<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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牧野忠成(初代) 牧野忠成

 戦国武将から近世大名への過渡期の牧野一族とその家臣団を導き、譜代大名の地位を確立した。その結果、越後長岡藩の立藩を果たして、以後250年に及ぶ長岡藩政の礎を築いた。
 天正9年(1581年)、三河国宝飯郡の牛久保に生まれる。父康成に同じく徳川家康に仕え、その継嗣徳川秀忠に付属する(諱の忠成は秀忠の偏諱拝領という)。関ヶ原の戦いに備え、父・康成と共に徳川秀忠の軍勢に具奉して上田城の真田氏を攻める。
 慶長9年(1604年)、父康成は公事を辞し大胡城に閑居したため、父の職務を代理する。同14年(1609年)12月、父の死去につき大胡藩2万石の跡式と大胡城を継承。同年10月、大坂冬の陣に徳川軍五番備にて参陣し、大坂夏の陣にも四番備えにて参陣し奮戦、5月8日麾下の壮士等首級27を挙げ、大坂落城に寄与した。
 元和2年(1616年)7月に越後国長峰5万石に加増移封、長峰城築城。同4年(1618年)3月、同国長岡に6万余石に加増のうえ再転(越後長岡藩立藩)、堀直寄の居城を拡充完成し長岡城とする。
 同5年(1619年)、広島城主・福島正則改易につき花房正成と共に上使を承り、江戸芝愛宕下の福島屋敷にあった正則にその旨を伝え、広島城開城を命ずる文面を正則直筆の墨付きで取る。また、正則の正妻である昌泉院(忠成の実妹)とその娘を引き取ることを忠成に頼んでいる。その結果、6月19日(旧暦)に無事に開城した。この年、官職名をまた右馬允とする。同6年(1620年)、前年の上使を首尾良く勤めた功により越後国古志郡栃尾に1万石加増。
 承応3年(1654年)、駿河守再任。同年12月16日、江戸屋敷にて死去。享年74。忠成死去にあたり能勢兵右衛門重信,渡部七郎左衛門正信,池田小左衛門成興(池田恒興の甥)が殉死している。葬地は長岡藩領内古志郡栖吉村の曹洞宗普済寺。なお、同寺には牧野忠成の木像が安置されている。

 寛永12年(1635年)、牧野光成の嫡男として誕生。初名は忠盛。越後国長岡藩の第2代藩主。祖父と同名を名乗ったため、長岡ではのちにこの2代藩主を後忠成公とも呼び慣わしている。寛永14年(1637年)に父・光成が早世したため、祖父・忠成の後嗣となる。寛永16年(1639年)10月、江戸城に登り初めて3代将軍家光の御目見得を受けた。
 承応3年12月(新暦1655年1月)に祖父・忠成が没した。明けて明暦元年2月16日(新暦1655年3月23日)に祖父の遺領相続を許された。同3月7日(新暦4月13日)襲封御礼の登城の節に家臣2人(稲垣平助,山本帯刀)が忠成に伴い将軍御前に出づることを許され、以後は襲封御礼の際の恒例となる。同9月、朝鮮使が来日し、その迎馬のための鞍を三州三島まで送り届けた。明暦2年(1656年)初めて城地長岡に行く許しを受けた。明暦3年(1657年)、台命により明暦の大火後の江戸城平河口の修理の任にあたり、同11月13日竣工、家臣等に時服・白銀を賜る。
 延宝2年(1674年)5月27日、江戸藩邸で40歳にて死去した。葬地は江戸二本榎木(現東京都港区)の周光寺。のち三田(同港区)の済海寺に改葬す。現在は長岡市御山の悠久山蒼柴神社境内に移転した。

