<桓武平氏>高望王系

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平 良望 平 貞盛

  寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元年(898年)に坂東に下向、常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田を本拠地とした。源護の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継ぎ坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
 舅である護の子・扶に要撃された甥の平将門が、承平5年(935年)2月4日に反撃に出た際、居館の石田館が焼かれ死亡した。京都で左馬允在任中にこの報せを聞いた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国、一時は旧怨を水に流し将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対することとなり、承平天慶の乱の発端となった。

  承平5年(935年)父の国香が従兄弟の将門と母方の叔父たちとの抗争に巻き込まれ亡くなった際は京で左馬允在任中であった。休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父・国香の屍を探し、山中に避難した母と妻を探し出す。この際、貞盛は叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことがことの発端であり、将門に非はなく、自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。
 しかし、将門の行為が父・国香を死に至らしめたことでもあり、叔父の良兼に説得され、良兼や良正らが将門を攻める際、これに加わり将門と対立することとなる。だが抗争は将門有利に進展し、承平8年(938年)密かに上洛を企てる。これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で旧知の滋野恒成(善淵)と共闘するも敗れ将門の追撃を受けるが、脱出し京の都に辿り着く。そして将門追捕の官符を持って帰国するが一蹴され、天慶2年(939年)6月上旬には叔父・良兼が病没し後ろ盾を失い、同年10月、陸奥守・平維扶の赴任に従って陸奥に入らんとするも再び将門の追撃を受け、辛くも逃げきり身を隠す。11月常陸国の紛争を利用して将門を討たんとするが失敗し、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。
 天慶3年(940年)、母方の叔父・藤原秀郷と従兄弟である為憲の協力を得て将門を攻め、2月14日「北山の決戦」にてこれを討ち取る。将門討伐後、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上(正五位上とも)に叙せられた。
 のちに鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。

平 直方 平 繁盛

 本拠地は鎌倉で、鎌倉に居館を構えた。官職は追討使,能登守,上野介,上総介,検非違使,左衛門少尉などを歴任した。
 東国で平忠常が叛乱を起こすと、朝廷は維時を上総介に任命して、その子・直方に忠常征伐の勅命を下した。直方は麾下の軍勢と東海,東山,北陸の三道の軍を結集して討伐に向うが、関東を押さえて士気の上がる忠常軍を攻めきれずにいた。直方は持久戦で忠常軍を追い詰めるが、朝廷は直方の戦法を手ぬるいと判断して直方を解任した。代わって、かつて平忠常の家人であった河内源氏の源頼信(頼義の父)を甲斐守に任命し討伐を命じた。直方の持久戦で疲弊していた忠常は頼信にすみやかに降伏した。
 後に本拠地の鎌倉を娘婿である源頼義に与えた。直方が頼義に娘を娶らせた理由は頼義の武芸(特に射騎)の巧みさに感服して、同じ武門の家のものとして誼を通じていきたいと願い出たからだと伝わる。

 大掾繁盛とも呼ばれる。兄の貞盛らと共に平将門の乱を鎮圧し、武名を挙げた。しかし繁盛に対する恩賞は少なく、繁盛は大いに不満をもった。繁盛は乱後46年経った寛和2年(986年)になってから国家守護のために大般若経600巻の書写を比叡山延暦寺へ奉納して忠誠を示そうとしたが、これを武蔵国において仇敵であった平忠頼・忠光らによって妨害された。繁盛は朝廷に訴え一度は追討を出されたが、まもなくその訴えも無効になってしまった。そのため太政官に対し上申書を提出し各国の国衙を経由して奉納するという条件でやっとのことで比叡山への奉納を完遂することができた。
平 兼忠 平 維良
 平安時代中期の受領層の軍事貴族。官位は従五位上・出羽守または上総介。大掾兼忠とも呼ばれる。 『今昔物語集』巻第25第4「平維茂が郎党、殺され話」に登場する。藤原道長に臣従している。

  上総介平兼忠の子だが『尊卑分脈』には見えない。大掾維良とも呼ばれる。
 長保3年(1003年)、下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使・藤原惟風の追補を受け、越後国に逃亡した。長和3年(1014年)、『小右記』の2月7日条には陸奥国鎮守府将軍の重任を得るため、藤原道長に馬20疋他豪華な貢ぎ物を行い、門前にはそれを見ようとする見物人が列をなしたとあり、それ以前に鎮守府将軍であったことが解る。