<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

SG04:田口川堀  蘇我石川 ― 田口川堀 ― 牧野成継 MC01:牧野成継

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牧野成継 牧野成富
 兄の成朝,成教と同じく承久の乱に鎌倉方で参陣、恩賞で牧野村ほか数ヶ村の地頭となったという。  応永4年(1397年)、足利義持の命により讃岐国より三河国にまねかれ同国宝飯郡牧野村に牧野城を構えたとされる。渡来当初は田内左衛門尉と称したが、支配地牧野村から牧野を名字としたという(讃岐より渡来は父親の成方の代とする説がある)。実名は成留とも書く。のち入道して、春興と号した。延徳2年(1490年)3月今川家に与して討死という。
牧野成時 牧野信成

 成時の主君・一色時家は、関東公方足利持氏に仕えていた一色持家と同一人物とも言う。時家は同国宝飯郡長山に一色城(牛窪古城)を築城した。時家は三河東部で勢力拡大を図り、在地の武士であった成時は時家に服属した。
 永享10年(1438年)からの永享の乱で、三河守護職・一色義貫が時家を匿ったかどにより、永享12年(1440年)に室町幕府将軍・足利義教の謀略的追討を受け、大和国信貴山の龍門寺で自害して果て、代わって阿波国細川氏の細川持常が三河守護職に任ぜられた。このため、三河国内は前守護・一色氏残党と新守護・細川氏の間で戦闘が勃発した。文明9年(1477年)、足利義政は東軍側である細川氏の幕府復帰を実現するために、西軍側であった一色義貫の嫡子・義直に和睦の条件として三河における支配権を放棄させ、長く争われていた細川氏の三河守護職権が確認された。義直に属する一色時家は家臣の大沢城主・波多野時政(全慶)に殺害された。明応2年(1493年)12月、当時足利義澄・細川政元派と目された波多野全慶を旧一色時家被官であった古白は、灰塚野(異に灰塚原とも)合戦で討って旧主の仇を報じた。灰塚野合戦の勝利により、古白は一色城に入城して、宝飯郡真木村(後に瀬木村に改称)の瀬木城主から一色城主へと遷った。
 永正2年(1505年)、今川氏親は西三河の松平氏を抑えるため、一色城の古白のほか、真木氏,岩瀬氏,能勢氏,稲垣氏,山本氏等に、豊川・朝倉川合流地点の南岸に今橋城を築かせた。城の大手門は東側であり、1km半ほど先に有る二連木城へ向いていた。このことから、宝飯郡に拠点を持つ古白の築城目的の一つは、もとは京の幕府政所執事・伊勢貞親の被官で三河守護・細川成之の要請を受けて寛正6年(1465年)に発生した額田郡一揆を鎮圧した後に渥美郡統一をして着々と勢力拡大する二連木城主・戸田宗光(全久)と対峙することであったとも推定されている。
 築城後、古白は初代城主となるが翌永正3年(1506年)に、今川氏親と戸田氏によって今橋城を攻められ、古白は討死(自害とも)する。戦後の今橋城には、戸田宣成が入る(今橋合戦)。なお、この時に今橋城を攻めたのは松平長親であるという異説もある。
 古白が弔われた吉田山龍拈寺は、古白の子・信成(関宿藩主の牧野信成とは別人)が亡父の菩提を弔うために建立した。

 三河東部の有力国人であり、初代今橋城主であった牧野成時(古白)の子として誕生した。永正3年(1506年)の父の討死後に牧野氏の手を離れた今橋を回復し、大永年間初期には城主を継いだ。異説に兄とされる牧野三成(成三・田蔵左衛門尉)が無嗣で戦死したため、兄の跡を嗣いだものともいう。
 大永2年(1522年)に今橋城の名を吉田城に改めた。一説によると城を奪われた「いまはし」の名が「忌まわし」に通じ縁起が悪いからというが、やや疑問もある。
 享禄2年(1529年)には一族の牧野右馬允(成勝)に命じて宝飯郡牛窪に牛久保城を築造させた。しかし、同年に西三河岡崎城主・松平清康の侵攻を受け、城下の下地合戦に敗れ、居城今橋城も落城、信成も一族70余名と共に戦死した。また、大名家の牧野家が本姓を清和源氏と改称したのに対して、信成子孫の系は牧野氏出自の田口姓を称した。なお、下地合戦・今橋落城を天文元年(1532年)とする異説が存在し、これによれば信成の没年も天文元年になるとする。
 墓所は吉田山竜拈寺。信成自身が父・成時の菩提を弔うため開基した寺に信成も葬られた。

