<神皇系氏族>天神系

KD13:奥平貞俊  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉経行 ― 奥平氏行 ― 奥平貞俊 ― 奥平家昌 KD14:奥平家昌

リンク
奥平家昌 奥平忠昌

 元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗った。家康にとっては最年長の男孫であったことから(叔父・秀忠よりも年長)、刀や鷹を与えられるなど重用された。文禄4年(1595年)、豊臣姓を下賜された。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは木曾路を進む秀忠に従い、真田昌幸の信濃上田城を攻めた。
 慶長6年2月6日(1601年3月10日)、関ヶ原の戦いの勝利後に命ぜられた京都治安活動を高く評価された父・信昌が美濃加納10万石を与えられた。そのため、それまでの上野宮崎領に家昌を残し、父母は弟の忠政を伴って配地へ赴任した。同年12月28日(1602年2月19日)、家昌も父に遅れて北関東の要地・下野宇都宮10万石を与えられると、翌月1月25日(1602年3月18日)、入国を果たした。これは、家康が北関東の要衝である宇都宮藩に誰を配するべきかと天海僧正に諮問した際、天海は誰彼と論ずる必要はなく奥平大膳に与えるべきと答え、家康も我が意を得たりとして家昌に10万石を与えたものである。宇都宮への加増転封にともない、文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えて新たな家臣団を編成したものの、三河時代からの家臣団制度「七族五老」が機能的でなくなったのを痛感した家昌は、族臣7家と老臣5家を合一して「大身衆」と呼称変更した上で、その12家の中から5、6家が毎月交代で国政を担当し、有事には12家が協力して対応するように改めたのである。その12家は平等ではなく、指導的立場にある2家が2000石以上を食み、序列によって俸禄が定められた(末席でも1000石であった)。なお、戦時の先手を担当する山崎家と生田家だけには、大手門内に邸宅を構えさせている。
 家昌は以後、宇都宮の城下町整備に尽力して毎月5日と10日に市を開催し(大膳市)、幕府が宇都宮大明神の社殿造営を始めると伊奈忠次と共に奉行を務めた。慶長16年10月13日(1611年11月17日)、正室・本多氏(もり姫)が死去した。慶長19年(1614年)には堀利重の身柄を預かった。
 家昌は小鼓を嗜んだという。また、父譲りの武勇を持っていたが、慶長19年10月6日(1614年11月7日)、大坂冬の陣のため出兵を命ぜられるも病を患い、遠征には不参となる。そのため、3日後の同月9日には出兵を免ぜられた分、鳥居忠政らと共に江戸城の本丸留守居役を命ぜられた。ところが10月10日、父母に先立って宇都宮で死去した。享年38歳。
 嫡男の千福ことわずか7歳の忠昌が11月18日に跡を継いだが、5年後の元和5年(1619年)に下総古河藩へ移封された。本多正純が代わって宇都宮藩主となったが、元和8年(1622年)の宇都宮城釣天井事件で改易されたため、忠昌が宇都宮へ戻った。

 慶長13年(1608年)、宇都宮藩主・奥平家昌の長男として誕生した。徳川家康の曾孫にあたる。
 慶長19年10月10日(1614年11月11日)、父・家昌が病のため急死した。同月23日、大坂の陣により亡父が命じられていた江戸城の本丸留守居役は幼少では務まらないため、免除の下命が出された。翌月11月18日(12月18日)、ようやく家督相続が認められ、下野宇都宮藩10万石の藩主にわずか7歳で就任する。元服のとき、大叔父・徳川秀忠から偏諱を受けて忠昌と名乗った。元和2年(1616年)3月、傅役の桑名勝成を従えて駿府まで出向き、病床の曽祖父・家康を見舞うと寝所まで招き入れられ、白鳥鞘の鑓を授けられた。
 元和5年10月13日(1619年11月18日)、日光東照宮参拝のため将軍・秀忠が宇都宮に立ち寄った際、生涯3度目の拝謁を賜る。この時、1万石の加増を受けるが、下総古河へ11万石(古河が6万石、下妻が2万5千石、小山2万5千石の計11万石)での転封が言い渡された。その後、元和8年(1622年)8月に宇都宮城釣天井事件の影響で宇都宮藩へ11万石で再封される。慶安2年(1649年)、将軍の日光社参の際の休泊所であった石橋宿の開雲寺境内に御殿を再建する。
 明暦3年正月18日から19日(1657年3月2日から3日)には明暦の大火の煽りを受けて、日比谷の上屋敷、木挽町の中屋敷が類焼した。寛文8年2月19日(1668年3月31日)、江戸汐留の藩邸で死去、61歳。長男の昌能が家督を継いだ。

