清和源氏

G331:足利義氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏 G357:吉良長氏

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吉良長氏 吉良満氏

 母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。
 『吾妻鏡』には安貞2年(1228年)7月23日に4代将軍・藤原頼経の随兵として登場するのが最初で、以後、寛喜元年(1229年)の流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い、嘉禎2年(1236年)の将軍の随兵、嘉禎3年(1237年)の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、仁治2年(1241年)1月2日の椀飯の記事を最後に『吾妻鏡』から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる。
 建長3年(1251年)に鶴ヶ崎天満宮(西尾市)を造営。弘安8年(1285年)、霜月騒動で子・満氏を失ったため、嫡孫・貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川または竹崎の地に隠居したと言われる。
 正応3年(1290年)6月18日、死去。享年80

 吉良長氏の嫡男として誕生。『吾妻鏡』には建長4年(1252年)4月1日、新将軍宗尊親王の鎌倉入りの随兵として登場するのが最初で、正嘉元年(1257年)から廂番、正元2年(1260年)には昼番衆として表れる。弘長3年(1263年)8月の記事を最後に『吾妻鏡』から名前が見えなくなるが、吉良荘へ帰ったらしい。文永8年(1271年)、吉良氏の菩提寺として実相寺を創建、東福寺の円爾を招いて開山式を行っている。
 建治元年(1275年)頃、文永の役に動揺した幕府の日本海沿岸諸国の大規模な守護更迭策によって越前守護に任ぜられる。鎌倉時代に足利氏の庶流で守護になったのは満氏が唯一であり、異例の人事だった。弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で霜月騒動が起こり、平頼綱の軍勢と戦って敗れ自害して果てた。

吉良貞義 吉良満義

 鎌倉幕府の御家人として9代執権・北条貞時から偏諱を受けて貞義と名乗ったようである。弘安4年(1281年)の弘安の役の際、大将として石見国に下向したと伝わる。その頃の石見地頭は「三河吉良右衛門」で、その末裔が羽隅氏を名乗り石見に土着したという。
 弘安8年(1285年)の霜月騒動で父・吉良満氏を亡くし、吉良荘の領地が祖父・長氏に一旦返還されたため、長氏の養子となり所領を相続した。元亨3年(1323年)12月、北条高時が父・貞時の十三回忌供養を行い、円覚寺法堂以下を造営したが、貞義は一族の足利貞氏,斯波高経らと共に参加、砂金100両,太刀一腰を進上した。吉良氏が史料に表れるのは、霜月騒動以来この時が初めてであり、幕府への再出仕がようやく許されたと思われる。
 元弘3年(1333年)3月、足利高氏は幕命により楠木正成らの討伐軍大将として鎌倉を出立、三河国八橋で軍議を開くが、既に幕府離反を決意していた高氏は、上杉憲房を貞義の許へ使いに出し、決意を述べ貞義の意見を求めたが、貞義は「決意は誠に目出度い、むしろ決断が遅過ぎると思ったほど」と答え、高氏の考えを支持、これに自信を得た高氏は倒幕行動を開始する。続く南北朝の動乱期、老齢の貞義は吉良荘の留守を守り、興国4年/康永2年(1343年)に没する。

 元弘の乱で倒幕の兵を挙げた足利尊氏に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義に従い関東に下向し、建武元年(1334年)正月には関東廂番六番頭人に任命された。
 建武2年(1335年)2月、信濃国で北条氏残党が活動を始めると、これを鎮圧するため、一族の吉良時衡を信濃へ派遣した。時衡は信濃守護・小笠原貞宗と共に軍を指揮したが、鎮圧は成功せず北条時行の武蔵国進出を許してしまい、これが鎌倉陥落へと繋がる(中先代の乱)。乱が勃発した時点での満義の居所は不明だが、以降、延元元年(1336年)の南北朝の分裂までの間、尊氏,直義に従い各地を転戦する。
 延元3年/建武5年(1338年)1月の美濃国青野原の戦いに参加した後、興国元年/暦応3年(1340年)から翌年にかけては信濃守護職に就いていたという。興国5年/康永3年(1344年)3月、幕府引付方の一番頭人に就任し、直義の政務を補助する。直義が満義に寄せる信頼は非常に厚く、直義の嫡男である如意丸は、正平2年/貞和3年(1347年)6月8日、二条京極にあった満義の邸宅で誕生している。また、同じ頃、陸奥国へ赴いた吉良貞家・満家父子の領地であった吉良東条を接収している。
 観応の擾乱では、終始直義側に立ち、尊氏から「吉良荘の凶徒」と呼ばれる。正平7年/観応3年(1352年)2月に直義が没した後も容易に尊氏には降らず、数年にわたり南朝に属して抵抗を続けた。その後、嫡男・満貞と袂を分かち北朝に帰順。正平10年/文和4年(1355年)に南朝軍が京都を占領した際は、近江国に下向していた後光厳天皇の警備を尊氏から任されている。正平11年/延文元年(1356年)9月23日、死去。