牧野宇右衛門 牧野成里

 牧野信成の孫と称する牧野宇右衛門がいた。牧野宇右衛門が寛永11年(1634年)岡山藩主・池田氏に提出した文書によると「祖父伝蔵ハ生国三州也、難居吉田ニ其後 於尾州知多郡ニ壮歳 而遭害ニ」とある。
 慶長5年(1600年)、牧野宇右衛門は池田輝政に召しだされて500石を与えられた。池田氏の備前国の入国のときの奉仕の功により、100石加増され、合計600石となる(後に分家の分出により500石となった)。
 この家系は、岡山藩池田氏家臣団の大組に所属する上級家臣となり、明治維新まで存続し、中老・加判となった者もいた。
 幕末に徳川慶喜に謁見して、大政奉還を建言した岡山藩の尊王攘夷の志士である牧野権六郎成憲は、この家系の惣領家を相続した人物である。

 はじめ滝川一益,織田信雄に仕えたが、いずれも没落したため長谷川秀一の家臣となる。しかし秀一も文禄の役で陣没し、豊臣秀吉の命令で亡き主君の代理として長谷川軍を指揮した。その功績が評価され、帰国後は秀吉の甥・秀次の家臣となる。文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次が切腹すると石田三成の家臣となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参加したが、三成が敗北すると池田輝政の許に逃げ延びた。
 慶長8年(1603年)、徳川家康より罪を許され、徳川家の旗本として迎えられ、下野国簗田に3000石の知行を与えられた。家康隠居後は秀忠に仕え、慶長11年(1606年)に御持筒頭に任じられた。慶長19年(1614年)4月20日、死去。享年59。

牧野成敏 牧野成興

 専ら通称である田兵衛・伝兵衛の名で江戸期以降に成立の記録類や系譜類にみられる人物である。牧野氏一族の中でも早期に岡崎松平氏に帰属したことで知られる。正岡城主、のち吉田城主となったが、戸田宣成に城を奪われた。
 『寛政重修諸家譜』では牧野成敏の系譜上の記述が存在しないが、『三州吉田記』の系譜記述、あるいは『八名郡誌』に所載の系図や豊川市の牛窪熊野神社所蔵の系図等によれば、ともに和田野則成(左衛門尉)の子とされる。しかし、東三河出自で同族と思われる長岡藩主牧野家の『牧野家系図』では和田野則成の記述は無く、牧野成時の弟・田兵衛信成の子とされ、成時の甥にあたる。前掲の熊野神社所蔵系図も同じく古白の甥、しかし『八名郡誌』では成時の上2代に牧野成清,成富が置かれているために、成敏は成時の叔父になっており、関係が逆転している。この他にも旧長岡市立互尊文庫蔵で現長岡市立中央図書館に所蔵される牧野家の系図類には成敏を牧野成為(平三郎)の子とし、牧野成勝,牧野氏成(新九郎)をその子とする数本の系図の存在や、東三河地方に伝来の系図類や『宮嶋伝記』の系譜記述など、異説が多く牧野成敏の出自・系譜上の客観的な位置関係は不明確である。
 出自においては諸説あるが、複数の史書・記録類に一致して成敏が西三河岡崎城主・松平清康の東三河進攻の際にいち早く清康に内通したとの記述が見える。 成敏の内通を得た清康は吉田城下の下地合戦に勝利し、東三河の国人,有力諸氏は相次いで清康に帰服したという。内通の功のあった成敏は、岡崎に帰還する清康によって吉田城在番を命じられた。清康の力を背景に成敏は勢力を吉田領から宝飯郡方面にも伸長させていたと考えられる。守山崩れで清康横死後、吉田城の松平方在番衆は撤退したので牧野成敏はそのまま吉田城の城主となった。
 しかし、清康の死は成敏にとって戸田氏への対抗上では大きな後ろ盾をむしろ喪失したと言える。戸田氏は天文6年(1537年)に成敏から吉田城を奪い、戸田康光の一族の戸田宣成を城主に置いた。吉田城失陥の後の成敏についての記録は殆ど無い。

