<藤原氏>北家 高藤流

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上杉憲顕 上杉憲将

 早くから尊氏に仕え、関東廂番に任ぜられた。建武2年(1335年)に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属した。
 建武3年(1336年)1月、父・憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家,新田義貞と戦って戦死、弟の憲藤も延元3年/暦応元年(1338年)に摂津で顕家と戦って戦死したため、父の跡を継ぐところとなった(山内上杉家)。上杉氏は元々公家であったが、武家の足利氏と結び付いて関東の新興勢力となり、従兄弟の上杉重能(宅間上杉家)や上杉朝定(二橋上杉家、後の扇谷上杉家)、弟の憲藤(犬懸上杉家)などを祖とする上杉諸家が足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力抗争を展開することとなる。
 尊氏の命により、憲顕は戦死した憲藤の後任として鎌倉府(足利義詮が首長)の執事に任じられる。同じく斯波家長の後任として執事に命ぜられた高師冬が常陸の南朝勢と戦ったのに対し、興国2年/暦応4年(1341年)に守護国となった越後には憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力した。正平4年/貞和5年(1349年)、観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から用途に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となって京都から鎌倉に下向した。
 憲顕は師冬と共に基氏を補佐するが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗することとなり、子の能憲と共に尊氏に敵対し、正平6年/観応2年(1351年)には鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取し、次いで甲斐に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ自害に追い込んだ。更に直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後守護職を剥奪された。翌正平7年/文和元年(1352年)、直義が死去して観応の擾乱は終結するが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃に追放された。この時、剃髪して道昌と号している。
 しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮及び鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を密かに越後守護に再任し、正平17年/貞治2年(1362年)には関東管領・畠山国清を罷免しこれに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとした。この動きを知った上野・越後守護代の芳賀禅可(宇都宮氏綱の重臣)は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとするが、逆に武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退、これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けるが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止された。こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって代々の東国武家の畠山国清及び宇都宮氏綱が務めていた関東管領職および越後・上野守護職は公式に剥奪され、新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなった(関東の政変)。
 正平22年/貞治6年(1367年)に基氏が死去、翌正平23年/応安元年(1368年) 、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対しては政治工作で対抗、関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して河越に出陣し鎮圧するのを助けた。これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなった。引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たったが、老齢のために9月19日、足利の陣中にて死去した。墓所は伊豆の国市の国清寺。
  関東管領は朝房と能憲が就任、氏満の補佐を務めた。息子のうち、能憲は宅間上杉家に入り、憲方は山内上杉家を相続、憲英は深谷上杉家、憲栄は越後上杉家の祖となり、憲顕の子孫も関東に土着した。

 憲顕の嫡子。興国3年/康永元年(1342年)、上杉清子死去の際は、越後守護として南朝方と戦い、越後を離れられない父の代理として弔使を勤めた。足利尊氏・直義兄弟の争い(観応の擾乱)では直義方として活躍、直義方が南朝と和睦すると、正平5年/観応元年(1350年)には越後に入り、北朝方と戦っている。正平6年/観応2年(1351年)1月には高師冬討伐のため甲斐へ発向し、師冬を討ち果たした。その後は上洛し直義方に合流している。
 直義と尊氏の講和成立後、一旦鎌倉に戻ったが、直義は憲将に属した将兵の恩賞に、関東分国の闕所を宛てるよう憲顕に命じている。正平6年/観応2年9月の上杉憲将遵行書より、高師冬にかわり関東の実力者となった父のもと、武蔵守護あるいは代官として父の守護任国である武蔵守護代に在職したとされる。講和破綻後の同年12月、駿河由比(薩捶山)で関東に進軍する尊氏軍と戦い敗北した。
 薩捶山合戦の敗北以後、越後・上野守護職を罷免された父と共に潜伏していたと思われるが、正平10年/文和4年(1355年)、宇佐美氏一族と共に越後佐味庄顕法寺城で挙兵した。しかし、尊氏方の村山隆直,風間長頼らの侵攻を受け顕法寺城を放棄し、ついで立て篭もった柿崎城も落ち、宇佐美氏・柿崎氏らを傘下に収めるなど、父の守護時代から勢力を広げていた国府周辺地域も、一旦は足利方の新守護の宇都宮氏の勢力下に入った。その後、憲将らはただちに信濃に転戦し、小笠原高基と戦っている。正平11年/延文元年(1356年)には信濃高井郡での戦いも記録されている。
 正平13年/延文3年(1358年)の尊氏死去後、正平16年/康安元年(1361年)の畠山国清失脚を受けて、父は越後守護,上野守護,関東管領に復職し、上杉家の越後・関東における基盤が築かれることとなった。 従弟で犬懸上杉家の上杉朝房に代わり、越後守護領を差配したと推測されているが、父に先立ち正平21年/貞治5年(1366年)に死去した。 

