<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB01:橘 諸兄  橘 諸兄 ― 橘 清友 TB16:橘 清友

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橘 清友 橘 嘉智子

 父・奈良麻呂が橘奈良麻呂の乱で処刑された直後に誕生する。
 宝亀8年(777年)良家の子息でかつ容儀が逞しく立派であったため、若年ながら渤海使の接待を行うこととなる。その際、渤海大使の史都蒙は清友を見て、「あなたは骨相から見ると子孫は繁栄するが、あなた本人は32歳で厄があるでしょう」と言ったという。延暦5年(786年)内舎人となったが、3年後の延暦8年(789年)に史都蒙の予言通り、32歳で病により自邸で没した。

 嵯峨天皇が親王の時に入侍し、即位後の大同4年(809年)6月に夫人となる。弘仁6年(815年)7月13日、皇后に立てられる。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王),正子内親王(淳和天皇皇后)他2男5女をもうけた。嵯峨天皇の淳和への譲位に伴い、弘仁14年(823年)4月23日皇太后となる。仁明天皇即位により、天長10年(833年)3月2日、太皇太后となる。嘉祥3年(850年)3月に落飾。同年5月4日、冷然院において崩御。享年65。
   世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣らの後押しで立后したと考えられる。橘氏出身としては最初で最後の皇后である。仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は共に冷然院・嵯峨院に住んだ。嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったといわれる。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている。
 仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心を呼び起こすために、死に臨んで自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。また、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。

橘 氏公 橘 峰継

 弘仁元年(810年)に昇殿。左衛門大尉・蔵人を経て、弘仁6年(815年)従五位下・左衛門佐に叙任される。同年姉で嵯峨天皇の夫人であった嘉智子が皇后に冊立されると急速に昇進する。弘仁14年(823年)正月に蔵人頭を辞すが、同年4月の淳和天皇の即位に伴って、嘉智子所生の皇子・正良親王が春宮に立てられると、氏公は正四位下に叙せられる。その後、淳和朝では刑部卿,宮内卿を歴任する。天長10年3月に春宮・正良親王が即位(仁明天皇)すると、その外戚として参議兼右近衛大将に任ぜられた。
仁明朝では、承和5年(838年)上位3名(藤原良房(権中納言),源信,源定(いずれも参議))を飛び越えて中納言に、承和9年(842年)には承和の変により上位2名(藤原愛発(大納言)・藤原吉野(中納言))が失脚したことから後任の大納言に任ぜられる等、天皇の外戚として順調に昇進。承和11年(844年)には右大臣に昇進するが、この頃以降、病気により家に籠もりがちとなり、政治に関わりを持たなかった。    
 承和14年(847年)12月19日薨去。享年65。即日従一位の位階が贈られた。薨伝には「太后(嘉智子)弟を以てこの顕要を歴る」とあり、嘉智子の威光により要職を歴任したと記載されている。

 従兄弟(伯母が橘嘉智子)かつ乳兄弟(母が仁明天皇の乳母)にあたる正良親王(のち仁明天皇)に身近に仕え、その寵幸を得ていたという。天長6年(829年)内舎人に補せられたのち、蔵人,常陸少掾,相模掾を経て、天長9年(832年)従五位下・相模権守に叙任される。
天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い、右近衛少将に抜擢される。同月、父・氏公の近衛大将への任官により左兵衛佐に遷任するが、同年11月左近衛少将に任ぜられた。その後も急速に昇進し、承和11年(844年)参議に任ぜられ公卿に列す。仁明朝末の嘉祥2年(849年)には上位の参議3名(滋野貞主,藤原助,藤原長良)を越えて従三位・権中納言に叙任され、翌嘉祥3年(850年)の仁明天皇の崩御にあたっては御装束司を務めている。
 文徳朝の斉衡2年(855年)正三位、斉衡3年(856年)中納言に叙任される。清和朝の貞観2年(860年)10月29日薨去。享年57。    
 身長が6尺(約182㎝)以上で腰回りも非常に大きい偉丈夫である一方、緩やかで鷹揚な性格であった。少年の頃、愚鈍で文書を好まず、岑継が漢学の教養がないことを仁明天皇は嘆いたという。岑継はこのことを密かに聞いて深く恥じて、心を入れ替えて学問に精励し、師に付いて書伝を学び、ほぼ内容に通じるほどにまでなったという。

橘 曙覧

 越前国石場町に生まれる。生家は、紙,筆,墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は、正玄(正源とも表記)五郎右衛門。曙覧は正玄家(木田橘家七屋敷のひとつ)の第六代目で、名は五三郎、諱は茂時。後に1855年(安政元年)、43歳の時曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた。
 2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父山本平三郎の後見を受け、家業の酢製造業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」と自称した。43歳の時、大病し、名を曙覧と改めた。
 1858年、安政の大獄で謹慎中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は、1865年、家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した。1868年(慶応4年)8月死去。享年57。明治に改元される10日前であった。
1919年(大正8年)、正五位を追贈された。⁠