吉良満貞 吉良義尚

 父と共に足利尊氏の挙兵に従った。やがて観応の擾乱が始まると満義・満貞父子は足利直義方として戦い、直義の死後も直冬や南朝方と結んで尊氏に敵対し、一時は京を制圧するほどの勢いをみせた。しかし、情勢は必ずしも吉良氏が属した陣営に好転せず、やがて満義、満貞の順で幕府へ帰順することとなった。
 満貞の幕府帰順の契機は畠山国清の都落ちにあった。正平15年(1360年)、国清による仁木義長の追い落とし後、義長の勢力を取り込んだ南朝方の活動が活発化したため、国清はその責任を問われ関東へと没落する。ところが、三河矢作まで来たところ、行く手を満貞及び仁木義長の三河国守護代であった西郷氏の軍勢に阻まれ、背後の尾張も小川中務に遮られたため、畠山軍は立ち往生となった。幕府は新たに三河国守護となった大島義高に国清援護を命じ、大島勢との合戦に敗れた満貞は、行き場を失って上洛し幕府に帰順することとなったのである。
 幕府帰順後の満貞は、南朝に降った前幕府執事の細川清氏や三河国の南朝勢力である鵜殿氏と戦っている。また、正平17年(1362年)には観応の擾乱以来没収されていた遠江国引馬荘を還付され、その翌年には引付頭人に就任、没するまでその職にあって幕政に参与した。元中元年(1384年)9月5日没。
 足利一門中の名門である吉良氏ではあるが、その名門意識からか観応の擾乱では本宗家の尊氏と敵対するに至った。しかし正平11年(1356年)に父の満義が没すると、天下の情勢を見極めた被官の一部により、9歳の弟・尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏(下吉良)として独立することになった。これを認めない満貞は以降東条勢と合戦に及ぶが、その後、両家の和談が成立し、尊義は東条吉良氏として認められた。だが東条家成立の際の因縁は残り、室町時代を通じて両吉良氏は対立・抗争を繰り返して自らその勢力を弱める始末となった。

 元服時に室町幕府4代将軍足利義持から「義」の一字を授かり義尚と名乗ったと云われる。足利一門の中でも家格が高く、父俊氏が禁裏警護の長官(武者頭)をしていたため、無位無官の時、既に昇殿を許されていたという。父の跡を継ぎ、武者頭に任ぜられる。
 永享4年(1432年)10月、三河国奉公衆中条詮秀・満平親子が6代将軍足利義教の怒りに触れ所領没収された際、一色持信とともに没収領を分給される。
 嘉吉の乱の半年後(嘉吉元年(1441年)12月)、畠山持国が左兵衛督への昇進を望んで許されたが、このことについて『建内記』は「過分事歟、然者吉良・管領・山名已下定可申歟、希代事也」と記しており、昇進を申し入れた者のうちの筆頭に吉良義尚を挙げている。当時、将軍は不在であり(足利義勝が将軍となるのは翌年)、義尚は家格の高さから将軍の代行をしていたと考えられる。
 文安4年(1447年)5月、3管領の一つ斯波家内部では当主斯波千代徳丸(斯波義健)が若年のため、重臣甲斐常治と一族斯波持種の間で対立が起こり一触即発の状態にあったが、義尚は自分の娘を千代徳丸に嫁がせ、婿として後見すると約束し、対立する両者を自邸に招いて和解させている。
 享徳元年(1452年)、娘婿である斯波義健が急死すると男児が無かったため、弟の義真に家督を譲り引退して京都に住んだ。文正元年(1466年)秋、病気となり翌応仁元年(1467年)10月に没した。享年54。

吉良義真 吉良義信

 長兄の義尚に息子がなく、義尚の婿である斯波義健も早世したため、享徳年間(1452~55年)に長兄から家督を譲られる。
 8代将軍足利義政の側にあって主として禅寺の所領問題に関与し一定の発言権を持っていたようである。また、義真の頃には西条吉良氏は石橋氏、渋川氏と共に将軍の「御一類」と呼ばれ、毎年正月5日に行われる将軍対面の式など様々な面で別格扱いを受けていた。
 応仁の乱が起こると、義真は妻の従兄が細川勝元という関係から東軍に属し、西軍についた吉良義藤と対立、義藤が三河に下向すると、これに対応するため京都を息子の義信に任せ、応仁元年(1467年)5月18日に三河に向けて出立した。
 三河での東西両吉良氏の戦いの様子は史料がなく、判然としない。わずかに『三河軍記』がその模様を伝えるが、内容は誤謬が多く信頼できない。幾度か合戦は行ったものの、当主が没落するといった大規模なものにはならず、京都の東西両軍の和睦を受けて東西両吉良氏も和睦をしたのではないかと思われる。ただし、義真は三河奪回のため活発に活動を続ける西軍一色義直を牽制するためか、その後も三河に留まり一色義直が文明10年(1478年)に至り三河を放棄する旨を文書で表明したのを受け、ようやく翌文明11年(1479年)9月頃上洛する。
 上洛後、義真は左大臣近衛政家の邸を訪れるなど公家との交際を再開するが、まもなく病気となり文明13年(1481年)7月21日に没した。享年は60か。葬儀は8月24日に行われ幕府政所執事伊勢貞宗は10貫文を献じている。