上杉憲春 上杉憲英

 正平23年/応安元年(1368年)、兄・能憲と共に新田義宗,脇屋義治らの反乱鎮圧に出陣して功を挙げた。若い頃から鎌倉公方・足利基氏及びその子・氏満に近侍しており、建徳2年/応安4年(1371年)には上野守護に任じられた。上野は山内上杉家の本拠であり、本来であれば、その守護職は同家の嫡流とされてきた能憲及びその養子・憲方が就くべき地位であったことから、一族内に動揺が走った。能憲が晩年に作成した譲状の中でも憲春に対して憲方に守護職を譲るように迫る文言が含まれている。なお、天授3年/永和3年(1377年)には憲春は武蔵の守護にも任ぜられている。
 同年には関東管領に任じられたとされているが、翌天授4年/永和4年(1378年)就任とする説がある。文書類において憲春の管領就任を裏付けることができるのは、天授4年/永和4年に関東管領であった兄・能憲の死後のものに限られる。
 天授5年/康暦元年(1379年)春、京都で管領・細川頼之が辣腕を振るっていたことに対して斯波義将や土岐頼康らが3代将軍・足利義満に対して頼之の解任を求める康暦の政変が起こると、氏満は将軍職への野心を燃やして上洛して義満を討とうとした。これに対して憲春は懸命に氏満を諌めたが、氏満は憲春の諫言を無視して京都に攻め入ろうとしたため、憲春は同年3月7日、諌書を遺して鎌倉の自邸で諌死して果てた。この憲春の命をかけての諌死が奏功し、氏満は京都へ攻め入る計画を中止した。だが、この諌死は必ずしも美談として捉えることはできない。山内上杉家の嫡流ではない憲春は、氏満からの信頼と室町幕府が補任権を持つ関東管領の地位によって、辛うじて自己の政治的地位を支えている状態であった。氏満の上洛の企ては、憲春の政治的地位を破綻させるに十分であった。更に上洛計画が幕府側に発覚した場合には、氏満に代わって責任を取る者が必要であった(実際に既に義満と通じていた憲方は、氏満の命令で京都に向けて出兵したにもかかわらず、途中で義満から関東管領就任の御内書を得て鎌倉に帰還している)。こうした状況下で憲春に選べる選択肢は、自らの命を絶つことしかなくなっていたと考えられる。 

 康応年間、現在の深谷市近郊に庁鼻和城を建てて庁鼻和上杉家を名乗る。後に子孫の上杉房憲が深谷城を立てて深谷上杉家を名乗る。戦国時代中期には北条氏に降り、氏憲の代には所領を失う。 
上杉憲長 上杉憲盛

 応永23年(1420年)の上杉禅秀の乱では父と共に関東管領・上杉憲基を助けて上杉禅秀軍と戦う。その際、10月6日に父と共に鎌倉で戦死したとする系譜があり、通説では庁鼻和上杉家(深谷上杉家)の歴代当主には数えられないが、憲基に従って伊豆国・越後国へと逃れ、後に庁鼻和城に憲基を迎え入れたという説がある。また、深谷にあった福正寺は、応永28年(1425年)に「城主・上杉蔵人憲長」によって創建されたと伝えられ、憲長は生き延びて家督を継いでいだ可能性が高い。
 ただし、その後間もなく亡くなったのか、永享年間には弟の憲信が当主となり、憲長の子孫が家督を継ぐことは無かった。その後、発生した享徳の乱で古河公方・足利成氏と上杉氏が戦った際に、初期の分倍河原の戦いでは憲長の子である憲武・憲視兄弟は憲信に従って出陣したものの敗れて山内上杉家の長尾景仲と共に戦場を離脱して騎西城に入ったとされる。ところが、その後になって古河公方軍の一員として活躍した庁鼻和上杉家の「上杉四郎」という人物の存在が記録されている。この人物を憲長の子孫に比定して、上杉軍の一員である憲信の子孫に対抗するために成氏に味方したとする説もある。
 憲光・憲長期の庁鼻和上杉家については記録が少なく、詳細は不明であるものの、憲光の後に憲長の系統と憲信の系統に分かれ、後に嫡男である憲長の系統に代わって弟である憲信の系統が嫡流化したと考えられている。 

 山内上杉家の上杉憲政が上野国を追われると、関東管領としての上杉氏の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、岡谷清英や秋元景朝ら重臣の活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に降伏した。永禄3年(1560年)、父の死とともに憲盛が家督を継いだ。
 父臨終の間際、憲賢危篤の報を手に入れた由良成繁は、およそ300騎を率いて深谷家の領内に侵入した。憲盛の軍は急なことだったため120騎しか集められず敗退、家督相続間際に北部の領土を一部失った。
 後に、山内上杉氏の家督を継いだ上杉政虎(謙信)が大軍を率いて関東侵攻を始めると同族の誼でこれに寝返るが、北条氏が勢力を回復すると永禄6年(1563年)には再度北条氏に降る。この時、謙信の命を受けた成田氏長が憲盛の深谷城を攻撃している。後に氏長が北条氏に降伏すると、娘を氏長の弟・成田長忠に嫁がせて和解した。憲盛が北条家に降伏したことは謙信の関東撤退に繋がった。
 ところが、1569年(永禄12年)の越相同盟の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ったために謙信に属す。同年には武田氏の侵攻に備えた北条氏邦から援兵を求められる。この時は実際に援軍を派遣したかどうかはわかっていない。のちに、同盟破綻後にも北条氏側に復帰しなかったために北条氏、更に上杉氏と対立していた甲斐武田氏までが深谷に侵攻するが、なんとか防戦する。憲盛は死の直前まで上杉氏の配下として行動しており、深谷上杉家の北条方への帰属は憲盛が死んで、親北条である氏憲が家督を継いだことによる路線変更によるものと考えられている。
 憲盛の子孫としては、嫡男・上杉憲俊が平福藩に仕え、2男・深谷吉次の子孫は旗本となり、真田幸定の舅である深谷盛定、江戸時代後期に大目付・勘定奉行などを務めた深谷盛房らがでている。

久保田氏憲 上杉憲方

 深谷上杉家8代当主。後北条氏の家臣。武蔵国深谷城主。長尾景仲の仍孫に当たる。
 上杉憲盛の子として誕生した。天正3年(1575年)、父の憲盛の死を受けて家督を継いだ。天正6年(1578年)に北条氏政の養女(北条氏繁娘)を正室に迎え、氏政の猶子となった。この時、氏政の「氏」の字を貰って氏憲と称した。その後、北条氏邦の傘下として各地を転戦した。
 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、諸侯と同じく召集を受け小田原城に立て籠もった。留守の深谷城は家臣の秋元長朝,杉田因幡守らが守備したが、主力は小田原城に詰めていたため寡兵であり、秋元らの判断により開城し降伏した。
 その後は久保田と姓を改め、信濃国更級郡にて隠居した。 

