KD12:奥平氏行 | 大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉経行 ― 奥平氏行 ― 奥平貞俊 | KD13:奥平貞俊 |
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奥平貞俊 | 奥平貞昌 |
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初代当主。作手奥平氏の祖。父・奥平定家と弟の定直とともに上野国甘楽郡奥平郷より三河国作手郷に移住し川尻城を築いた。遠州山崎の住人の山崎三郎左衛門高元という奥平定家の妻の縁者の伝手で作手郷に入ったといわれている。その後、1424年には亀山城を築いて奥平氏の居城とした。 |
今川氏に仕えて三河国東部に勢力を伸ばした。永正2年(1505年)、今川氏親により遠江国浜松荘の一部を所領として宛がわれた。 |
奥平貞勝 | 奥平貞能 |
享禄3年(1530年)5月、松平清康が八名郡の宇利城を攻めると、これに従軍。搦手門から攻め入り、功を挙げたという。その後、清康の横死(森山崩れ)で弱体化した松平氏から今川氏に転属した。天文11年(1542年)、対織田信秀戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力に付けられる。 |
奥三河の国衆である山家三方衆の一つで、奥三河の作手亀山城を本拠とする国人。永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、東三河の諸侯に遅れて今川氏から離反し、徳川家康に属した 。家康の遠江侵攻に従うほか、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。翌元亀2年(1571年)から、武田信玄の三河侵攻が活発化。信長と家康の関係を遮断、三河撹乱を目論む武田軍の先遣・秋山信友が侵攻するも、それまでの力攻めから方針を改めて、降伏を勧める使者を送り出してきた。奥平氏へも勧降の使者が来訪するが、貞能の意思としては断固拒絶、家康への臣従を貫くつもりでいた。だが、隠居の父・道文(貞勝)の発言力が勝っていたため、以後は武田方として三河、遠江の各地を転戦、三方ヶ原の戦いなどに参戦している。 |
奥平貞治 | 奥平信昌(貞昌) |
当時の奥平氏は今川氏や松平氏など、従属先を次々と変えていくことで命脈を保っていた。元亀2年(1571年)以降は甲斐武田氏に所属し、武田軍の一員として三河国や遠江国を転戦する。貞治もこの時期、三方ヶ原の戦いに従軍している。 |
奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していた。桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江国掛川城攻めに加わった。 |
奥平正勝 | 奥平貞友 |
奥三河の作手亀山城を本拠に持つ国人の1つにすぎなかった奥平氏は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦勝に大きく寄与し、家運を開き始めた。そんな頃に満千代は生まれた。宗家の従兄・牧庵(奥平貞能)は戦勝後、徳川家康の娘婿となった信昌に家督を譲り、隠居していた。その従兄との年齢差が大きかった上に、従兄の子・信昌よりも年少であったためか、信昌の猶子になったという。 |
三河日近城主として本家奥平貞能に仕える。天文16年(1547年)に今川義元の東三河進出に功績を挙げたことで、今川氏に追われた形原松平氏の所領を得るが、翌年には今川氏から離反したとして形原を没収され、その混乱に乗じて形原松平氏の松平家広が旧領に復帰している。 |
奥平貞由 | 奥平貞守 |
三河日近城主・奥平貞友の子として生まれる。誕生の年に父が死去し、叔父の三郎兵衛貞政による養育を受ける。慶長7年(1602年)、叔父・貞政と共に、奥平宗家の知行地宇都宮を退去し、姉婿である久松松平定勝の知行地掛川に移る。同年上洛の途中、掛川に立ち寄った於大の方に拝謁する。慶長9年(1604年)、定勝より知行400石を賜り大名分となる。元和年間、桑名で400石の加増を受ける。寛永12年(1635年)、主君で甥の松平定行の伊予松山転封の供をし、1000石の加増を受け家老となる。正保4年(1646年)、ポルトガル船が来航したため、長崎探題職の定行の供をして、長崎に出向き海上警備にあたる。 |
慶長19年(1614年)、遠江掛川で生まれる。寛永12年(1635年)、家中の席次の争いから、備前下津井に退去する。寛永14年(1637年)、従兄の伊予今治藩主・松平定房の招きで今治に赴く。寛永18年(1641年)、伯母・二之丸殿の仲裁で、伊予松山藩に帰参する。 |
奥平貞幹 | 奥平貞蔭 |
享保4年(1720年)11月27日、松山で生まれる。享保17年(1732年)、享保の大飢饉における藩政の不始末の責任を問われ、父・貞継が蟄居を命じられる。享保19年(1734年)、新知1500石を賜り、大名分嫡子並とされる。享保21年(1736年)、蟄居処分を解かれ、貞継が大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月、貞継の政敵であった家老・奥平貞国が、久万山騒動(久万山地域の領民が大挙して大洲藩に逃散する事件)の責任を負わされて流罪となる。同年12月、家老,組頭となり与力を預かる。寛保2年(1742年)4月、大坂表より、貞継が帰藩し家老に復帰。宝暦8年(1758年)、軍用方を兼任。宝暦10年(1760年)、500石の加増を受ける。宝暦13年(1763年)、藩主・松平定功の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家治に拝謁。明和2年(1765年)、藩主・松平定静の家督相続の御礼言上の際に、将軍・家治に拝謁する。 |
寛政5年(1793年)、伊予松山藩家老の吉田張奉の4男として松山に生まれる。寛政9年(1797年)、前年嗣子なく家名断絶した奥平藤左衛門家を、新知1200石大名分として相続する。文化5年(1808年)、知行1500石となり組頭として与力を預かる。文化8年(1811年)、家老となる。文化10年(1813年)、藩主・松平定通の将軍御目見の際に、将軍・徳川家斉と世嗣・家慶に拝謁する。文政6年(1823年)、伊勢桑名照源寺で行われた崇源院殿(松平定勝)二百回忌御法事の代拝を務める。文政11年(1828年)、軍用方を兼任。文政12年(1829年)、家老を辞職。文政13年(1830年)、知行3300石となり、同姓奥平貞熈の長男・隼人を養子とする。同年、家老に復職し軍用方を兼務。天保6年(1835年)、藩主・松平勝善の家督相続御礼言上の際に将軍・家斉に拝謁する。天保9年(1838年)家老を辞職。弘化4年(1847年)12月11日死去。享年55。 |
奥平貞臣 | 奥平信光 |
文化6年(1809年)3月17日、伊予松山藩家老の奥平貞熈の長男として松山に生まれる。文政9年(1826年)、大名分となり擬米200俵。文政12年(1829年)、家老となり擬米300俵。文政13年(1830年)、家老・奥平昌蔭の養子となる。天保9年(1837年)、江戸城西丸炎上の際に、江戸藩邸の藩士を率いて江戸城内紅葉山の警備に当たる。天保14年(1843年)、家老を免じられる。弘化5年(1848年)、養父の死去により家督と知行3300石を相続、大名分,組頭として与力を預かる。嘉永3年(1850年)、家老に復帰。 |
永禄元年(1558年)5月17日に三河に侵入した隣国・美濃の岩村遠山氏の軍勢と、宗家の奥平定勝と共に名倉船戸橋で戦った。この合戦の功績を今川義元に賞され、幼名松千代宛で感状が与えられたのが史料上の初見である。 |