牧野忠辰 牧野忠寿

 延宝2年(1674年)、父が死去したため家督を継いだが10歳だったため、大叔父の牧野忠清による補佐を受けた。同年には「諸士法制」十七条およびその付則「覚」11条が発布された。これにより、長岡藩士の次三男の召抱えや末期養子の制限が行われた。
 延宝7年(1679年)12月に従五位下、駿河守に叙任する。天和元年(1681年)、高田騒動で越後高田藩の松平光長が改易されたとき、高田城の受け取り役を務めた。
 元禄7年(1694年)12月、諱を忠郷から忠辰に改めている。正徳元年(1711年),享保4年(1719年)には朝鮮通信使の接待役を務めた。
 下馬将軍ともいわれた大老・酒井忠清の娘と婚約していたが破談となり、以降正室を持たずに4人の側室を置いて、1男2女を儲けた。しかし、長男の勝三郎を初めとして全て早世していたため、宝永7年(1710年)に本多康慶の6男で母方の又従弟にあたる忠寿を養子とし、享保6年(1721年)8月25日に家督を譲って隠居し、成喜と号した。翌年8月6日、江戸で死去した。享年58。墓所は東京都大田区池上本門寺。死去すると、京都の神道家吉田家より蒼柴霊神の神号が送られ、享保18年(1733年)には明神、50回忌の明和8年(1771年)には大明神に昇格した。なお、忠辰自身を祭神とする蒼柴神社は、初め長岡城内、後に悠久山に移転した。
 藩政においては、「諸士法制」の修正と改正による風紀の徹底,殖産興業政策,消防制度の確立など民政に尽力し、長岡藩三名君(初代忠成・3代忠辰・9代忠精)の一人とされる。学問にも興味を示し、文治の発展にも尽力した。なお、酒井忠清の娘の婚約者であったが、徳川綱吉の前で講義を行うなどしている。将軍の前で講義をした他、江戸城で演能を行っており、養子・忠寿と久我通名の娘との縁談は、金春流能のかなりの舞い手である仙台藩主・伊達吉村との交流が関係するという説もある。

 元禄8年(1695年)、近江膳所藩主・本多康慶の六男として生まれる。宝永7年(1710年)6月、越後長岡藩主・牧野忠辰の養嗣子となり、阿波守に叙任する。享保6年(1721年)8月25日、忠辰の隠居により家督を継いだ。11月に駿河守に転任する。享保8年(1723年)9月、内桜田門番となり、9月に奏者番となった。また、翌年には幕府領の魚沼郡や古志郡などの越後国の五郡、6万4000石余りを預かる。ちなみに越後質地騒動鎮圧のために幕府は越後国内諸藩に対して越後国内の幕府領36万8000石をそれぞれ預けており、越後長岡藩も同様な理由で預かることとなった。
 治世中は火災洪水に見舞われ、享保13年(1728年)の三蔵火事により長岡城が全焼したのを初め、延焼戸数1,500戸超の被害を出す。このために藩士の知行半分借り上げや藩士次三男の召抱え停止が行われ、一方で幕府から7,000両を借りて再建することになるが、再建完了は宝暦4年(1754年)まで26年要した。
 三蔵火事の翌年の享保14年12月6日(1730年1月24日)に奏者番を辞任した。享保20年(1735年)6月の参勤交代の登城時に体調を崩し、同年10月2日に死去。享年41。跡を次男・忠周が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のちに新潟県長岡市の悠久山に改葬。1982年に長岡藩主家当主の済海寺からの改葬が行われ、これに伴う遺骨調査によると、推定身長は158.4cm(または156.2cm)であるとしている。遺骨調査によると脛骨,腓骨に骨梅毒の著名な病変が、鎖骨,上腕骨,大腿骨に骨梅毒と推定される骨膜や骨炎による骨肥厚所見が存在するとしている。
 長岡藩主家では唯一、公家出身の正室を迎えている。これは養父の忠辰と仙台藩主伊達吉村との親交が関係しているという説が、遺骨調査報告書で掲載されている。ちなみに忠寿自身は享保2年(1717年)に仙台藩邸での演能で自ら能を演じている。

