能見松平家

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松平重勝 松平重忠

 徳川家康に仕えて初期の大番頭を務め、慶長10年(1605年)に伏見城の守護、慶長17年(1612年)に家康6男・松平忠輝の附家老となり、越後高田藩を支配した忠輝の配下として越後三条2万石を与えられる。長男・重忠は将軍家で大番頭を務めていたため、次男・重長を手元に置いた。

 後年、元和2年(1616年)7月に主君・忠輝が改易となるが、その際、蟄居処分を伝える使者となったのが3男・重則で、改易の上使を務めたのが5男・勝隆だった。勝隆は、高田より先に三条の父兄の元を訪れ、忠輝除封を報告した。そののちの高田における除封申し渡しでは重勝は重長共々、息子、弟といえども上使の勝隆に伏し従う形だったと伝わる。

 忠輝の改易後は連座せず幕府に召し返されて徳川秀忠に仕え、翌元和3年(1617年)に譜代大名として2万6,000石を拝領して下総関宿藩主となった。その後、元和5年(1619年)遠江横須賀藩に移り、駿河国駿府城の城代を兼務する。

 元和6年(1620年)に駿府城下にて死去。享年72。墓所は現在の静岡県静岡市葵区大鋸町の西福寺に存在する。

 慶長17年(1612年)に大番頭となる。慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、冬の陣では大坂城攻め、夏の陣では伏見城守備を担当した。元和7年(1621年)、駿府城代に任じられた。同年に家督を継ぎ横須賀藩主となる。元和8年(1622年)には出羽上山藩4万石に加増移封された。

 寛永3年(1626年)7月1日、死去。享年57。2代将軍・徳川秀忠の命により跡を継いだ婿養子・重直は、1万石の減封をもって摂津国三田藩3万石に移封となった。

松平重則 松平勝隆

 慶長3年(1598年)から徳川秀忠の家臣として仕えるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠に従って信濃国上田城攻めに参加した。その後、伏見城や二条城の城番となり、慶長18年(1613年)には御徒士頭となる。元和2年(1616年)に秀忠の弟・松平忠輝が改易された際、その蟄居を伝える使者役を務めた。
 元和7年(1621年)1月21日に大番頭となる。寛永3年(1626年)12月に叙任する。寛永10年(1633年)4月23日、4000石を加増されて合計1万500石の大名となり、上総百首藩主となる。
 寛永17年(1640年)に下野皆川藩に移封されたが、翌年12月27日に死去した。享年62。

 始め母方の伯父・鳥居元忠に養育されて、その所領であった陸奥国磐城平で養育された。慶長18年(1613年)から家康に仕え、後に2代将軍・徳川秀忠に仕えて大番頭、奏者番などを歴任した。中でも代表的な大任であったのが松平忠輝への除封申し渡しである。 寛永11年(1634年)、伊予国松山藩主・蒲生忠知が死去し、嗣子がいないために国政を代わりに勤め、松平定行への城引渡しの役も勤めた。寛永15年(1638年)、上総国佐貫藩主となって1万5000石を領した。
 寛文2年(1662年)9月、家督を養子・重治に譲って隠居する。寛文6年(1666年)2月3日に死去した。享年78。

松平重治

 寛永19年(1642年)、江戸幕府の高家である品川高如の次男として生まれる。初代藩主・松平勝隆の養子となっていた松平勝広が廃嫡されたため、代わって慶安5年(1652年)6月に勝隆の養子となる。明暦3年(1657年)12月、従五位下・宮内少輔に叙位・任官。寛文2年(1662年)9月に勝隆の隠居にともなって家督を継承して第2代藩主となり、出雲守に遷任する。
 寛文5年(1665年)12月、山城守に遷任。寛文6年(1666年)12月には、勝広の長男・松平勝制に新田500石を分与する。寛文7年(1667年)に大坂加番、寛文10年(1670年)4月に奏者番、延宝6年(1678年)3月には寺社奉行に任じられた。天和元年(1681年)11月、修理亮に遷任。
 貞享元年(1684年)11月10日、みだりに身分の低い者と交わって綱紀を乱したとして改易され、身柄は陸奥会津藩主・保科正容に預けられた。重治は300俵高となり、佐貫城は破却された。貞享2年(1685年)2月、身柄を江戸から会津に移送されたが、直後に病に倒れて8月2日に死去。享年44。
 死後、嫡男の勝秀は許され500石の旗本として存続した。