 天授2年/永和2年(1376年)に病床にあった兄・能憲から所帯等を譲られ、天授4年/永和4年(1378年)4月の能憲の死の直前には憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られた。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方だった。
 約1年後の天授5年/康暦元年(1379年)3月7日、憲春が自害した。康暦の政変に乗じて攻め上がろうとする鎌倉公方・足利氏満に対する諌死だったという。同年3月21日頃に憲方は関東軍の大将として派遣されたが、上洛はせずに伊豆三島に留まった。4月15日に関東管領に任じられ、28日には鎌倉へ戻った。5月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵された。
 弘和2年/永徳2年(1382年)1月に管領職から退いたが、6月に再任されている。武将としての器量に優れ、氏満を補佐しながら小山義政・若犬丸父子の反乱鎮圧に功を挙げた(小山氏の乱)。それらの功績により上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を与えられている。
 元中9年/明徳3年(1392年)4月22日、老齢と病身を理由に管領職から退いた。ただし、その後も引き続き関東管領として在職していたとする説もある。応永元年(1394年)10月24日に死去。享年60。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院。 

上杉房方 上杉頼方

 天授4年/永和4年(1378年)、叔父で先代の越後守護・上杉憲栄が引退した後、守護代の長尾高景に推されて天授6年/康暦2年(1380年)、越後守護となった。長尾氏の補佐を受けて上杉禅秀の乱においては一軍を率いて鎌倉公方・足利持氏と甥の関東管領・上杉憲基に加勢、上杉禅秀を討伐するなど活躍した。
 応永28年(1421年)11月10日に死去。嫡男の朝方(房方と朝方が同一人物である可能性も高い)が継いだが、朝方もまもなく死去し、孫で朝方の子の房朝が継承し、次男の頼方と長尾邦景(高景の嫡男)が補佐・後見した。 

 子に山吉正盛室。幼名は七郎。上杉氏分家の山浦上杉家を継いだが、始祖・上杉憲重(叔父)の養子かどうかは不明。
 応永28年(1421年)に父・房方が没し、翌年には跡を継いだ兄の朝方も亡くなったため、頼方は甥の房朝の後見人として越後守護を継承した。
 しかし、この時期室町幕府と鎌倉公方・足利持氏の関係は最悪であり、頼方は弟の憲実が関東管領であることから鎌倉派ではないかと疑われた。応永30年(1423年)10月にようやく幕府から赦免された頼方は、越後の上杉頼藤,中条房資に指令を送り、鎌倉派の守護代・長尾邦景を討つよう命じた(越後応永の大乱)。
 ところが、討伐を命じられた越後国人の足並みは乱れており、邦景の裏工作で簡単に寝返る始末であり、なかなか事が収まらずにいるうちに応永31年(1424年)には幕府と鎌倉公方が和睦、12月には房朝を畠山満家に奪い取られ、大義名分と実権を失った。
 応永33年(1426年)には邦景派の逆襲を退けるもこれが限界であり、まもなく頼方は守護を罷免され、房朝に改められ、邦景も赦免された。以降の消息は不明である。 

上杉房朝 上杉定昌

 応永28年(1421年)に祖父の房方が死去し、次いで応永29年(1422年)10月に父・朝方が死去すると、幸龍丸(房朝)の叔父の頼方は幸龍丸が幼少であることを名目に越後守護となった。頼方は守護代の長尾氏と対立し応永の大乱とよばれる戦いを招いたが戦果は思わしくなく、さらに追い打ちをかけるように応永31年(1424年)12月に管領・畠山満家が「上杉の惣領として取り立てる」として、頼方の館から房朝を奪い取るという事件が起こった。この後、房朝と家臣らは頼方と対立する長尾邦景と結びついていった。やがて応永の乱は頼方の敗北に終わり、頼方は没落、房朝が正式に越後守護となった。
 しかし、邦景はその後も守護の存在を半ば無視して室町幕府との関係を維持し、幕府も邦景への国政委任を容認していた。ところが、鎌倉府の滅亡と6代将軍・足利義教の死によって状況は一転し、邦景に専断されていた越後支配に房朝も大きくかかわるようになった。叔父・憲実も房朝へ次男・龍春の保護を頼み、文安3年(1446年)には自ら現地に下り佐橋刑部少輔を退治するなど守護としての力を誇示するまでになったが、宝徳元年(1449年)2月27日、京都の館で急死した。享年29。跡を従弟の房定が継いだ。
 なお、文安4年(1447年)には万寿王丸(後の足利成氏)の関東帰還が実現した。これは房朝がその役割を果たしたと見るべきという説がある。


 宝徳2年(1453年)、越後守護・上杉房定の長男として生まれる。元服した時期は不明だが、初めは定方と名乗った。享徳3年(1454年)に享徳の乱が勃発してから、父・房定は何度も関東へ出陣していた。文正元年(1466年)に1歳年下の弟・顕定は山内上杉家の家督を継ぎ、定方も文明3年(1471年)頃には関東の軍事を任されるようになった。文明6年(1474年)4月までに名乗りを定昌と改めるが、「昌」の字は上杉朝昌の偏諱であり、房定が同時期の扇谷上杉の後継選びに介入しようとしていたと推測されている。その後も五十子に在陣していたが、文明8年(1476年)に長尾景春の乱が勃発し、翌9年正月に景春の攻撃で陣が崩壊すると上野国白井へと引いた。以後は白井城に駐在するようになる。文明18年(1486年)には房定の官途である民部大輔を譲り受け、翌年には家督を譲られた。
 その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いである長享の乱が起こると定昌は勧農城を攻撃するなど山内上杉顕定を支援していたが、長享2年(1488年)3月24日に白井で従者共々自害した。享年36。原因について上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしその与党によって襲撃されたとする説がある。
 父の房定と同様に音に聞こえた風流人であり、文化人らとの交流も厚かった。訃報に触れた連歌師の宗祇は定昌のことを「無双の仁慈博愛の武士」であったと三条西実隆に語っている。

