将門の岳父でありいわば親権者でもある良兼も放っておけず、承平6年(936年)6月、良兼は良正や国香の子・貞盛らと共に下野国境にて将門と対戦、良兼が将門との対立の中心に立つようになり舅と婿の争いになった。現在は嫁入り婚であるが、当時は婿が嫁の家に通うのが原則であり、良兼の娘が将門の元に奔ったことにも抗争激化の一因がある。
平 将門 平 良門
 下総国,常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷,平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社,築土神社,神田明神,国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。

 父亡き後、臣下や一族の人望を集めて、いちはやく挙兵を模索し、奥州や西国を巡ったとされる。
 江戸中期に入ると、良門の存在は妖怪あるいは悪鬼として近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎,舞台劇などに登場し、源頼光によって退治された姿として描かれている。

平 将国 平 五月丸

 平将門の乱により一族はほとんど誅されたが、常陸国信太郡に落ち延び、その子・文国の代に信田小太郎と称して、以後数代に渡って信田氏を称したという。常陸国信田(信太)郡を拠点とした。 新皇を称した父・将門が、平将門の乱によって滅ぼされると、まだ幼少であった将国は、一族に担がれ二代新皇を称し再興を図るも、守る将兵や乳母らとともに常陸国浮島(茨城県稲敷市霞ヶ浦)まで落ち延びたと伝えられる。
 戦乱が沈静化した後は、疲弊し荒れ果てた領地を回復させるため大叔父の平良文の後見を得て、治世に心血を注いだ。その後の足跡は不明であるが、後年、歴史上に見られる安倍晴明と同一人物であるという説が有名である。また、将国が神のお告げで発見し、病や傷を癒したとされる紀北町の有久寺温泉などが伝えられている。

 滝夜叉姫は、平将門の娘とされる伝説上の妖術使い。本来の名は五月姫という。天慶の乱にて平将門は討たれ、一族郎党滅ぼされるが、生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船明神の社に丑三つ時に参るようになった。満願の二十一夜目に貴船明神の荒御霊の声が聞こえ、彼女に妖術を授けた。貴船神社の荒神は「丑の刻参り」の呪詛神として有名で、貴船山に丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨した神とも伝えられる。貴船神社は『栄花物語』や『お伽草子』、能「鉄輪」、宇治の橋姫の伝承などで取り上げられている。 荒御霊のお告げどおり、滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総国へ戻り、相馬の城にて夜叉丸,蜘蛛丸ら手下を集め朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝夜叉姫成敗の勅命を大宅中将光圀(通称太郎)と山城光成に下す。激闘の末、陰陽の術を持って滝夜叉姫を成敗した。死の間際、滝夜叉姫は改心し平将門のもとに昇天したという。 なお、坂上田村麻呂が鈴鹿山にて、大鬼人の犬神丸の手下である鬼人に夜叉丸という者がいる。夜叉丸は改心し田村麻呂の家臣になっている。この夜叉丸と何か関係があるかは不明。
平 春姫 平 将頼
 父である平将門が討伐された際は、下総国相馬郡岩井郷に隠れ住み、名を如春尼と改めて一族の菩提を弔ったとされる。春姫は平良文の子、平忠頼の正室となり、平忠頼との間に平忠常、将恒(将常)、頼尊を生む。長男の忠常は千葉氏の祖、次男の将恒は秩父氏の祖となり、三男の頼尊の子孫は中村氏を称した。秩父氏、千葉氏、中村氏は各地の大族として繁栄して後に多くの分流を出し、大同族を形成した。

 「御厨三郎」と称す。『尊卑分脈』では四男、『相馬系図』では長子の将持がない為に三男である。子に将兼があるとされる。将門私授下野守。将門が「新皇」を僭称して関東を席巻すると下野守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛・藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、後日将頼も相模にて討たれた。
『将門記』によると、将門の弟達のなかではこの将頼だけが「朝臣」の称号を持っているため、国衙において何かしらの官位を持っていたと思われるが詳細は不明。

平 将平 平 将為

 豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称す。『尊卑分脈』では5男、『相馬系図』では長子の将持がないために4男である。将門私授上野介。 兄の将門の新皇即位について伊和員経らと共にこれを諌めたが、聞き入れられなかった。『相馬系図』では新皇将門によって上野介に任ぜられているが、『将門記』などの書物では上野国は上野守に任ぜられた多治経明の任国となっていて将平の名はない。
 天慶3年(940年)2月、将門が平貞盛,藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将平は追捕を免れようと埼玉県秩父郡の城峯山中に潜伏したと伝えられ、同地の皆野町にある円福寺に墓が祀られている。

 「相馬五郎」と称す。『尊卑分脈』では末弟で将武の弟であるが、『常陸大掾譜』では将武の兄としている。将門私授下総守。 将門が新皇を僭称すると下総守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛,藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、次々と一族郎党は討たれた。
 『師守記』に天慶3年4月12日将門の弟の「将種」なる者が舅の陸奥権介・伴有梁と共に謀反を企てたとあり、この「将種」は諸系図を見てもその名は無く、ゆえに「将種」は将為であるともいわれる。

平 将武
 「相馬六郎」と称す。『尊卑分脈』では7男で将為の兄であるが、『常陸大掾譜』では将為の弟となっている。将門私授伊豆守。 『本朝世紀』の天慶元年(938年)11月3日の条によると、駿河,伊豆,甲斐,相模の4ヶ国に将武の追捕令が発せられており、将門が乱をおこす以前から伊豆,相模辺りを拠点に猛威を奮っていたとみられている。将門が新皇を僭称すると伊豆守に任ぜられるが、天慶3年(940年)2月14日、将門が平貞盛,藤原秀郷らとの戦いによって敗死すると勢力は一気に瓦解し、将武も討たれ同年3月7日甲斐国飛駅は「将武誅殺」を朝廷報告した。