牧野忠周 牧野忠敬

 享保6年(1721年)9月21日、第4代藩主・牧野忠寿の次男として江戸藩邸で生まれる。母は側室の丸山伝兵衛の娘フヂ。忠寿正室に第1子が生まれた直後の出生のためか、はじめ吉川政五郎と称し牧野姓ではなかった。
 嫡子である兄が夭折し、以降も父の正室からの男子の出生がなかったので、享保10年(1725年)1月から牧野姓に復し、11月に庶出の姉妹で長岡出生である八千姫とともに忠寿正室の養子となり、嫡子となる。享保19年(1734年)には徳島藩主・蜂須賀宗員の妹と結納を交わして婚約する。享保20年(1735年)、父の死去により14歳で家督を継いだ。元文3年(1738年)、蜂須賀家との縁談が破談となり、妹の直姫を養女とする。翌年(1739年)、日向延岡藩主で当時奏者番兼寺社奉行であった牧野貞通の嗣子である忠敬を養嗣子とする。
 延享3年(1746年)4月4日、病気のために養嗣子・忠敬に家督を譲って隠居し、以後江戸藩邸で暮らす。土佐守に転任。宝暦12年(1762年)に忠軌と改めた。明和9年(1772年)6月28日に死去。享年52。墓所は東京都港区三田の済海寺。のちに新潟県長岡市の悠久山。1982年の牧野家墓所改葬に伴う緊急遺骨調査によると、推定身長は156.1cmないし153.2cmで骨体も細めであり、歴代藩主でも小柄の部類に属する。
  藩政においては、生来より病弱だったために全て家臣任せにしていたといわれ、蜂須賀宗員の妹との婚約破棄は病気が理由であった。また、牧野家の史料である「御附録」では『病気故登城無之』といった記事が続いている状況であった。
 妹を養女とし、その婿養子として忠敬を迎えて以降も、相変わらず表向き嗣子がない状況が続き、5年後久々に病気になったことを理由に隠居したが、皮肉なことにその後家督を継いだ忠敬,忠利,忠寛よりも長生きしている。

 享保14年(1729年)6月、日向延岡藩主・牧野貞通の長男として延岡で生まれる。享保15年(1730年)に江戸幕府への嫡子届け提出により貞通の嗣子となる。
 長岡藩第5代藩主・牧野忠周が病弱であったので、元文4年4月28日(1739年)に両藩の合意により長岡藩嗣子になることが決定し、6月6日に忠周の養嗣子となり、6月15日に通称を兵部から老之助に改名し、西窪の長岡藩江戸藩邸上屋敷に移る。寛保3年(1743年)12月に従五位下・駿河守に叙任する。なお、延岡藩では弟の貞隆が嗣子になった。
 延享2年(1745年)に忠周の妹で養女の直姫と婚礼を上げ、同3年(1746年)4月4日、忠周が隠居したため家督を継いだ。
 幕政上は江戸城西の丸大手門守備や朝鮮通信使接待、松平広忠の200回忌の将軍代参を勤める。また、牧野忠辰以来の事業で遅々として進まない牧野家系図及び家譜などの諸記録編纂を延享3年12月に山本勘右衛門に命じる。しかし延享5年(1748年)6月29日、治世3年にして江戸で死去した。享年20。
 家督は実父の貞通を交えた相談の結果、実弟の忠利が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のちに新潟県長岡市の悠久山。

