大給松平

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松平乗元 松平乗正

 生年は嘉吉3年(1443年)、没年は天文3年(1534年)説もある。三河国岩津で生まれた。
 岩津に侵攻した松平信光は、長坂新左衛門の拠る加茂郡荻生の大給城を攻略して3男の親忠に与えた。親忠は、次男・乗元に細川城と共に大給城を譲り、大給松平家の初代となった。乗元,乗正父子は、永正7年(1510年)頃まで城の大規模な修築を行う。以後、乗勝,親乗,真乗と続き、6代目の家乗は、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入りに従い、上野国に移った。墓は大給城にある。

 初めは乗元の居城・細川城を拠点としたが、後に大給城に移した。
 『寛政重修諸家譜』によれば、永正3年(1506年)に今川氏親が伊勢宗瑞(北条早雲)を将として三河に攻め込み、氏親自らが岩津城に攻めてきた時、乗正は長親軍の先鋒を務め、小原某の首を挙げるなどの活躍を示した。天文10年(1541年)に60歳で没し、足助の宝珠院に葬られたという。
 乗正には、松平広忠の妻になった娘がいる(名は「お久の方」とされる)という主張がある。「お久の方」は広忠との間に松平忠政と恵最(のちに広忠寺住職)の2子を産んだという(忠政は徳川家康の異母兄にあたる。恵最は家康と同日の生まれという)。しかし、『寛政重修諸家譜』では、大給松平家の記録にはお久の方が存在しないなどの理由で否定的な考証を行っている。

松平親乗 松平真乗

 享禄3年(1530年)、松平清康に従軍し熊谷氏の居城・宇利城を攻め、功績をあげた。天文21年(1552年)、東条松平家の松平忠茂に居城・大給城を攻められ、忠茂と戦う。弘治元年(1555年)8月、今川義元に命じられ、織田氏の居城・蟹江城を攻める。
 この頃、今川家の人質であった徳川家康に随身し駿府に居住しており、弘治3年1月8日(1557年2月17日)には駿府滞在中の山科言継を訪ね酒宴に及んだことが『言継卿記』に記録されている。このとき以降、山科言継とは永禄11年10月10日(1568年11月9日)など会合を重ね親交を深めている。

 早くから徳川家康(又従兄にあたる)に仕える。永禄12年(1569年)には遠州平定戦に参加。松平清宗に代わって石川家成の指揮下に入り、掛川城の守備にあたる。ついで、遠江国榛原郡の小山城攻めで功績をあげ、榛原郡内で2000貫文の所領を得た。
 その後も元亀元年(1570年)の姉川の戦いや元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに参加。上杉謙信と徳川家康が交渉を持った際には徳川方の窓口となった。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは真乗に仕える騎馬武者6名が鳶巣山砦攻撃に加わり、戦後は三信国境の武節城の守備に当たった。天正8年(1580年)、家康が田中城攻めから帰る帰途に殿を受け持っていたが、持船城から朝比奈信置が襲撃を加えたため、真乗は石川数正とともに反撃を行って破っている。天正9年(1573年)、高天神城攻めに従軍。福島為基ら5人を城内に潜入させた。
 天正10年(1582年)に37歳で死去した。

松平家乗 松平清成

 天正10年(1582年)、父が死去したため、8歳で家督を継ぐことになった。天正12年(1584年)の長久手の戦いに際しては、家乗が幼少であったために、家老の松平近正が代理として大給松平家を率いて参加した。同年の尾張蟹江城・前田城攻めでは、近正率いる大給勢が武功を立てている。
 天正15年(1587年)に元服し、主君・徳川家康から偏諱を受け家乗と名乗った。
 天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられた(那波藩)。なお、このとき家老であった松平近正が家康の直臣に取り立てられている。家乗は上野国那波に父祖の菩提寺として雄山伝英和尚を招いて久昌山盛巌寺を建立した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、三河国吉田城の守備を務めた。これについて、はじめ吉田城守備を命じられた家乗は、旗本の先駆を務めたいと家康に請うたが、家康は吉田城が尾張国知多郡に通じる軍監の通路であり枢要の地であるからという理由を示し、重ねて吉田城守備を命じたという。戦後は家康の命を受けて伊勢国桑名城に赴いている。
 慶長6年(1601年)正月、美濃国の岩村城に1万石を加増の上移され、恵那郡,土岐郡内で2万石を領する大名となった(岩村藩)。この際、盛巌寺を岩村城近くに移転した。
 慶長19年(1614年)2月19日死去、40歳没。盛巌寺内の墓地に埋葬された。曲折を経て、家乗の墓所は乗政寺山墓地(大名墓地)に現存している。

 『寛政重修諸家譜』によれば、松平乗正の3男とされる。徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで首級を得る功績を挙げた。
 天正9年(1581年)の高天神城攻めでは、武田方の兵5名を相手に斬り結んで1人を討ち取ったが、清成も17か所の創傷を受け、左の手首を切り落とされた。重傷を負った清成であったが、敵の首と自らの手首を手ぬぐいで鑓に結び付けて帰陣しようとし、3町ばかり歩いたところで倒れた。松平近正(清成の兄にあたる親清の子)と従者の岩田久大夫らに救援されて陣屋に帰り着いたために辛うじて一命はとりとめ、半年ほどの療養で傷は平癒したが、身体が不自由になったために出家して浄信(あるいは浄心)を称した。さらにのちには還俗して松平讃岐を称し、松平家乗の家臣になった。
 この人物について、『寛永諸家系図伝』や『貞享書上』では松平近正の弟とする。『寛政譜』編纂時の、府内藩主家(近正の子孫)からの呈譜でもそのように主張されている。ただし、府内藩の呈譜では元和5年(1619年)に92歳で没としており、これを逆算すれば清成は享禄元年(1528年)生まれとなって、天文16年(1547年)生まれとされる近正との兄弟関係に矛盾が生じる。西尾藩主家(大給松平家の宗家)からの呈譜において「近正の弟」は誤りで「乗正の三男」が正しいとされたことから、『寛政譜』ではこの修正を採用している。