 応仁の乱が起こると、父吉良義真は三河国の本領を攻撃し始めた東条吉良氏の吉良義藤の後を追って、応仁元年(1467年)5月18日に京都を発ち三河へ向かった。その際、子の義信は同行させず、将軍足利義政に近侍させた。
 応仁元年8月18日、細川勝元は将軍に近侍する奉公衆の中に西軍に味方する者がいるとして、将軍御所を囲み人の出入りを厳重に調べた。勝元が後土御門天皇にこのことを奏上すると、天皇は大納言三条公春と吉良義信を使いとして、勝元に対し、西軍与同の者の姓名を記し追放するよう命令、調査の結果、23日に12名の名を書いた名簿が将軍義政に提出される。義政は天皇と同様に三条公春と吉良義信の二人を使いにして、名簿に挙がった12名の者に対し御所を退出するよう命令した。が、12名は憤りが収まらずその場で合戦の支度を始めてしまう。同じ日に山名宗全の兵が内裏へ乱入し天皇・上皇を拉致するという噂が流れ、義信は武者頭として禁中警護に当り、再度、三条とともに名簿の12名に対し、天皇・将軍の命令として御所退出を促し、説得に成功、御所から脱出させている。
 9月1日、西軍の攻撃により多くの武家の邸宅が炎上したが、吉良邸はその筆頭に挙げられている。10月、義信には伯父に当る先代吉良義尚が京に於いて病没している。
応仁の乱が終結すると、義信は父義真とともに近衛政家ら公家との交際を積極的に展開、政家の日記『後法興院記』に度々名前が表れる。文明13年(1481年)7月21日に義真が没するとしばらく喪に服し、同年12月26日に家督相続後初めて幕府に出仕した。
 長享元年(1487年)の足利義尚による近江六角高頼攻めに従軍、延徳3年(1491年)の足利義材による再度の六角攻めにも従軍した。
 明応2年(1493年)、明応の政変で義材が失脚、足利義澄が新将軍となった後も、義信はしばらくの間、幕府出仕を続けるが、明応7年(1498年)12月に至り病と称して出仕を止め、以後明応10年(1501年)までの3年間屋敷に引き篭っていた。
 永正5年(1508年)6月8日、前将軍義尹(義稙)が入京すると、義信は一条室町の自邸を将軍の仮御所として提供、将軍に復位した義尹はここで犬追物や能を開催している。また、この時に義信が三河守護に任じられたとされる。
 永正8年(1511年)8月16日、細川澄元の京都侵攻により将軍義尹は丹波国に逃げるが、義信はこれに随行、同日将軍仮御所であった吉良邸は焼き討ちにあい焼亡する。船岡山合戦により澄元の兵は敗走、義信は義尹とともに帰洛する。
 永正13年(1516年)10月4日、嫡子義元に先立たれた義信は、嫡孫の珍王丸(後の吉良義堯)に家督を譲る。義信の没年月日は不詳。

吉良義堯 吉良義昭

 父義元が家督を継ぐことなく永正13年(1516年)以前に没したため、同年10月4日、祖父吉良義信から家督を譲られる。
 永正16年(1519年)に元服、同年10月14日、将軍足利義稙に対し元服の礼物を献上しているが、これが京都における西条吉良氏の消息の最後である。この直後、義稙が失脚し京都を追われたため、祖父義信の頃から義稙派であった西条吉良氏は、京都での立場を失い、吉良荘に戻り領国経営に専念したと思われる。
 遠江国引馬荘は南北朝時代から吉良氏の領地であったが、駿河今川氏の侵攻に遭い、代官である大河内貞綱,巨海道綱兄弟は斯波氏と結んで、これに対抗していた。義堯が家督を継いで間もない永正14年(1517年)8月19日、今川氏親により拠点である引馬城を落とされ揃って戦死、吉良氏は遠江の所領を失うこととなった。その後氏親の長女が義堯の正室になっているために、後に和睦したとみられる。その背景として、本来吉良氏の分家である今川氏にとって吉良氏は格上の存在であり、婚姻関係を結ぶことで、今川氏による吉良氏の従属の事実(いわば「下剋上」)を曖昧にする目的があったとされている。義堯の没年月日は不詳。