牧野忠利 牧野忠寛

 享保19年(1734年)9月27日、日向延岡藩主・牧野貞通の8男として延岡にて生まれる。延享5年6月(1748年)、長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去した。当時京都所司代であった実父の貞通とともに京都にいた忠利は、急遽江戸に下向して寛延元年8月(1748年)に長岡藩江戸藩邸に入り、末期養子として長岡藩主家の家督を相続した。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」公年を17歳と幕府に届けているため、「寛政重修諸家譜」では享保17年(1732年)出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。
 寛延3年(1750年)に、公式上は膳所藩主・本多康桓の娘となっている、牧野忠周の長女である茂姫と婚約する。宝暦4年(1754年)に三蔵火事で全焼した長岡城本丸が再建完了する。宝暦5年6月23日(1755年)に茂姫と婚礼となるが、同年7月24日に22歳で死去した。家督は公式上の異母弟(実は忠周の実子、正室・茂姫の実弟)である忠寛が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山に改葬された。1982年の済海寺からの改葬の際の遺骨調査によると、左大腿骨による推定身長は168.2cmで当時としてはかなり長身としている。ちなみに兄の忠敬は165.9cmで、弟とも養弟といわれ人類学上は忠周の子の可能性が高い忠寛は162cmである。この調査では、遺骨形状が忠敬と同系統である一方で、忠寛とは異質であるとしている。
 儒学を小林海鴎から学び、歌道は加茂真淵から学び、和歌を2000首以上残したという。また漢詩や俳句,絵も残す趣味人であった。学問や絵画など教養に優れた名君として将来を嘱望されていたが、生来から病弱であった。家譜では「義理通博にして、喜怒色にあらわさず、能く人を容れまた諫を容る」とある。

 牧野家家譜を補足する「御附録」によると、牧野忠敬が長岡藩主家養子になった2年後の寛保元年(1741年)8月29日に、牧野忠周と側室・大原氏との長子として出生した。しかし、既に忠敬が嗣子になっていたためか、出生後は牧野氏を称さずに東彦松と称した。寛延3年(1750年)に牧野姓を賜って前年に死去した牧野貞通の猷子になり、新三郎貞通と称し、幕府には常陸笠間藩主・牧野貞通の10男で牧野貞長の弟として届け出された。宝暦5年(1755年)、公式上の兄の第7代藩主・忠利の死去により養子として跡を継いだ。実年齢15歳であったが、末期養子の禁の関係もあってか、幕府に公年を20歳と届けている。このために「寛政重修諸家譜」および「続藩翰譜」,牧野家公式記録「御家譜」では牧野貞通の子として記されている。この系図改竄は、すでに嫡子扱いになっていた忠周養子の牧野忠敬を押しのけて、幕府に嫡子届けが出ていない忠寛を嫡子に出来ないので、後年に越後長岡藩に迎えるための処置とされている。
 藩政においては、歴代同様に藩内の大火事や大洪水といった災害や飢饉に悩まされ、宝暦6年(1756年)に大飢饉が起こった上に宝暦7年(1757年)から同8年(1758年)の大水害が起こったので、急遽「お救いの粥」の配給を行ったり、被災民1794人に新田地106町歩の分譲を行ったりしている。一方では諸芸術師範役を定め、宝暦12年(1762年)には長岡藩士に対する法典「諸士法制」の最後の改訂増補を行う。
 明和元年(1764年)から病気による江戸城登城不参が続き、同3年(1766年)6月30日に養曾祖父(実は実父)の忠周に先立って死去した。享年26。跡を6歳の長男・忠精が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山。1982年の済海寺からの牧野家墓地改葬の際の緊急遺骨調査によると、推定身長は162.3cmから161.4cmである。遺骨調査結果では、骨格形状が笠間藩系の忠敬や忠利とは異なり、むしろ忠寿や忠周の系統と酷似しているために、人類学・骨学的には「御附録」が正しいと推測している。なお、年齢推定の結果では寛保元年(1741年)出生説の方が人類学的には正しいとの見解が示されている。

