<皇孫系氏族>孝昭天皇後裔

K003:彦国姥津命  春日市河 KG01:春日市河

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山上憶良 山上船主

 大宝元年(701年)第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り、儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王,紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
 神亀3年(726年)頃、筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
 山上船主を憶良の子とする説がある。

 神護景雲元年(767年)瑞雲の出現により天平神護から神護景雲への改元が行われた際に、陰陽員外助・紀益麻呂ら陰陽寮の諸官人に昇叙が行われ、陰陽允であった船主は従五位下に叙せられている。神護景雲2年(768年)船主を含む一族20人が臣姓から朝臣姓に改姓した。
 称徳朝から光仁朝にかけて陰陽寮の官人を務め、神護景雲3年(769年)陰陽助、宝亀年間に陰陽頭に任ぜられる一方、宝亀7年(776年)には従五位上に叙せられ、天文博士を兼ねている。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴って正五位下に昇叙される。天応2年(782年)閏正月に氷上川継の反乱に与したとして隠岐介に左遷され、さらに桓武天皇を呪詛したとして三方王,弓削女王と共に本来は死罪となるべきところ、罪を減ぜられて流罪に処せられ、船主は任地の隠岐国への流罪となった(氷上川継の乱)。その後、乱に連座した者の大半が桓武朝の前半に赦免されていった一方、船主は乱の首謀者であった氷上川継と共に桓武朝末の延暦24年(805年)にようやく罪を赦されて入京している。
 系譜は明らかでないが、筑前守・山上憶良の子の可能性も指摘されている。また、大春日船主と同一人物とする説もある。