奥平昌能 奥平昌鹿

 寛永17年10月28日(1640年12月11日)、父・忠昌に伴われて将軍・徳川家光に拝謁する。正保3年11月9日(1646年12月15日)、元服。翌正保4年12月12日(1648年1月6日)、榊原忠次とともに幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。すでに曽祖父・信昌の功績が認められるばかりか、大叔父・松平忠明の威光が轟いており、譜代の重鎮ともいえる家柄であった。
 寛文8年(1668年)に父・忠昌の死により家督を継ぐ。亡父の法要を営む寛文8年3月2日(1668年4月13日)、城下にある菩提寺の興禅寺において、重臣間の私怨から刃傷沙汰に発展したが(宇都宮興禅寺刃傷事件)、昌能は片方の家臣に肩入れし、両成敗とはしなかった。さらに、後に「追腹一件」と呼ばれる国禁に触れる重大な殉死騒ぎも重なり、8月に宇都宮から出羽山形への2万石の減転封処分を受ける。ただし、将軍・家綱の傅役であったため比較的軽い処分で済まされた。
 ところが、両成敗にならない藩の裁定に、家臣間では不満が爆発、主君を見限る多数が家中を立ち去った。しかも、怨恨を抱いたままの彼らの行動は、後年に江戸の三大仇討に数えられる浄瑠璃坂の仇討にまで発展した。
 寛文12年閏6月25日(1672年8月17日)には危篤に陥った昌能であったが、長女ばかりか嫡男の千福丸にも先立たれており、嗣子が居なかった。ちょうど甥(妹婿で肥前福江藩主の五島盛勝の次男)で5歳の小次郎を絶家の重臣に取り立てるつもりで貰い受けていたため、翌月7月1日(8月23日)、家臣の島田出雲守が5歳の小次郎を伴って老中へ養嗣子願いを内申した。すると、末期養子の条件を十分に満たしていないまま、即日の許しを得た。翌日の2日に昌能は死去した。享年40。5歳の小次郎は、昌能の3女・菊姫(9歳)の婿として家督を継いだ。後の奥平昌章である。
 昌能の性状は粗暴で、影では「荒大膳」と呼ばれていた。追腹一件で殉死した杉浦右衛門兵衛も殉死が禁止されていたことは知っていたが、昌能が促したために殉死したという。興禅寺事件での公平を欠く仕置に対して、昌能を見限って離れた家臣は40人以上に及んでいる。
 世子時代から既に粗暴だったようであり、次のような逸話が伝わる。城近くの田川で釣りをしていると、いつもと違って川が濁って魚がとれなかった。家臣に上流を調べさせると、山伏数人が水垢離をしていたためだったが、昌能は激怒して2人の山伏を処刑した。斬られた山伏の弟子9人はこれを恨みに思って幕府に訴えようとしたが、その前に昌能は弟子も全て処分した。

 第2代藩主・奥平昌敦の長男として誕生。後に昌邦。
 賀茂真淵に国学を学ぶ。宝暦8年(1758年)、父・昌敦の死去後、15歳で家督を継ぐ。「訴平賦均録」という法令集を編纂して、藩政に尽力した。また、家臣の儒学者・藤田敬所らを政治批判させ、それを藩政改革に取り入れ、質素倹約を励行させた。
 藩医であった蘭学者の前野良沢を保護し蘭学を奨励した。良沢の号「蘭化」は、昌鹿が良沢を「蘭学の化け物」と称したことに由来する。安永9年(1780年)に死去し、跡を長男の昌男が継いだ。墓所は東京都品川の東海寺。

奥平昌高 奥平昌服

 「蘭癖大名」の一人として知られている。天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。母は側室・お登勢の方(慈光院)(ただし実母は直心影流剣術剣客・鈴木藤賢の娘と伝わる)。
 『近秘野艸』では長州萩藩主・毛利治親(大膳大夫)の養子であり、毛利姓を名乗っていた時期があったとしている。
 天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主・奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。昌男は生前、重豪の娘と婚約もしていた。昌高も昌男の娘婿という形で養子に迎えられている。寛政3年(1791年)10月1日、将軍・徳川家斉に御目見する。寛政6年12月16日、従五位下・大膳大夫に叙任する。文化7年12月6日(1811年)、従四位下に昇進する。文化14年(1814年)4月6日、侍従に任官される。この間、文化14年(1817年)3月17日には溜詰格に、さらに同年9月1日には溜間詰本格に列した。
 生家も養家も蘭学好きとあって、蘭学を学ぶ環境に恵まれていた昌高は、手始めに中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ部屋」なるものを造り、そこに出島で買い集めさせたオランダ製品を陳列していた。しかし次第に物を買い集めるだけでは飽き足らなくなり、オランダ語を勉強するようになる。また、歴代のオランダ商館長(カピタン)と親交を結ぶようになり、ヘンドリック・ドゥーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっている。後にはオランダ語の会話に不自由せず、さらに商館長と詩のやりとりまでしていたという。
 特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)3月4日(新暦4月10日)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。シーボルトと気兼ねなく対面するために、昌高は文政8年(1825年)5月6日に次男の昌暢に家督を譲って隠居している。隠居後は通称を左衛門尉に改めた。
 昌高は養祖父の昌鹿より、藩医であった前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。
 安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。

 天保元年(1830年)12月25日、第6代藩主・奥平昌暢の次男として江戸で生まれる。父が天保3年(1832年)に死去したときは幼少のために家督を継げなかった。天保6年(1835年)4月、第7代藩主となった叔父・昌猷の養子となり、天保13年(1842年)に昌猷が死去すると家督を継いだ。弘化2年(1845年)12月16日、従五位下・大膳大夫に叙位・任官する。
 嘉永6年(1853年)の黒船来航では鎖国攘夷を唱え、藩政の実権を握っていた隠居の祖父・昌高の開国論と対立している。安政2年(1855年)に昌高が死去すると、実権は家老の奥平壱岐に握られたが、間もなく壱岐を更迭して実権を奪い、砲台建設などの藩政改革に着手した。
 男系では薩摩藩島津家の血筋であったが、奥平家は譜代の名門であったことから、昌服は佐幕派として長州征討にも参加している。しかし慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、新政府軍に味方することを表明して会津藩まで出兵した。4ヵ月後の5月6日に病気を理由として、家督を養子の昌邁に譲って隠居した。
 明治4年(1871年)に東京に移った。明治18年(1885年)4月20日に正四位に叙され、その後も明治23年(1890年)6月18日に従三位、明治29年(1896年)6月20日に正三位に叙された。明治34年(1901年)2月27日に死去した。享年72。