上杉房能 上杉定実

 長兄の定昌は早世し、次兄の顕定が山内上杉家の養子となって関東管領となったため、明応3年(1494年)に病没した父の跡をついで越後の守護となる。守護代の長尾能景の補佐を受けるが、越後上杉家の戦国大名化を目指して明応7年(1498年)に守護不入特権の停止を命じるなど、在地領主の特権の制約を図ったために能景らと対立する。
 それでもなお守護代としては忠実であった能景が永正3年(1506年)、越中国において一向一揆のために戦死すると、能景の子で跡を継いだ長尾為景は、房能の養子の定実を擁し房能に公然と反旗を翻す(越中において包囲された能景を房能が見捨て、その事を恨んでいたという説もある)。翌永正4年(1507年)、定実・為景の軍勢に拠点を急襲され、顕定を頼り関東へ向かった。しかし、逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが、為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、8月7日に天水越で自刃した(永正の乱)。十日町市松之山天水越に房能を弔った管領塚が存在する。


 上条上杉家に生まれ、文亀3年(1503年)6月に越後国守護・上杉房能の娘を正室に迎えて、その婿となる。ただ、史料が乏しく実際に養子となったかは不明。もし定実の父が房実なら、上杉房能は従弟であることになる(房能の父は上杉房定であり、房実は房定の弟にあたる)。
 永正4年(1507年)8月、越後国守護代・長尾為景に担がれて房能を倒すと、永正5年(1508年)11月6日に正式に守護となる。ただ、実質的には為景の傀儡に過ぎず、その際に為景の妹を娶ったとされる。
 この当主交代の報復のため、房能の実兄で関東管領・上杉顕定が侵攻すると、永正6年(1509年)に長尾為景と共に越中国へ敗走する。永正7年(1510年)、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、4月20日に定実と為景の軍勢は越中から佐渡国を経由して蒲原津に上陸する。佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し、越後各地で顕定方の軍勢を破り、長森原の戦いで顕定を敗死させた。
 定実は次第に為景の傀儡であることに不満を抱き、永正10年(1513年)、守護家家臣筋の宇佐美房忠・定満父子や実家上条氏の上条定憲,揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。その後も、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し、天文5年(1536年)8月3日に為景を隠居に追い込んだが、定実が実権を握るまではできなかった。
 天文7年(1538年)頃、定実に伊達稙宗の子である時宗丸を養子にとの話が持ち上がるが、結果的には伊達氏における内訌(天文の乱)が発生したため縁組は中止された。
 天文年間末期には黒田秀忠の反乱も起きて越後は動揺するが、これを長尾晴景の弟・長尾景虎(後の上杉謙信)が鎮圧したことで、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。天文17年(1548年)、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した。なお、定実は単なる仲介者ではなく、対立した晴景を排除するために景虎擁立を画策した中心人物の1人とする見方もある。
 晩年は出家して玄清と名乗り、天文19年(1550年)に病死。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した。

上杉清方 上杉定憲

 越後守護職は兄の朝方・頼方が継承し、三兄の憲実は山内上杉家を継承し関東管領となっていたため、清方は刈羽郡鵜川庄上条の地を領して分家し、上条上杉家を興した。憲実と異なり、鎌倉公方・足利持氏に信頼されていたといわれる。
 持氏が自刃し、鎌倉公方が滅亡した永享の乱の後、引退した憲実に代わって関東管領代行を務めた。結城合戦の際には上杉持朝や上杉持房,上杉教朝らと共に軍勢を率いて活躍し、結城氏朝ら持氏派の残党を討ち取り、持氏の遺児の春王丸・安王丸らを捕縛し京に護送した(捕縛の功を挙げたのは越後守護代の長尾実景)。
 それから間もなく死去した。死因については不明だが、越中において自刃したという説がある。清方が元々鎌倉府寄りで、持氏から恩を受けた人物であったことから、その子を死に追いやった自責の念によるものと推測されている。

 越後上杉氏の一族である上条上杉氏当主で上条城城主。別名は憲定、定兼。上杉房実の子(あるいは孫、上杉顕定の子とする説もある)。
 守護上杉氏に対し下克上した長尾氏に対し反抗的で、永正6年(1509年)の上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した(このときはのちに寝返って顕定を敗死に追いやったとされる)。
 永正10年(1513年)9月に宇佐美房忠が小野城で挙兵し、上杉定実ら守護方と為景のあいだで抗争が勃発すると定憲も定実に応じて挙兵した。しかし10月下旬には定実は為景によって幽閉されてしまい、翌11年正月の上田荘六日市の合戦でも守護方が大敗。同年5月には房忠も岩手城で自害に追い込まれ、定憲自身は目立った動きに出ることができないまま抗争は終結した。
 この後しばらく越後国内の政情は小康状態が続くが、享禄3年(1530年)に定憲と為景のあいだで抗争が勃発した。為景はこの原因を大熊政秀が定憲と為景のあいだを色々と「申し妨げた」ためと釈明している。しかし幕府を後楯にしていた為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、将軍・足利義晴の手引もあり翌年には収束した。
 しかし、享禄4年(1531年)6月に為景が後楯としていた幕府の有力者・細川高国が政変(大物崩れ)に敗れ自刃し、天文2年(1533年)9月には両者間で「再乱」が生じる。このとき定憲は、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏や出羽砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強め、天文5年(1536年)8月に為景を隠居に追い込んだ。
 その後の動向は不明であるが、諸系図では甥(または弟)に上条定明・上条頼房らの名前がみえる。また、定兼を定憲の弟に置く系図も見られる。

