<桓武平氏>高望王系

H539:鎌倉景成  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景成 ― 長江義景 H540:長江義景

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長江義景 長江高景

 大庭(鎌倉)景継を父とする説と鎌倉景明を父とする説がある。当時の鎌倉党は養子関係が多く、系図は錯綜ぎみである。葉山町に館を構えてから長江を名乗ったらしい。
 源平合戦では、縁戚の三浦氏と協力して源頼朝に与する。衣笠城の戦いでは敗れたが、そこから敗走したあと頼朝に合流し、鎌倉幕府黎明期の重臣となった。頼朝が征夷大将軍になった後、義景は伊勢大廟神宝奉行となった。また、義景は弓の名手としても高名であり、頼朝の信任が厚かった。
 義景には3人の男子が居たが、明義の系統は宝治合戦で滅亡、景行は桑良氏を称し、唯一師景の系統が長江家の家名を後世に伝えた。義景は摂津国長江倉橋雨荘摂津で育った。その後一族の所領である葉山郷大山へ戻り当地を治めた。そして自身が育った長江椋橋荘にちなみ長江氏を名乗り、当地を長江に改称した。
 源頼朝とともに石橋山の挙兵に参加し、鎌倉幕府創建の功臣となった。また、奥州藤原氏藤原泰衡討伐(奥州合戦)にも従軍し、その功により戦後、奥州桃生郡南方の深谷保一帯を得た。
 1221年(承久3年)、長江氏は承久の乱で功を挙げたため、美濃国今須に所領を得た。その後、美濃国守護・土岐氏に従い、守護代となった。それ以降は、美濃国国内での多くの戦乱に身を投じ、斎藤氏と守護代の地位を争う。

 美濃には鎌倉幕府の頃より、目代として斎藤氏が勢力を培っていた。土岐氏が美濃守護となり、その下風となりついには土岐氏の家宰となった。ところが、土岐氏の守護代である富島氏は、家宰である斎藤氏と権勢を争いその関係は険悪なものであった。そして、嘉吉年間(1441~43年)、重景の子・備中守高景は、美濃守護土岐氏の守護代・富島氏の養子となって守護代に就くと、ついに斎藤,富島両氏の関係は破裂し、文安元年6月、高景は京都の土岐屋形において斎藤氏に殺害された。
 富島一族はただちに斎藤入道を討ち、長江氏と連合して、土岐持益の革手城、斎藤氏の稲葉山城を攻撃しようと垂井に進出した。斎藤氏は守護土岐氏と結んで青野ケ原に陣し、両軍は垂井において激戦となった。その結果、土岐,斎藤氏の兵は敗れ36人が戦死をした。このとき、今須の長江氏は高景の一族でもあり、富島氏の主力として奮戦した。
 以後、二十余年両勢力は西濃の地で争い、衝突を繰り返した。しかし、応仁2年10月、土岐方の名将・斎藤妙椿の今須攻撃によって、ついに富島・長江両氏は敗れて、高景を始め?景秀,元景,景次らは討死し、一族離散の憂き目となった。
 その後、長江景隆は織田氏に仕え、その子の半之丞は蜂須賀家政に仕えて阿波に移り、子孫は徳島藩士として続いたという。

長屋景頼 長屋景興
 相模国から美濃国に来住し本巣郡長屋に住し、ついで、不破郡垂井に移住したと伝える。以後、代々垂井に住したて美濃守護土岐氏に属した。  景興は、垂井より赤坂を切り取り揖斐郡相羽城に移り、相羽城に拠った。この頃、長屋氏の知行は二万石余であったという。天文16年12月、斎藤道三に攻められて、父子ともに滅亡した。
長屋重景 長屋景重
 重景は大野郡更地城主で天文年間武儀郡に移封された。天文11年8月、斎藤道三が守護・土岐頼芸の拠る大桑城を攻めたとき、重景は頼芸の麾下にあって討死した。  景重は道三に攻められて死んだ相羽城主景興の子で、養子となったものである。天正10年、豊臣秀吉に気脈を通じ、織田信孝方の郡上八幡城主・遠藤氏に攻められ降伏した。その後、文禄3年、上有知の佐藤方政に攻められ飛騨国増島城に逃れ、金森可重を頼んだ。このとき、養父の道重は門原村で討死した。