中国(秦王朝)渡来系

HT04:惟宗永厚  秦 酒公 ― 惟宗永厚 ― 惟宗忠親 HT05:惟宗忠親

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執印康友 国分友久

 薩摩国鹿児島郡生まれ。藤内内舎人,右馬允,大夫判官,鹿児島郡司并弁済使職。文治年間の頃に於いて禁裏薩摩国新田宮八幡執印職并五大院院主職・鎌倉幕府御家人で、鹿児島氏を称する。
 惟宗氏がもともと摂関家(藤原氏)に仕えた京都の武士であり、また 鹿児島は島津荘(摂関家であった近衛家領荘園)内で、また 康友は藤内内舎人である。建仁3年12月、島津荘寄郡鹿児島郡司弁済使職の意見に対し、鎌倉幕府から相伝の道理に基づき守護所に裁決された。

 惟宗姓執印氏初代・康友の2男の友久は、国分寺沙汰職(留守職)並びに天満宮別当職に補任され、水引城(国分城)に居城して国分氏を称する。15代・友積に至り、天正15年(1586年)豊臣秀吉の侵攻に伴い鹿児島に移り、以後、鹿児島に居住する。
市来政家 惟宗忠康
 国分友成の子であり市来の名字を名乗り、弟の河上家忠に大蔵氏を譲り、自らは国分家の本姓である惟宗氏を称した。以後、市来家は惟宗氏となる。寛正3年(1463年)、12代・久家の代に至って、島津立久との戦いに敗れ、政房以来690余年にして市来家は没落し嫡流家は滅亡した。菩堤寺は来迎寺。  平安時代後期の摂関家(藤原北家)に仕えた京侍。橋口右衛門尉。島津氏の祖である忠久の父とする説があり、忠久の母の丹後局が忠康の一族の惟宗広言の妻になった縁により、忠久,忠季も広言の養子となったものとする説がある。