大給松平

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松平乗次 松平盈乗

 寛永9年(1632年)3月20日、7000石の旗本である松平真次の長男として生まれる。真次は乗次が生まれるまで男子に恵まれなかったため、彼が誕生する前に養子として松平乗真を迎えていた。そのため、正保3年(1646年)に真次が死去すると、その領地と家督をめぐって両者が争った。結局は第3代将軍・徳川家光の裁定により、乗次が家督と4000石、乗真が3000石をそれぞれ相続することとなったのである。
 寛文2年(1662年)3月7日に小姓組番頭に任じられ、12月7日に従五位下・縫殿頭に叙位・任官する。寛文9年(1669年)7月8日に書院番頭に任じられ、寛文12年(1672年)12月3日に大番頭に任じられ、延宝9年(1681年)9月14日に江戸城留守居役に任じられるなど、幕府の要職を歴任したことから、天和2年(1682年)4月21日に丹波何鹿郡,氷上郡などで2000石を加増された。
 天和3年(1683年)7月に江戸城大奥の普請役を命じられ、貞享元年(1684年)に大坂定番に任じられると同時に摂津,河内,丹波などで1万石の加増を受けて合計1万6000石の大名となり、大給藩主となった。しかし領地に入部することもなく、在位3年後の貞享4年(1687年)8月30日に死去。享年56。後を長男の乗成が継いだ。

 正徳6年(1716年)4月11日、初代藩主・松平乗真の長男として奥殿で生まれる。しかし父は享保元年(1716年)7月5日に死去したため、生まれたばかりで9月5日に家督を継いで第2代藩主となる。このため、縁戚の畠山義寧の補佐を受けた。
 享保10年(1725年)、第8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保15年(1730年)に従五位下・縫殿頭に叙位・任官する。藩政では享保11年(1726年)から藩財政悪化のため、倹約や借金返済の期限を延長したり、享保15年(1730年)12月から財政再建5カ年計画を打ち出したり、参勤交代免除の定府願いを出すなどしているが、その一方で千曲川や矢作川の水害,虫害,享保19年(1734年)の享保の大飢饉,日光祭祀奉行や江戸城御門番などの出費などもあって財政再建はならず、また盈乗自身が病弱で、享保21年(1736年)1月からは特に病がちとなって藩政を執ることも困難になった。
 寛保元年(1741年)2月、癇癪が原因で病に倒れ、回復することなく寛保2年(1742年)5月21日に江戸で死去した。享年27。後を長男の乗穏が継いだ。

松平乗穏 松平乗友

 元文4年(1739年)3月22日、第2代藩主・松平盈乗の長男として江戸で生まれる。寛保2年(1742年)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし幼少のため、義父の太田資俊の補佐を受けた。宝暦5年(1755年)12月18日、従五位下・石見守に叙位・任官する。
 藩政では藩財政難のため、宝暦3年(1753年)に倹約令を出し、家臣の知行を借上し、宝暦9年(1759年)には税制を定免法に改め、明和2年(1765年)には借金を20年かけて返済する方法を採用するなど、積極的な藩政改革を行なった。しかし宝暦6年(1756年)と宝暦9年(1759年)に日光祭祀奉行、宝暦8年(1758年)4月に江戸城馬場先門番、明和5年(1768年)から安永8年(1779年)まで大番頭、明和5年(1768年)6月と安永5年(1776年)の大坂加番など要職を歴任した上、千曲川の水害,宝暦4年(1754年)の年貢減免一揆,明和5年(1768年)の江戸屋敷類焼など出費が激しく、財政改革は効果が無かった。
 天明2年(1782年11月21日、家督を次男の乗友に譲って隠居する。天明3年(1783年)4月9日、江戸で死去した。享年45。