上杉政繁 畠山義春

 一説に上条上杉家の一族で越後守護・上杉定実の舎弟といわれる。八条上杉家の上杉定実の子として誕生。なお、政繁を能登畠山氏出身とする説もある。
 上条上杉家は長尾為景と敵対して没落していたが、元亀2年(1571年)、為景の子・上杉謙信の代に廃絶していた上条上杉家の家督を政繁が相続したものと見られる。上杉憲政の偏諱を受けて政繁、天正初年間頃までには入道して宜順と号した。
 謙信に仕えて上野国や越中国に転戦した。天正3年(1575年)の『天正三年上杉家軍役帳』によると96人の軍役を負担し、上杉家一門の第四位に列したという。天正5年(1577年)に能登国守護・畠山氏の七尾城を攻めた際には、謙信の命で畠山氏(畠山義続か)の遺児(後の義春)を養嗣子とした。ただし、義春を養父にしたのは謙信で、後日改めて政繁と養子縁組が行われたとする説もある(政繁と義春の養子縁組が行われたのは謙信没後の可能性もある)。
 謙信の死後、御館の乱では上杉景勝に味方して、戦後もそのまま景勝に従い、重臣として遇された。天正9年(1581年)、越中松倉城の河田長親が没したために、後継として同城に入る。天正12年(1584年)羽柴秀吉に人質を送ることになると、当時景勝に実子がいなかったため、孫(義春の子)の義真を景勝の養子として送ることとなり、軍役を免除されることとなった。同年、信濃国海津城の山浦景国が失脚すると、その後任として海津城に入るが、翌天正13年(1585年)には須田満親に代わられたため、景勝と対立するようになり、天正14年(1586年)上杉家を出奔して秀吉の下に依り、河内国高安郡津田・保谷500石を与えられる。以後、養子の義春の事跡となるため、間もなく没したものと思われる。出奔の理由については、景勝と信濃統治などをめぐる対立があったとされるほか、景勝の側近として頭角を現していた直江兼続による讒言説、さらに当時上杉氏に叛旗を翻していた新発田重家と親しい仲にあったなどの諸説がある。
 ただ、異説もある。文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川方との内通を疑われた片桐且元の大坂城退去に伴って退城し、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では徳川方に属した。戦後は江戸幕府に仕える。寛永20年(1643年)死去。後に上杉氏とは和解し、義春の次男の長員が旗本として高家となり、同じく旗本となった宅間上杉家や深谷上杉家よりも高禄であった。



 天正5年(1577年)に七尾城が上杉輝虎(上杉謙信)に落とされると、一旦上杉一門の上条政繁の許へ預けられた後に謙信の養子となった。その後、上条政繁に子がなかったため、改めてその養子となる。畠山氏は足利氏一門の名門で、足利氏の外戚である上杉家との血縁も有し、家格も充分であった。
 成人後は越中国・能登国前線に配置され、後に養父に従って信濃国海津城に入城する。天正12年(1584年)、長男・景広を人質として豊臣家へ送られることが決まると、証人として義春も上洛した。その際に代償として軍役と領内の諸役を免除されている。
 天正14年(1586年)、政繁が上杉家を出奔し、のちに義春自身も天正16年(1588年)頃に出奔した。これに激怒した景勝は、実妹(姉とも)である義春夫人とその子供たち全員を捕縛し、10年近くもの間、座敷牢に幽閉したとの説もあるというが、『上杉家御年譜』では長男・景広と次男・上杉長員は父と行動を共にし、3男・義真のみ越後国にとどまるも、ほどなく父の許に赴くとある。
 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の直臣となり、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、対上杉守備隊に属した。義春自身への加増はなく1500石のままだったが、次男の上杉長員が翌年の慶長6年(1601年)に1490石を与えられている。その後は大坂城の豊臣秀頼に仕えたが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川方との内通を疑われた片桐且元の大坂城退去に伴って退城し、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では徳川方に属した。戦後は江戸幕府に仕え、家康の命で畠山姓に復して江戸に住した。後に上杉氏とは和解している。
 寛永20年(1643年)、京において死去した。死の直前に大徳寺152世・藍渓宗瑛によって書かれた「畠山氏入道寿影賛 寛永廿癸未」には、「能州太守畠山氏後裔源義明(中略)齢九十五」と記されており、義春の(少なくても最晩年の)実名は義明が正しく、95歳で没する直前に寿像を描かせたことになる。
 長男の景広は畠山氏を名乗り、和解した上杉家の米沢藩の重臣となったとされる。3男の義真は能登畠山氏を名乗り幕臣3120石として大身旗本となり、子の代から高家となった。
 次男の長員は上条上杉家の名跡を継いで、子の代から同じく高家旗本となった。4男の義広は小山田義広と名乗り、紀州藩徳川頼宣の家臣となった。 

上杉憲栄 上杉憲定

 正平23年/応安元年(1368年)、父・上杉憲顕が没した跡を受けて越後守護となり、在京して幕府のために働いた。一時上杉朝房の猶子となっていたともいう。
 天授4年/永和4年(1378年)に出家して遁世し、但馬で月庵宗光に学び、山内家の所領であった伊豆大見郷八幡に隠棲し如意輪寺を創建する。康暦2年(1380年)には、甲斐の向嶽寺において父の13回忌を営む。応永29年(1422年)10月26日に如意輪寺で没した。越後守護の後継は守護代・長尾高景の尽力により甥の上杉房方が継いでいる。 

 応永元年(1394年)、父の死により家督を継ぐ。応永6年(1399年)、応永の乱が勃発し、大内義弘に呼応しようとした鎌倉公方・足利満兼を押し止める一方、今川泰範と共に泰範の叔父・了俊の助命嘆願をしている。応永12年(1405年)、関東管領となって満兼とその子・持氏を補佐した。憲方は満兼時代から既に破綻をきたしていた室町幕府との関係改善に努めたが、応永17年(1410年)に持氏の叔父・満隆の謀反騒動が起こり、翌応永18年(1411年)に管領職を上杉氏憲(禅秀)に譲っている。この騒動は反憲定派が満隆と結びついたためとされている。応永19年12月18日(1413年1月20日)、38歳で死去し、跡を長男の憲基が継いだ。 
上杉憲実 上杉憲忠

