中国(秦王朝)渡来系

HT07:長宗我部能俊  秦 酒公 ― 長宗我部能俊 ― 長宗我部文兼 HT08:長宗我部文兼

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長宗我部兼予 長宗我部元親

 土佐の国人領主・長宗我部雄親の子として誕生。文明10年(1478年)、父・雄親の死をうけて家督を継ぎ、土佐守護の細川政元に仕えた。兼序の別名・元秀の「元」の字は政元から賜ったものと考えられる。
 兼序は智勇兼備の武将で家臣団からの信望も厚く、その治世は当初はうまく機能していた。しかし香美郡の山田氏と抗争し続けたうえ、政元や一条氏の後ろ盾をいいことに次第に傲慢な態度が目立つようになり、土佐の豪族から反感を買うようになった。
 永正4年(1507年)、政元が暗殺されるという畿内に混乱をもたらす政変が起こり(永正の錯乱)後ろ盾を失うと、兼序は家臣団からも見放され孤立してしまう。そして、これを好機と見た本山氏や山田氏,大平氏,吉良氏ら諸豪族が、翌永正5年(1508年)に同盟を結び、共同して長宗我部氏居城・岡豊城へと進軍。兼序は緒戦では勝利するものの、多勢に無勢で岡豊城に包囲され補給路を断たれたうえ、味方の中からも離反者が相次いだ。通説では兼序は岡豊城で自害し、兼序の遺児千雄丸(後の長宗我部国親)は落ち延びて一条房家を頼ったとされる。近年では、兼序は自害せず脱出し亡命、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰し、永正15年(1518年)頃に息子・国親へ家督を譲ったとする説もある。

 天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。永禄3年(1560年)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げた。6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。
 元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。永禄3年末の段階で現在の高知市における南西部の一部を除いてほぼ支配下に置いた。永禄11年(1568年)冬には土佐中部を完全に平定した。さらに永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571年)、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして3男の親忠を養子として送り込む。天正2年(1574年)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年(1575年)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたが撃破し、土佐国を完全に統一した。
 土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。阿波・讃岐方面では、三好氏が織田信長に敗れて衰退していたものの、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝し、またこの年に讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
 伊予方面においては、南予地方での軍代であった久武親信の戦死や伊予守護・河野氏の毛利氏援助などで、元親の伊予平定は長期化することになった。
 天正8年(1580年)、織田信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るが、元親は信長の要求を拒絶する。このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長,十河存保らの反攻を受けた。天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。
 元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた(第一次十河城の戦い)。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。
 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉と対抗する。 4月に勝家は秀吉に敗れて滅ぶと、5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い、第二次十河城の戦い)。また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし
伊予国の平定は予想以上に手間取った。
 天正13年(1585年)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予,讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。秀吉は宇喜多秀家,黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景,吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長,秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。
 天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。
 天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転する。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や3男の津野親忠ではなく、4男の盛親に家督を譲ることを決定する。 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興,吉良親実などを相次いで切腹させている。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した
。天正19年(1591年)末頃には本拠を浦戸城へ移転する。
 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが、長宗我部の軍役は3,000人で固定され、水軍としての軍事力を期待されていた。慶長元年(1596年)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。
 慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた。その後、年末か年明けに土佐に帰国した。慶長4年(1599年)3月、3男の津野親忠を幽閉。その直後から体調を崩し、4月に病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去。享年61。高知県高知市長浜天甫山にあった天甫寺(廃寺)に葬られる。

長宗我部盛親 長宗我部盛胤

 天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであり(土佐守などは非公式な通称とされる)、これは大名当主としては異様である。国主となった後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる。
 長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。また、慶長2年(1597年)3月24日に父の元親と共に制定した『長宗我部元親百箇条』を発布している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したのは元親生前より増田長盛や垣見一直との縁があったからとみられ、盛親参戦の動機は当主として豊臣政権から認知されることにあった。盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元,吉川広家,安国寺恵瓊,長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は敗退した。
 西軍壊滅後、盛親は西軍の壊滅を島津義弘の知らせと吉田重年の偵察で知った。盛親は池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に逃れて小出吉親の追撃を受けて大坂の天満に引揚げて、土佐へ帰った。盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとした。井伊直政の書状によると、盛親は土佐を没収される代わりに「御堪忍分」という形で替地を与えられる予定であり、盛親の上洛はそれに応じたものだったようだ。しかし接収時に国替えに不満な家臣や吉良,津野などの遺臣一領具足が国元で浦戸一揆を引き起こし、その責任を問われ「御堪忍分」の支給を反故にされ改易という形になったことが窺える。大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。
 浪人となった盛親は慶長6年に大坂から伏見に移住して大名への復帰運動を慶長10年頃まで続けていた。慶長15年には剃髪して大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれる、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もあるが、一次史料では確認されていない。慶長17年頃には上立売の柳ヶ逗子で生活をしていた。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。
 大坂方と徳川方との間が険悪になる中、慶長19年(1614年)9月に板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいると答えて勝重を油断させ、僅か6人の従者と共に京都を脱出し、10月6日に大坂入城を果たした。これに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちや弟の康豊も入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢1,000人を持つに至った盛親は、真田信繁,後藤基次,毛利勝永,明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。
 こうして大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成,後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。 12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊,松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。しかしこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。
 野戦となった夏の陣では木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。八尾・若江の戦いである。慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。
 しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。なお、盛親隊はこの八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅したと考えられる。事実、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかった。
 5月11日に京都八幡付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された。その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した。

 幼少の頃より、長宗我部元親の子で大叔父の右近大夫に養育された。当時、右近大夫は肥後加藤氏に身を寄せていた関係もあり、盛胤も加藤氏に滞在していたと思われる。
1614年(慶長19年)から始まる大坂の陣の際、祖父・盛親から大叔父に参戦要請があり、大叔父と共に大坂城に赴き、一族で豊臣方として戦うが翌年の大坂夏の陣で敗れ、捕らえられて父と共に伏見で斬首された。盛胤の死により、長宗我部氏嫡流は途絶えた。

長宗我部康豊 島 親益

 慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。長宗我部氏没落後、大坂の陣の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。子孫は5,000石を賜る重臣となったという。
 『落穂雑談一言集』『古老噺』には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、10両の金を得てさらに東に向かった。駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、刀をもった狂人が忠利に切りかかった。近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を尋ね、康豊は自分の身の上を明かした。驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。

 父・国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した。しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした城主・海部友光に襲われ、病の身ながら奮戦するも討たれた。その後、元親は弟の死に激怒し、海部城を攻略する。
 子孫の親典(1594年生まれなので、親益の子としては年齢が合わない。孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し敗れたが、土佐藩での入牢を経て土佐藩士に取り立てられた。しかし下士に甘んじた。その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継ぎ、明治天皇から正統子孫と認められた。