<藤原氏>北家 良門流

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井伊共保 井伊行直

 寛弘7年(1010年)正月元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく聡明であったという(諸説あり)。7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江国司・藤原共資の養子となり、藤原共保と称し共資の一女と婚した。
 1032年(長元5年)家督を継ぐと故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称した(諸説あり)。
 1093年、84歳で没し、八幡山地蔵寺(現:龍潭寺)に葬られた。
 また別説として、延喜年間(901~922年)に奈良より荘司として着任した三宅好用が井伊谷に居を構え、それより3代目の井端谷篤茂の娘が共資に嫁し、共保はその実子として生誕したとも伝えられる(三宅氏の家紋は井伊氏と同じ橘)。

 南北朝時代、後醍醐天皇と信頼が深い西園寺公重が遠江国浜松荘の領家職であることや、都田御厨が南朝の公卿である洞院実世の支配地であり、全体的に南朝側の荘園,御厨が多数見られ、伊勢神宮との関わりが深いこともあり、行直は南朝側につく。このような土地に注目した後醍醐天皇が、足場を築くため、息子である尊澄法親王をその土地に送り込んだ。建武4年/延元2年(1337年)春には尊澄法親王が還俗、宗良親王となる。
 建武4年/延元2年(1337年)7月4日に、井伊谷南部の三方ケ原にて三和光継,松井助宗,横地治部丞,朝夷彦五郎を従えた北朝側の武将・今川範国と戦う。行直はこの戦いで敗れたと見られる。しかし、同年7月6日、今川範国により井伊氏の主要な城・三岳城を攻められたが、今川軍を撤退させた。今川軍を撤退させた直後に、宗良親王が三岳城に入城する。宗良親王を受け入れた行直は、本拠地の三岳城の防衛を強固にし、取り巻くように大平城千頭ヶ峯城鴨江城,天山城をそれぞれ東西南北に設けた。
 一方で、暦応2年/延元4年(1339年)7月22日、北朝側の高師泰が、攻め込むために大平城へ進んでいき、行直はかろうじて維持できたものの、7月26日、鴨江城は高師兼に攻落された。その直後に後醍醐天皇は崩御し、南朝側は不利になっていく。同年10月31日、千頭ヶ峯城が落とされ、翌暦応3年/延元5年(1340年)1月30日、三岳城が落ち、同年8月24日には、大平城が仁木義長により落城。行直は降伏する。

井伊直時 日蓮
 井伊氏8代・泰直の子である直助が上野左衛門次郎を名乗って分家し渋川井伊家の始祖となる。直助,直貞,直秀,直幸と続き、井伊谷の本家井伊氏に匹敵する力を持っていたと推測される(渋川井伊氏を本家とする見方もある)。しかし、永正年間(1504~21年)に起きた遠江守護をめぐる斯波氏と今川氏の争いで、渋川井伊氏は斯波方に付いて敗れたことで、一族は離散したとされる。

 鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。
 父・重忠は井伊氏の流れを汲む貫名氏で遠江国衙の在庁官人(武士)であったが、反幕府側となり安房国長狭郡東条郷片海に配流となった。
日蓮はここで生まれ、東条郷の清澄寺で初等教育を受けている。
 文応元年(1260年)7月16日に『立正安国論』を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅びると予言した。
 他宗を激しく批判・口撃し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった極楽寺良観により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口の咎」により、1271年に佐渡へ流罪となった。1274年に佐渡流罪を赦免され、一度、鎌倉に戻った後に山梨県の身延山に移った。
 1281年の元寇に日本側が勝利し、日本が滅びるという日蓮の予言は外れ、1282年10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈された。

 

詳細は、Wikipedia(日蓮)を参照