| H539:鎌倉景成 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景成 ― 長江義景 | H540:長江義景 | ● |

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| 長江義景 | 長江高景 |
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大庭(鎌倉)景継を父とする説と鎌倉景明を父とする説がある。当時の鎌倉党は養子関係が多く、系図は錯綜ぎみである。葉山町に館を構えてから長江を名乗ったらしい。 |
美濃には鎌倉幕府の頃より、目代として斎藤氏が勢力を培っていた。土岐氏が美濃守護となり、その下風となりついには土岐氏の家宰となった。ところが、土岐氏の守護代である富島氏は、家宰である斎藤氏と権勢を争いその関係は険悪なものであった。そして、嘉吉年間(1441~43年)、重景の子・備中守高景は、美濃守護土岐氏の守護代・富島氏の養子となって守護代に就くと、ついに斎藤,富島両氏の関係は破裂し、文安元年6月、高景は京都の土岐屋形において斎藤氏に殺害された。 |
| 長屋景頼 | 長屋景興 |
| 相模国から美濃国に来住し本巣郡長屋に住し、ついで、不破郡垂井に移住したと伝える。以後、代々垂井に住したて美濃守護土岐氏に属した。 | 景興は、垂井より赤坂を切り取り揖斐郡相羽城に移り、相羽城に拠った。この頃、長屋氏の知行は二万石余であったという。天文16年12月、斎藤道三に攻められて、父子ともに滅亡した。 |
| 長屋重景 | 長屋景重 |
| 重景は大野郡更地城主で天文年間武儀郡に移封された。天文11年8月、斎藤道三が守護・土岐頼芸の拠る大桑城を攻めたとき、重景は頼芸の麾下にあって討死した。 | 景重は道三に攻められて死んだ相羽城主景興の子で、養子となったものである。天正10年、豊臣秀吉に気脈を通じ、織田信孝方の郡上八幡城主・遠藤氏に攻められ降伏した。その後、文禄3年、上有知の佐藤方政に攻められ飛騨国増島城に逃れ、金森可重を頼んだ。このとき、養父の道重は門原村で討死した。 |