 関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで名高い人物である。応永17年(1410年)、越後で生まれる。応永24年(1417年)、前年からの鎌倉での上杉禅秀の乱が収束し、翌25年(1418年)には従弟の関東管領・上杉憲基(山内上杉家)の養子となり鎌倉へ下る。上野・武蔵・伊豆の守護となる。応永30年(1423年)6月~8月には、小栗満重の乱を起こした常陸の小栗氏征伐に出陣し、小栗城を攻め落としている。
 応永35年(1428年)、4代将軍・足利義持が没し、籤引きで足利義教が6代将軍に就任した。憲実の主君の鎌倉公方・足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかったことに不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実はこれを諫止する。その後も憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めている。幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が見られ、義教への対抗姿勢を続ける持氏と穏健派の憲実は確執が生じるようになっていたと考えられている。
 永享8年(1436年)、幕府の分国である信濃守護・小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、持氏は鎌倉に支援を求めた頼清を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原政康が勝利する。翌9年(1437年)に持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は相模藤沢へ下り、7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任し、確執は解消されないままとなる。
 永享10年(1438年)、6月に持氏の嫡子・賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して『八幡太郎』の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している。
 持氏に嫌疑をもたれたことに対し、不本意として自害を試みたが制止させられた後に、難を逃れるために8月には鎌倉を出奔して領国の上野平井城に下る。持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。幕府は関東での事態に対して、持氏討伐の兵を下す。
 10月、憲実は武蔵分倍河原に着陣し、先鋒の一色・小笠原軍を破る。憲実自身は旧主を攻めることをよしとせず、自らの軍の兵を進めることはなかったが、鎌倉軍は幕府軍に敗れ持氏は出家して永安寺に入った。憲実は幕府に持氏の助命と義久の関東公方就任を再三再四嘆願するが、義教はこれを許さず憲実に持氏を殺すよう命じ、憲実が持氏・義久父子の成敗を固辞している姿勢を、逆に持氏の翻意に荷担していると嫌疑がかけられたため、永享11年(1439年)、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した(永享の乱)。
 乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。永享12年(1440年)、結城氏朝が持氏の遺児・春王丸,安王丸を擁して挙兵する(結城合戦)。幕府は憲実に政界復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。その後、憲実は再び隠遁した。
 嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒み、甥の越後守護・上杉房朝に預けていた次男・房顕を除く子供達も出家させる。憲実は子供達に決して還俗せぬよう命じた。しかし、文安4年(1447年)、持氏の遺児・成氏が鎌倉公方になると、憲実の長男・憲忠が長尾景仲に擁立され還俗して関東管領に就任した。憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は享徳3年(1454年)に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまう。
 この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都・九州にまで赴いたとされる。享徳元年(1452年)には大内氏を頼って留まり、文正元年(1466年)、長門大寧寺で死去。享年57。 

 関東管領に就任するが、鎌倉公方・足利成氏に暗殺されて享徳の乱のきっかけを作った。
 永享11年(1439年)、父の憲実が永享の乱でかつての主君・足利持氏を滅ぼしたことに対しての自責の念にかられて出家したとき、共に出家した。このため山内上杉氏が当主不在となったため、家宰の長尾景仲が困り果てて文安3年(1446年)、憲実に復帰を要請した。憲実は先に京都に出仕していた次男の房顕を復帰させようとしたが、このとき長男の竜忠が還俗して憲忠と名乗り、山内上杉氏の家督を継いだ。房顕以外の息子は全て僧侶とするつもりであった憲実はこれに激怒して、憲忠を義絶している。しかし、景仲らが憲忠の家督を支持したため、文安5年(1448年)11月には関東管領に就任するに至る。
 ところが、宝徳元年(1449年)、持氏の遺児である足利成氏(永寿王)が鎌倉公方として復帰する。成氏は永享の乱で父を殺された経緯から憲実とその息子を激しく恨んでおり、憲忠とは犬猿の仲にあった。このため宝徳2年(1450年)、長尾景仲は上杉持朝と共謀して成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう。憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模七沢に蟄居を余儀なくされた。
 その後、成氏に罪を許されて復帰したが、成氏と憲忠の対立はさらに深まり、享徳3年12月27日(1455年1月15日)に鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城成朝の家臣・多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった。享年22。直後、岩松持国率いる別働隊が管領屋敷を襲撃し、長尾実景・景住父子も殺害した。憲忠殺害の翌年の康正2年(1456年)、成氏は憲忠殺害に対する弁明の書状を幕府に対して提出しているが、その内容には謝意はなく、殆ど開き直りに近いものであったという。
 父の憲実は憲忠殺害を知ったとき、大いに嘆いたと言われている。関東管領は弟の房顕が継いだ。 

上杉房顕 上杉顕定

 永享の乱と結城合戦に勝利した上杉憲実は房顕以外の子供を全て出家させた。房顕はしばらく従兄の越後守護・上杉房朝の元に留め置かれたが、文安元年(1444年)に父から越後と丹波の所領を与えられ、上洛して8代将軍・足利義政の近臣として仕えた。享徳3年12月27日(1455年1月15日)に兄が鎌倉公方・足利成氏によって暗殺されると、その弟に当たるという経緯などから享徳4年(1455年)3月に新たな関東管領に任命され、成氏征討軍の大将として関東へ下向して同年4月頃に上野平井城へ入った(享徳の乱)。
 それ以降は鎌倉から古河へと拠点を変えた成氏と何度も交戦したが、長禄3年(1459年)には武蔵太田庄の戦いで成氏軍の前に大敗を喫した。寛正4年(1463年)には、房顕の右腕であった山内上杉家の家宰の長尾景仲が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが、幕府に拒絶された。寛正7年(1466年)、五十子にて陣没した。享年32。房顕の度重なる敗退は、関東管領家の衰退にもつながったのである。


 寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が武蔵国五十子陣にて男子なく陣没した。家宰の長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして上杉一族の重鎮である越後守護・上杉房定の子に房顕の跡を継がせようとしたが、房定はこれを拒否した。このため同年10月には室町幕府8代将軍・足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、房定の次男である龍若(顕定)が山内上杉家の家督を継いで当主となった。
 時は享徳の乱の最中であり、古河公方・足利成氏と関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、文明3年(1471年)には古河御所を占領してこれに勝利している。しかし文明8年(1476年)に有力家臣の長尾景春が古河公方と結んで離反したため苦境に陥り(長尾景春の乱)、翌文明9年(1477年)正月には五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。この乱の背景には顕定の入嗣前に既に顕在化していた上杉氏体制内部の権力闘争があったとされる。
 更にこの乱に乗じて攻め入った成氏軍に上野国白井付近まで追い詰められた顕定と扇谷上杉家の上杉定正は、文明10年(1478年)正月に幕府と成氏の和睦を取り持つことを条件に古河公方と和睦した。その後、景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、道灌の活躍を通じて扇谷上杉家が台頭するようになる。
 文明14年(1482年)に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立し30年に及んだ享徳の乱は終結したが、顕定は定正と対立し、定正が道灌を暗殺したのを契機に長享元年(1487年)に長享の乱が起こる。長享2年(1488年)に両者の抗争は本格化し、「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、関東管領の山内家とその分家的存在の扇谷家とでは実力が隔絶しており、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。
 明応2年(1493年)、もとは山内家の領国で堀越公方に譲られていた伊豆国へ伊勢宗瑞が討ち入るという事件が起こった。明応3年(1494年)に両上杉氏の抗争が再発すると、定正は伊勢宗瑞の軍を相模・武蔵へ招き入れたが、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死したため伊勢軍は撤退した。長享の乱初期に扇谷家を支援していた古河公方もこの頃には一転して山内家方となっていた。
 明応5年(1496年)には顕定の軍勢は相模国に攻め入り、7月に宗瑞の弟・伊勢弥二郎の立て籠もる小田原城を自落させた。この戦いで相模の西郡は「一変」したという。その後、東郡へ軍勢を進め上田氏の実田要害を囲み、更に定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて河越に軍を進めた。明応6年(1497年)に顕定は河越城に対する前線基地として武蔵上戸に陣を置き古河公方・足利政氏を招いた。政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還するが、上戸陣はその後も7年にわたり山内家の陣所として機能した。
 永正元年(1504年)に駿河守護・今川氏親と伊勢宗瑞の援軍を再び得た上杉朝良と戦うが(立河原の戦い)、2,000人余りの死者を出して大敗する。しかし実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に及び、翌年には朝良を河越城に攻めて降伏させ、朝良の江戸隠居を条件に和睦した。長享の乱における事実上の勝利宣言といえる。
 明応3年(1494年)に古河公方と結びついて以来、顕定は東国における公方-管領体制の再構築を図っていた。特に足利政氏とは、礼的な秩序における待遇の向上を実現させ、更には政氏の弟(上杉顕実)を養子として迎え入れるなどして密接な関係を築いた。顕実はそれより以前に養子となっていた憲房を差し置き、顕定の正統な家督後継者に据えられたとみられている。後に政氏と子の高氏(後の高基)が不和となると、顕定はこれを憂えて出家し両者の仲介に立った。
 古河公方の内乱を収めた直後の永正6年(1509年)7月、顕定は養子の憲房と共に越後に攻め入り長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国に追放した。この侵攻は一般的に、永正4年(1507年)に顕定の弟で越後守護を務めていた上杉房能が守護代の為景を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの報復と捉えられている。房能の仇討ちを大義名分として越後国に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。しかし顕定の越後統治は非常に強硬でうまくいかず、国人の反発を受けた。翌年になって長尾為景らの反攻に遭う。翌永正7年(1510年)6月20日の長森原の戦いで敵の援軍であった高梨政盛に敗北し、衆寡敵せずして自刃、享年57。
 死後、顕実が関東管領を継いだが、越後から帰還した憲房が顕実と衝突して内乱を起こし、山内家の衰退に繋がった。
 新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承をもつ塚が点在していたが(下原百塚)、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ顕定の墓と伝えられている。近代に行われた一部の発掘調査では鎧通しが出土しており、更には武具や人骨も出土したという話もある。現在、管領塚は史跡公園として整備されているが、元の塚からは移築されたものである。 

上杉憲房 上杉憲政

 又従兄弟にあたる関東管領・上杉顕定の養嗣子として、山内上杉家の当主となった。顕定と共に越後守護代・長尾為景を討つため出陣し、上野白井城に駐屯していたが、顕定が長森原の戦いにおいて戦死すると撤退する。関東管領職は顕定の遺言により古河公方・足利成氏の次男・顕実が継いでいたが、憲房は顕実と争って勝利し、永正9年(1512年)に山内上杉家の家督を継ぎ、永正12年(1515年)の顕実の死によって関東管領職をも継いだ(永正の乱)。
 しかし、家臣・長尾景春の離反、扇谷上杉家の上杉朝興や相模国の北条氏綱、甲斐国の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況の中で病に倒れ、大永5年(1525年)3月25日、59歳で死去した。実子の憲政は幼少のため、先に養子として迎えていた憲寛(古河公方・足利高基の次男・晴直)が跡を継いだ。