牧野忠精 牧野忠雅

 寛政の遺老の一人。明和3年(1766年)、父の死去により6歳で家督を相続する。高野余慶に学問を学び、家老・山本精義が補佐する。治世当初、新潟明和騒動が起こる。明和6年(1769年)に長岡城内にあった牧野忠辰を祭神する蒼柴神社の移転工事を決定して城東の山林の開拓を行い、天明元年(1781年)に完成し、社地の三官山を悠久山と改名する。
 長男の忠鎮が松平定信の縁戚に当たることから、奏者番,寺社奉行,大坂城代,京都所司代,老中など要職を歴任した。また京都所司代時代は伊藤東所に学ぶ。
 文化5年(1808年)藩校崇徳館を開校し、文化12年(1815年)に古文辞学を修めた秋山景山や古義学者で藩に招いた伊藤東岸を藩校の校長職である都講に任命する。
 文化15年(1818年)2月から村上藩と共同で三潟付近の排水工事と新水路掘削工事を行い、出雲崎代官の異議を押さえて文政3年(1820年)に完成させて、238町歩の水腐地の良田化と2,600石余りの新田開発に成功する。しかし一方で、先代に引き続き災害に見舞われ、長岡藩政史上でも損害が大きい洪水が天明元年と寛政元年(1789年)に起こり、2度とも長岡城が浸水し、天明期には藩内の流家・潰家840件、寛政期の洪水では流・潰家585件及び6万6,000石以上という、表高の9割、実高の半分以上の米穀損害高を出し、天明4年(1784年)の天明の大飢饉、文政11年(1828年)11月12日の三条地震では長岡城の施設の大破、城下潰家220件、郷中潰家3,522件、田畑荒廃955町歩余り、死者442人などの被害が出、その翌年には大風で城内破損35箇所、家屋倒壊162戸などの被害を受けている。また、治世中の藩邸の所在が変更されることが多く、文政年中に3つあった江戸藩邸下屋敷のうち1つを手放し、家督相続当初は西之窪にあった上屋敷を西の丸下、小川町、日比谷御門下、大名小路の順に移転している。
 天保2年7月10日(1831年8月17日)に死去。享年72。1982年の済海寺での緊急遺骨調査によると、左大腿骨による推定身長は153.7cmくらいと低身長で、歴代藩主でも華奢な体格であったとしている。また、正室の満勢姫の推定身長は138.4cmくらいで太さも細いとしている。ただ、妻とともに長岡藩主家牧野氏の中では長命で、治世も長岡藩主中で最長であった。
 幼い頃から雨龍(雨をもたらす想像上の小龍)の絵をよく描き、家臣や庶民にも与えた。側室の菅浦を寵愛し、菅浦が権勢を振るっていた時期があったが、萩原貞左衛門の諫言で菅浦を退けたという。和歌は冷泉家から懐紙相伝の免状を得ている。

 寛政11年(1799年)に江戸藩邸にて生まれた。4男であるが、父の息子で正室出生は長兄の忠鎮と忠雅、夭折した一女のみである。文化5年(1808年)、忠鎮が死去すると、庶出の兄・石川総親は既に下館藩主石川家を相続し、同じく庶出の兄の銀三郎も既に死去していたため、嗣子となる。
 文政4年(1821年)に大久保忠真の娘である逸姫を正室に迎え、天保2年(1831年)に忠精が隠居すると家督を相続する。奏者番,寺社奉行,京都所司代を経て、老中となり海防掛担当となる。閣内の席次は阿部正弘に次ぎ、終始阿部に歩調を合わせていたが、阿部死去後、堀田正睦が名実ともに実権を握ると、老中を辞任した。翌年に死亡し、家督は養子の忠恭が継いだ。

 

 

牧野忠恭 牧野忠清

 文政7年(1824年)9月1日、三河西尾藩主・松平乗寛の3男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。ちなみに次兄の牧野忠衛も三根山領主となっている。武鑑では嗣子時代の附役に小林親真(又兵衛、小林虎三郎の父)が一時期なっていたことが分かる。安政5年(1858年)10月25日、養父・忠雅の死去により、家督を継いで第11代藩主となる。
 万延元年(1860年)6月25日奏者番、文久2年(1862年)3月24日寺社奉行加役、同年8月24日京都所司代に就任する。京都所司代就任にともない、従四位下侍従に昇進する。しかし、翌年6月11日、「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。同年9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し藩政改革を行う。元治元年(1864年)7月22日勝手用掛を命じられた。慶応元年(1865年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代,老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
 慶応3年(1867年)7月11日、隠居し養子忠訓に家督を譲った。北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治8年(1875年)2月、4男・忠毅の隠居により、家督を再び相続した。明治11年(1878年)9月1日、55歳で死去した。1982年の済海寺における牧野家墓地改葬に伴う緊急遺骨調査によると、以前に改葬されていたために調査当時、遺骨の保存状態が悪かったとしている。推定身長は尺骨から推定して149.1cmで太さも細く、牧野忠精の長男・牧野忠鎮並みに華奢な体格と推定している。