 兄の松平乗統が早世したため、安永5年(1776年)10月19日に世子になる。天明2年(1782年)11月21日、父の隠居で家督を継いで第4代藩主となり、12月18日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。
 天明3年(1783年)に浅間山の噴火が起こると大被害を受け、救済に務めた。直後の天明の大飢饉でも被害を受けたが、餓死者を出さずに解決している。しかし天明5年(1785年)には大坂加番に任じられるなど、出費が相次いで藩財政の悪化により、天明6年(1786年)と寛政元年(1789年)に倹約令を出した。寛政元年(1789年)9月21日には大隅守に遷任する。寛政2年(1790年)2月、36か条の5ヵ年倹約令を出すが、直後の3月6日に弟で養子の乗尹に家督を譲って隠居した。
 しかし乗尹が病弱だったため、隠居後も藩政の実権を握って政務を行なった。文化元年(1804年)7月23日に剃髪して大隅入道と号した。享和2年(1802年)12月2日に乗尹が隠居すると、自らの次男・乗羨を第6代藩主に擁立して藩政の実権をなおも掌握した。しかし晩年には側室のてる(知止院)が9人の男子,4人の女子を産んでいたことから藩の権力を掌握するようになり、それによって奥向きの出費が増大して藩財政が悪化し、さらに乗友とも対立するようになったため、乗友はてるやその側近らを信濃に配流している。文政7年(1824年)10月4日に死去。享年65。

松平乗利 大給乗謨

 文化8年(1811年)3月18日、第6代藩主・松平乗羨の長男として江戸で生まれる。文政10年(1827年)、父の死去により家督を継いで第7代藩主となる。文政11年(1828年)12月に従五位下・石見守に叙位・任官する。幕命により日光祭祀奉行,大坂加番,江戸城御門番役などを歴任した。
 藩政では文武を奨励し、藩校・明徳館を設立する。また藩財政の悪化で5ヵ年にわたる倹約令などを出したが効果は無く、天保7年(1836年)9月に三河加茂郡を中心とした加茂一揆が起こっている。しかし天保の大飢饉では万全の備蓄体制を施していたことにより、餓死者を出さなかった。
 嘉永5年(1852年)3月5日に隠居する。家督は3月7日に長男の乗謨が継いだ。嘉永7年(1854年)8月27日に死去する。享年44。一説には乗利は傀儡の藩主であり、実際の藩政は一族の永井尚志によって行なわれていたとされている。

 江戸幕府の老中、若年寄。明治時代の政治家・伯爵。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。
 幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永5年(1852年)3月8日、父の隠居により家督を継いで奥殿藩の第8代藩主となる。6月には竹橋御門番に任じられた。
 嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。文久3年(1863年)8月には若年寄に任じられた。9月11日、藩庁を手狭な奥殿藩から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口に移転し、新たに星形要塞である龍岡城を建設した。
 その後は幕政に参与したが、元治元年(1864年)6月に開港問題などで松平慶永と対立してしまい、若年寄を罷免された。慶応元年(1865年)4月、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月に若年寄次席、12月には若年寄となり、慶応2年(1866年)6月には老中に栄進し、10月からは朝廷との交渉役を務めている。11月に正四位下に昇叙し、12月には陸軍総裁に任じられた。
 この間、藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成する一方で、殖産興業や蚕種・生糸の増産など国力の増強にも務めている。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任し、2月には老中も辞任した。そして幕府との訣別を表明するため、姓を大給と改姓した上で信濃に帰国し、3月には上洛して新政府に帰順する意思を表明したが、新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じた。4月には新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵し、このため5月に謹慎処分を解かれた。5月28日に藩名を竜岡藩と改名する。のちに維新の戦功として賞典金2000両を下賜された。
 明治2年(1869年)6月、版籍奉還により竜岡藩知事に任じられる。7月に名前を大給恒と改名する。しかし、龍岡藩の財政破綻のため廃藩を申し出て、廃藩置県前の明治4年6月2日(1871年7月19日)、廃藩となり藩知事を免ぜられる。
 明治6年(1873年)、メダイユ取調御用掛に任ぜられ、世界の勲章制度に関する調査を命ぜられる。明治8年(1875年)、元老院議官。明治9年(1876年)には賞勲事務局(賞勲局)副長官に任じられた。明治11年、議官兼賞勲局副総裁。 明治17年(1884年)の華族令では子爵に叙せられた。明治23年(1890年)7月、貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月まで在任。明治28年(1895年)からは賞勲局総裁。明治40年(1907年)には伯爵に陞爵。明治42年(1909年)、枢密顧問官。明治43年(1910年)1月26日に死去。享年72。危篤の報が天聴に達すると、正二位に叙され、勲一等旭日桐花大綬章。
 佐野常民とともに日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献した。佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、大給は「日赤の母」と呼ばれている。