 大永5年(1525年)、父・上杉憲房が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子であった上杉憲寛(古河公方・足利高基の子)が家督を継いで当主となった。家臣の古幡良家の娘を養女とする。享禄4年(1531年)、憲寛を追放して山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となった。
 天文10年(1541年)、信濃の村上義清・諏訪頼重、甲斐の武田信虎らは上野と隣接する信濃小県郡へ侵攻し、5月23日の海野平合戦で海野棟綱を破ると棟綱は上野へ逃れ、憲政に救援を求める。同年7月4日に憲政は救援のため信濃佐久郡への出兵を行うと、諏訪郡の諏訪頼重は盟約関係にある武田・村上らに無断で憲政と和睦し、所領を分割する。
 この頃、伊豆・相模の後北条氏が武蔵へ進出し、憲政の軍をたびたび破った。北条の勢力拡大を危惧する憲政は天文14年(1545年)に仇敵扇谷上杉家の上杉朝定と結び、後北条氏に接近していた古河公方・足利晴氏を上杉方に引き込み、駿河の今川義元とも和睦した。そして古河公方・関東管領の威光により周辺武士を糾合し、義元の挙兵で北条氏康が駿河へ出陣した隙に、晴氏・朝定と共に北条綱成が守る河越城を大軍で包囲した。しかし翌天文15年、今川との戦いを収めた氏康に河越城の戦いで大敗を喫し、3000人余の将兵を失って居城である上野平井城に逃れた。
 その後は勢力の立て直しを図ったが、天文16年(1547年)に村上氏との連携により信濃志賀城救援に出兵した際に、佐久郡小田井原における小田井原の戦いで武田晴信(信玄)に大敗を喫した。武蔵では自立的な忍城の成田氏に続き、代々の山内上杉家家臣も離反していき、憲政は次第に上野に押し込められていった。天文21年(1552年)、武蔵の最前線たる御嶽城が落城し居城の平井城も3月に落城した。憲政は山内上杉家家宰・足利長尾氏や東上野の雄・横瀬氏を頼ろうとするが、すでに両氏の居城へは入れず、利根吾妻の上野北部へと向かい、そのまま越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れていった。ただ、『上杉家御年譜』には永禄元年(1558年)に憲政が越後入りしたと伝えており、この説が有力とされる。平井落城で上野南部は後北条氏の領国と化したが、越後に入る前は上野中部・北部にあって北条に対抗していたとされる。しかし、古河公方が足利義氏擁立で北条の傀儡と化すると、その命令に屈するかたちで横瀬氏,桐生氏,足利長尾氏,岩櫃城主・上野斉藤氏らも北条に降伏し、上野国内の親上杉勢力が壊滅したため、越後長尾氏を頼ることになったとされる。
 越後に入った憲政は景虎(のちの輝虎,謙信)を養子とする。『上杉家文書』では弘治3年(1557年)というが、時期には異論もある。永禄3年(1570年)には、旧臣の足利長尾氏と安房の里見義堯の要請もあって、憲政は景虎に奉じられて関東へ進攻した。北条康元が入っていた沼田城をまず落とし沼田氏を復権させると、白井長尾氏,総社長尾氏,箕輪長野氏はすぐさま上杉軍に呼応し参陣したとみられる。一方で北条方として活躍した那波氏・赤井氏は応じず、のち謙信に滅ぼされている。さらに北条の支配を受け入れていた厩橋長野氏・上野斎藤氏は抗戦した上で服属した。
 翌年の小田原城攻撃までに謙信が関東諸国の諸将を糾合して大軍を編成するが、この時に集まった諸将を載せた「関東幕注文」がある。ただし謙信を憲政の名代とする史料があるため、幕注文の諸将は関東管領の上杉憲政の名の下に集った可能性も指摘されている。また宇都宮氏,小山氏,古河公方勢など反北条の諸勢力のほか、藤田氏,三田氏など一旦北条に服属した国人も多い。
 北条軍との戦いは氏康が小田原城へと籠城したため長期戦となった。永禄4年(1561年)3月には鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に関東管領職を譲渡した。このとき、景虎に上杉姓と「政」の字を下賜して上杉政虎と名乗らせ、同時に山内上杉家の家督,系図,重宝も譲渡した。その後は隠居して剃髪し、光徹と号した。以後は謙信が関東経営に携わり、憲政の関与はみえなくなる。
 天正6年(1578年)に謙信が死去すると、2人の養子・景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)との間で家督をめぐる御館の乱が勃発する。憲政は北条氏との関係を重視し景虎を支持したとされる。当初は拮抗していた争いも、越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝が有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされる。天正7年(1579年)、憲政は景虎の嫡男・道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かったが、2人は景勝方の武士によって討たれた。享年57。一説には四ツ屋付近で包囲され、自刃したとも云われる。墓は景勝が転封された米沢の照陽寺にある。 

上杉憲重 足利晴直
 父が後北条氏の圧迫を受けて越後へ逃れた後に生まれた。山内上杉家の家督は義兄弟の上杉輝虎(謙信)が継いだため、憲重が継ぐことはできなかった。林泉寺で出家して三宝院と称した。上杉家の後継者争い(御館の乱)では、父とともに上杉景虎側に回ったが、和解交渉の途上で上杉景勝方の兵士に討たれたと云われる。江戸時代初期に憲重実子の存在が確認され、憲重の子は助命されたと思われる。憲重自身も助命されたと伝える資料もある。

 上杉憲房(当時は男子がいなかった)の養嗣子となる。大永5年(1525年)に憲房が死去した時、実子の憲政は幼少だったことから、跡を継いで関東管領となった。
 その頃、扇谷上杉家の上杉朝興は台頭する北条氏に対抗するために、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた小弓公方・足利義明との連携を図り、更に上杉一族の結集を目指して山内上杉家の当主である憲寛にも協力を求めた。憲寛はこれに応じたものの、実父の高基とその弟である義明は古河公方の地位を巡って敵対関係にあり、朝興を介在して義明とも同盟関係に入った憲寛は結果的に父や兄とも戦うことになった。
 更に享禄4年(1531年)9月、憲政を支持する家臣らに攻められ、管領職を奪われて追放される。以上の経緯から古河に戻ることができず、義明の支配下にあった上総宮原に移住して、同地で死去した。
 孫の義照からは宮原氏を称し、江戸幕府の旗本となる。 

上杉顕実
 永正7年(1510年)の顕定の死後、関東管領を継承するが、同じ顕定の養子の上杉憲房と対立する。顕実は実兄の古河公方・足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、関東は二分された。顕実は長尾顕方や成田顕泰の支援を受けて武蔵鉢形城に拠ったが、永正9年(1512年)に憲房支持の横瀬景繁,長尾景長に攻められて敗北して実権を喪失する(永正の乱)。政氏を頼って逃亡し、まもなく病没した。