 平三郎系は牧野時成のとき、元弘の乱(1332年)に足利尊氏に味方し、子の孝成が三州渥美郡内に恩賞の地数カ所を得た。その子・成国のときには三河守護一色範光に属し、その孫・成興は応仁の乱で一色義直に従い京合戦に参陣したとされる。牧野平三郎系はその後、応仁合戦に西軍一色義直麾下として参陣したため疲弊し、その勢力を著しく低下させたと思われ、一色義直の家臣・牧野成興(平三郎)は文明8年(1476年)死去し、その主君・義直が将軍足利義政に和睦を認められ三河守護職を放棄したために、その後衰えた。成興の子・忠高は継嗣がなく、一族牧野成種(出羽守),成勝を養子としたという。ここまでは、牧野家の系図・家譜等の家伝のみで伝承の類である。
牧野成勝 牧野貞成

 『牧野家譜(宝暦家譜)』に実名を「或いは氏勝」と注記されている。その父は今橋城初代城主・牧野成時(古白)、牧野成高(右京進)、牧野成敏(田兵衛尉)と諸説がある。享禄・天文期に牧野氏の勢力範囲は松平清康の進攻を受けたにもかかわらず、成勝は牛窪周辺の支配権を確保していることから、この時は早期に岡崎松平氏に服属したものと考えられる。
 永正2年(1505年)牧野古白が今橋城転出したのに替わって一色城主となった。享禄2年(1529年)牛窪の本郷に新たに一城を築き、名を牛久保城とする(初代牛久保城主となる)。この年、宝飯郡伊奈の住人、牧野平三郎某が牛窪に来て成勝に属す。また5月に岡崎城主・松平清康が今橋城の牧野三成(田蔵左衛門)を急襲降伏させたが、清康の迅速な行動に成勝は対応が間に合わなかったという。
 天文元年(1532年)松平清康の再進攻を受けた際、牛久保城下の正岡の住人牧野成敏は牛久保城の成勝に背き、清康に内通したとされる。成敏の内通や早期の和睦の申し出のためか成勝の牛久保牧野家は残り、対照的に渥美郡の今橋城(吉田城)牧野家の牧野信成は清康に徹底抗戦して滅亡した。
 また牧野氏の家譜に天文年中、宝飯郡の新宮山大運寺を同郡御津山に移築。この時、寺号を大恩寺と改めたとする。以後の経歴は史料が乏しく、没年,墳墓,法名等も含め不明である。

 貞成は牧野氏の家譜・系図によると、三河牧野氏の牧野成種の次男(異説に3男、また4男とも)として生まれ、牛久保城城主の牧野成勝の養子とされる。天文年間初期に成勝より牛久保城主を受け継いだと考えられる。父・成勝の代には既に東三河地方に進出を始めた今川氏の勢威に服していた。しかしその後は、他の東三河の国人衆と共に松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏と従属・離反を繰り返したため、弘治2年(1556年)2月には今川義元により牛久保城主の地位を追われ、一族で親今川派の牧野成定に代わられた。
 永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで戦死後、岡崎城に復帰した松平元康が伊奈本多氏一族の本多信俊や宝飯郡大塚の大塚城主・岩瀬吉右衛門を通じて貞成を調略。貞成は永禄4年(1561年)松平元康に服属した。しかし永禄5年(1562年)8月28日、牛久保城主に復帰することなく死去。葬地は愛知県新城市庭野の曹洞宗龍岳院。

牧野成定 牧野康成

 牧野成定は戦国時代の東三河宝飯郡の国人領主で牛久保城主。大永5年(1525年)、牧野保成の一族である牧野氏成(新九郎)の子として誕生。弘治2年(1556年)、牛久保城主であった牧野貞成(民部丞)が今川氏に逆心したことにより牛久保城主の地位を失ったと考えられ、今川義元の差配によりその後継は右馬允(成定)となった。祖父・成勝の頃から既に今川氏の勢威に服していたが、成定が城主であった永禄4年(1561年)4月には今川氏から独立した松平氏の侵攻をうけ、他の東三河国人衆が概ね徳川氏に転属したのに対し成定は今川氏への従属を強め、居城牛久保に今川軍の駐留を受け入れた。また、吉田城の今川軍に対しても兵糧などの調達に協力、自らも今川方の先鋒として徳川軍に対し激しく交戦した。
 しかし、永禄7年(1564年)には東三河の今川軍はまったくの敗勢となり、永禄8年(1565年)3月には吉田城が落城、牧野氏は酒井忠次,石川家成を通じて徳川氏に帰属した。永禄9年(1566年)4月20日に岡崎城で家康の謁見を受けて所領安堵された。その後の成定は病身のため岡崎に出仕に及ばずとの沙汰を受けたが、まもなくの10月、にわかに病が重くなり同23日死去。享年42。
 牧野氏の臣属,牛久保開城により徳川家康の東三河併合は決定的となり、同年11月18日に家康は正式に従五位下三河守に任じられ、国守大名となった。

