中国(秦王朝)渡来系

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長宗我部能俊 長宗我部信能

 初めは秦能俊と名乗った。秦氏の後裔。秦明友の子だと言われているが定かではない。

 

信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。

 

子に長宗我部俊宗がいる。その子孫で信濃国更級郡の住人の秦能俊( 長宗我部能俊)が土佐国に入って、長宗我部氏を称したとされる[3]。能俊が土佐に入部した時期は説によって大きく異なるが、平安時代末~鎌倉時代初期に入国したものと考えられる。

 

延久年間(1069年 - 1073年)説[4]。
保元の乱(1156年)に際し崇徳上皇方に属して敗戦した結果土佐に奔(はし)ったという説[3]。
承久の乱(1221年)において仁科氏と戦い、その功で所領を与えられ地頭となったとする説[2]。
能俊は土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷、現 南国市岡豊町・国分周辺)に定住したため宗我部氏を自称したが、近隣の香美郡にも宗我郷(宗我部郷、現・香南市赤岡町・吉川町周辺)があって宗我部氏を名乗る一族がいたため、長岡郡の宗我部氏は長宗我部とし、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗って互いを区別したと言われる[5]。鎌倉時代初期の1201年にはすでに「香宗我部」の書状が見える[2][注釈 3]。なお、『元親記』などに基づいて長宗我部氏が国司として下向し土着したとする説があるが、国司任官を実証する史料はない[2]。

 父は第10代の重宗。元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏から土佐介良庄(高知市介良)で起こった在地豪族の反乱を香宗我部秀頼と共に鎮圧するように命令された[1]。

 

この信能の代から、長宗我部家は土佐の名主などを組織化して在地領主としての基礎を固めていった。

大黒清勝

 土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家[1]。字は「元右衛門」[2][3]。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。

 

来歴
生い立ち
享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる[4]。

 

武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う[3]。

 

明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続[4]。

 

安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる[4]。

 

長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる[5]。

 

寛政2年2月13日(1790年3月28日)歿、享年65歳[4]。

 

墓は、高知県高知市小高坂平和町(福井へ越える峠の西の峰頂北側)にある[4]。

 

清勝が林安太夫政詡から授かった居合の伝書は、林安太夫の孫である林益之丞政誠に伝えられた[5]。