 初め父・忠成の意向で家老・稲垣平助則茂の養嗣子となるが、牧野家に復し徳川家綱の小姓となり、慶安3年(1650年)には西城書院番士となり、蔵米300俵を給され、のちに本城書院番士となる。明暦2年(1656年)2月5日、書院番頭に昇進する。同年12月、300俵加増され、布衣を着ることを許される。万治元年閏12月18日(1659年)、兄/定成の後嗣となり遺跡を相続。それまでの600俵は収公される。万治3年(1660年)、兄の定成の菩提を弔うために小さな庵の本堂を再建し、その寺号を一山寺とした。寛文5年(1665年)、職を辞す。延宝2年(1674年〉、越後長岡藩の幼君・牧野忠辰の補佐をした。延宝6年〔1678年)、日光山門主と京に赴く。天和2年(1682年)5月29日、致仕し幽閑と号する。忠貴が跡を継いだ。葬地は芝西応寺町(東京都港区芝2丁目)の西応寺。
牧野忠泰

 五島盛保の長男。天保6年(1835年)生まれとも。安政元年(1854年)に越後三根山を領していた大身旗本・牧野忠興の養子となる。安政4年(1857年)2月、忠泰の襲封とともに義父の宗家長岡藩主牧野忠恭の願いにより、それまで6000石の家格寄合の旗本であったが、新田分5000石を加えて1万1000石に高直しされて大名となり、従五位下・伊勢守に叙任される。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し、本家の長岡藩とともに派兵させた。しかし長岡城が陥落すると、官軍側であった与板藩に家老の神戸十郎右衛門を派遣して援助を仰いだが、与板藩にも余裕はなく、新政府軍の出雲崎屯所に出兵する旨を伝えていた。しかし、その翌日に出羽庄内藩兵が三根山藩領内に侵攻、大砲を向けて威嚇した。宗家の長岡城が落城しても傍観したことに対して、進退を明らかにするよう脅しをかけたのである。三根山藩には庄内藩に抗する力は無く、野積・寺・出雲崎に奥羽越列藩同盟側として三根山藩兵を出兵させている。新潟に新政府軍が上陸すると戦局は決した。新潟・長岡が陥落すると同盟軍側は退却を開始、三根山藩兵は藩内に帰還したが、長岡・新潟の双方からの新政府軍に挟撃される形となった。弥彦口,赤塚口から挟撃する新政府軍に対して、「新政府軍に加担したかったが庄内藩に抗することができず、やむを得ず戦った」旨の嘆願書を提出した。忠泰と藩兵は新潟に出兵し、新政府軍に恭順した。ここで三根山藩、そして忠泰の罪は赦されるものの、謹慎処分を受けた。また、83名の藩兵を与板藩等とともに派遣して庄内藩と戦った。
 庄内口での働きぶりが認められ、忠泰の謹慎が解かれることとなった。そして、賊軍とされた宗家長岡藩への寛大な処置を願う嘆願書を新政府軍に提出した。また、三根山藩は降伏後の働きにより500石減封に留まった。しかし、12月に本家の長岡藩に連座する形での転封命令が出た。翌明治2年(1869年)に信濃国伊那に決定したが、長岡藩と一緒に懇願して転封の撤回に成功した。
 明治3年(1870年)5月、忠泰は長岡藩の窮状に心を痛めて米百俵を送った。同年10月29日、丹後峰山藩と紛らわしいため、嶺岡(峰岡)藩と改称した。忠泰の没後は長女の千代子が家督を継いだ。明治24年(1891年)に忠良(旧宇和島藩主伊達宗城の7男)が千代子の夫となって家督を継ぎ、子爵の爵位が授けられた。