<神武朝>

K001:神武天皇  神武天皇 ― 彦国姥津命 K003: 彦国姥津命

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彦国葺命 難波根子建振熊命

 和珥氏の遠祖である。垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。
  『日本書紀』崇神天皇10年9月27日条によれば、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたので、彦国葺は大彦命と共に山背に派遣された。その際、忌瓮を和珥武鐰坂(現・奈良県天理市和爾町付近)の上に据え、精兵を率いて那羅山に登った。さらに山を去って輪韓河(京都府木津川市木津町付近の木津川)に進み、埴安彦と川を挟んで対陣した。彦国葺は、埴安彦が無道にして王室を傾ける者であると言い、埴安彦を討ち軍衆も追討したという。
  同書垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別,大鹿島,十千根,武日らとともに大夫の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。
 なお、『古事記』においても崇神天皇段において日子国夫玖命による建波爾安王(武埴安彦)の追討伝承が記されている。

 『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣祖とのみ記しており、系譜の記載はない。
  『日本書紀』神功皇后元年3月5日条によると、皇后と皇子(のちの応神天皇)に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされたとする。
  また同書仁徳天皇65年条によると、飛騨に「宿儺」という体は1つで顔は2つある怪物があり、皇命に従わず人民を苦しめたために武振熊が討伐に遣わされたという。『古事記』でも、仲哀天皇段において忍熊王討伐に派遣された旨が記されている。

米餅搗大臣命

 大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
  米餅搗大使主を小野氏の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。