 永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父・牧野成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族の牧野某(出羽守・成元また成真とも、牧野保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として2年間身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。
 徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、長篠の戦いなど家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康の東海道平定戦に寄与した。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、上野国大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸が守る上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる。牧野隊は真田方の策に気付かずに康成・忠成父子の指揮の下、上田城下に攻め入っており、家臣たちの助けで危うく難を逃れた。旗奉行の贄掃部は主君の失態の身代わりとして切腹を命じられていたとされる。
 その後、慶長9年(1604年)に徳川家光が誕生したことによる恩赦で処分が解かれ、大胡藩2万石に戻った。公事は嫡男の忠成に任せて大胡に閑居し、そのまま慶長14年(1609年)12月に死去した。葬地は群馬県前橋市堀越町の浄土宗養林寺。なお『当代記』には死去の6,7年前から世の中を恨んで隠居したとある。

牧野保成 牧野筑意

 徳川氏との戦いに敗れて滅亡したために、これと対照的に徳川氏に臣従した同族の牧野右馬允の系統が徳川譜代大名,旗本として存続する過程で、牧野保成の事績とその系譜は江戸幕府編纂の系図類から欠け落ち(あるいは意図的に抹消され)、今日ではその事績・死没の事情などに諸説あって謎の多い人物である。
 保成は近世大名である長岡牧野家の系図によれば牧野成種の子とされるが、生年は不明である。天文期に入ると、今川氏との関係性において積極的に活動していたことが類推される。
 諸記録によれば、享禄2年(1529年)宝飯郡長山村の牛窪に牧野右馬允と共に新城(いわゆる牛久保城)を築造したとされる。しかし、保成自身が牛久保城の城主と成ったかどうかは明確ではない。
   弘治2年(1556年)には、実弟の牧野貞成が親今川派の保成と立場を異にして、織田氏に款みを通じる西条吉良系で当時西条城城主の吉良義昭に与同して今川氏に反抗したが、乱は今川軍にほどなく鎮圧された。この事後処理として今川義元は同族の牧野成定を貞成の跡目として牛久保城に入れ、この成定は惣領・牧野保成の意向に従って今川方として行動を共にしてゆく。以後、保成は成定と共に今川方の先鋒として徳川軍の進攻を迎え撃ち、戦いを繰り返した。 
  永禄6年(1563年)3月の牛久保城外の戦いでは大剛の勇士とされた保成も重傷を負った。この時の相手は徳川方の将・松井忠次であったともいう。この頃より保成の事績を示す同時代文書や記録も無く、近世初期成立の『牛窪記』は負傷後、その場で自害と記し、同じく近世初期の『牛窪密談記』では暫く後に自害ともいう。あるいはその負傷がもとでその年にそのまま死去したとする説もある。

 筑意は長岡藩士・牧野弥次兵衛家及び紀州徳川家家臣・牧野氏の始祖である。牧野筑意は牛久保城主牧野右馬允の分かれといい、照山城を居城としたというが、当初の照山城は城ではなくその隠棲の屋敷であったらしい。永禄末から天正初期には水堀を備えるなど本格的な城郭となったとされる。嫡子・伝太夫もこれを継ぎ牛久保牧野家に付属した。
牧野成政 牧野成勝(弥次兵衛)

 牛久保牧野家に付属したが、その子・弥次兵衛尉成政は松平元康の永禄4年4月の牛久保城攻めの際、徳川方に帰属して八名郡の国人領主・西郷正勝に与力して、牛久保牧野家の当主・牧野成定には敵対した。
 正勝戦死のあとも家康の命により西郷氏後嗣に合力・補佐したが、元亀2年(1571年)武田軍が東三河を攻めた際、豊川東岸の八名郡崇山八丁木縄手で武田方の紫母衣武者と槍合わせの末に成政は戦死した。

 成勝(弥次兵衛)は、その後も西郷家に客分として残留した。しかし西郷家が所替え(下総国生実5千石)になった際、家臣化されるのを嫌い、牛久保牧野家の牧野成定から家督を相続した牧野右馬允(康成)が上州大胡城主(2万石)になったのを機に同族の誼みでこれに付属、のち家臣となった(後の長岡藩士牧野弥次兵衛家)。この時、長男・成義(次郎兵衛)のみ西郷家に残したが、成義は家康上洛の節に伏見で徳川頼宣付きに召し出された。