 西条吉良氏は、はじめ長兄の義郷が継いでいたが、義郷が死去すると次兄の義安が継ぐこととなった。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、義安はこちらの家督を継ぎ、西条吉良氏の家督はこの義昭が相続することになった。
 天文18年(1549年)、駿河国の戦国大名・今川義元が織田氏家臣の安祥城主・織田信広を攻めた際に、兄・義安は織田氏に協力したため、今川軍に捕らえられて駿府へ送られたが、義昭は今川軍に協力したため、義元より東条吉良氏も一緒に受け継ぐよう命じられた。これにより、東西の吉良氏を統一させて今川家に臣従することとなった。
 ただし、吉良義昭の吉良氏継承については異説もあり。兄の義安はその後赦免されて当主に復帰したものの、弘治元年(1555年)に再び今川氏に対して挙兵(三河忿劇)をしたために弘治3年(1557年)になって三河を追われ、その結果として義昭が両吉良氏の当主になったとする説もある。
 しかし、永禄3年5月19日(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討たれると、三河における今川氏の支配力が減退し、義昭は後援を失った形となった。しかも、これに乗じた松平元康は今川氏から独立し、吉良氏をしばしば攻めるようになった。度重なる戦の末、ついに永禄4年(1561年)には松平氏への降伏を余儀なくされ、その後は岡崎へ移住させられていた。
 永禄6年(1563年)、西三河に三河一向一揆が勃発。これを再起反攻の機ととらえると三河一向宗と同盟を結び、再び家康との決戦に臨んだ(一向一揆とは無関係とする説もある)。しかし力及ばず、東条城は落城させられ、義昭は三河からの撤退を余儀なくされた(実際は、しばらくの間、そのまま在国していたが、生活に窮し出国したらしい)。その後、近江国に逃れ、最後は摂津国芥川で死去したといわれる。

一色有義 吉良尊義

 吉良氏の一族で、三河国幡豆郡吉良荘内一色郷を領したことから「一色殿」と呼ばれた。有義以前、一色の地は足利泰氏の子である一色公深及びその子頼行が本貫の地としていたが、早い段階で関東へ移り住み、吉良氏が領することになった。赤羽根城に居住したと伝わる。
 元弘の乱から中先代の乱を経て南北朝分裂、観応の擾乱にいたるまで父満義、兄満貞と行動を共にしたと見られるが、名前が記録に見出せず『太平記』などの軍記物語にも登場しないため詳細は不明である。
 正平11年(1356年)に父満義が没すると、その菩提を弔うため、翌年、一色の地に安休寺を創建した。
 弘和3年4月8日(1383年5月18日)没。法名は真西。積善寺殿と号した。
 有義の子孫については系図が残っておらず詳細は不明である。西尾市岩瀬文庫所蔵の『西尾草創伝』に「一色村ニ宗北ト云者ノ屋敷跡アリ」とあり、この宗北が赤羽根城主一色有義の直系の子孫であると書かれている。

 奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)の吉良貞家・満家父子が陸奥国に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏領となり、吉良満義が東条城を接収した。その後、尊義が生まれるが、間もなく観応の擾乱が勃発し、父・満義と長兄・満貞は足利直義派として各地を転戦、直義の死後はその養子・直冬や南朝と結んで尊氏に敵対した。
 正平11年/延文元年(1356年)に満義が没すると、東条の被官層は9歳の尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏として独立する。これを押領とする満貞との間で合戦に及ぶが、その後、満貞の北朝帰順もあり、和談が成立、尊義は正式に東条相続を認められる。しかし、尊義独立の際の争いは禍根を残し、室町時代を通じて西条・東条両吉良氏は対立・抗争を繰り返すこととなった。
 正平23年/貞治7年/応安元年(1368年)、東福寺において父・満義の十三回忌法要を盛大に営んでいる。

荒川義広
 東条城主・吉良持清の次男として誕生した。後期東条吉良(下吉良)氏の家督は兄・持広が継いだため、義広は別家荒川家を興した。永禄4年(1561年)、徳川家康による東条城主・吉良義昭攻めに協力し、その軍功により市場姫を娶ることになったとされるが、永禄6年の三河一向一揆の際は、吉良義昭と共に一向衆に与して徳川軍と戦った。一揆軍は敗北したため、吉良義昭は近江国へ、義広は河内国へ亡命を余儀なくされた。その後の消息については、河内国において病死したされる。また一説に八面城を放棄した後、吉良荘寄近村に蟄居し、永禄9年(1566年)9月22日に死去したとの「三州本願寺宗一揆兵乱記」の記事があるという。